何だかんだでジャン(軍属じゃねえんだから、階級呼びは止めて名前で呼べと言われた)の家に住むことになってから一ヶ月近くが経とうとしている。
オレ達の関係は前と変わらず、友達以上恋人未満といった感じで微妙な関係のままだ。
ジャンがオレのことをまだ好きでいてくれているのは見ていてわかる。この関係が崩れるかどうかはオレ次第。
どうしたいんだろ、オレは…
ジャンのことを考えながら掃除を始めると、トゥルル、トゥルルと部屋に機械音が響き、掃除していた手を休め電話を取る。
「はい、ハボックです」
人の家の電話に出るというのは何だか変な気分だ。本来なら対応しなくてもいいかとも思うが、偶にオレ宛ての電話もあるから(就職活動の時、連絡先をここにしてあるからだ)出ない訳にもいかない。
前にジャンから電話があった時に「ハボックです」と言って出たら、結婚したみたいだとはしゃいでいた。
『そちらにエドワード・エルリックさんはいらっしゃいますでしょうか?』
「ただいま〜」
「おかえり!」
ご飯をテーブルに並べるのを中断し、玄関に向かう。
よっぽどのことでもない限り、ジャンはいつも時間通りに帰ってくる。
「ご機嫌だな。何かいいことでもあったのか?」
「この前面接行った所が受かったんだ!」
ピースをしながら言えば「やったな!」と頭を撫でてくれると思ったのに、ジャンの顔が一瞬曇る。
何か変なことを言ったか?
「良かったな」
「う、うん」
直ぐに笑顔で喜んでくれたが、やっぱりいつもとどこか違う。
ジャンが軍服から私服に着替えている間に、ご飯の支度を調える。
今日はジャンの好きな唐揚げだ。もちろん栄養バランスも考えて、サラダも忘れずに。
「エドの手料理食べれるのもあと少しだな」
座りながら独り言のように言われた言葉に、びっくりし動きを止める。
「な、何で?」
「働く場所決まった訳だしここにいる理由もねえだろ?給料も入る訳だし」
ジャンの言うとおりだ。
お金がないからここで世話になっていた訳で、給料が入ればアパートだって借りられるし、オレがここにいる理由はない。
この生活が続くと思ってた方が間違いだ。
「そう、だね……」
その後は気まずい空気のまま、二人で黙々と箸を進めた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
朝起きてみれば、昨日の気まずい空気は嘘のようになくなり、いつも通りの朝だった。
きっとジャンが気を使ってくれたんだろう。
ジャンを見送ってから掃除をしようとしてはたきを持つと、カレンダーが目につく。
そろそろ今月のカレンダーを破る時期だ。
「あれ?そういえば…」
いつから生理きてなかったけ?
前にきた日から指折りしながら数えてみれば、サーッと血の気が引く。
前から周期がズレることはよくあったが、今回は長い。その上、もしかしたらあの時と思い当たる節があるせいで、不安が募る。
いてもたってもいられなくて、はたきを床に放り投げ、上着と財布を掴んで部屋を飛び出した。
「検査の結果妊娠はしていませんでした」
先生の言葉に安堵してほっと息を吐けば、先生が苦笑をこぼす。
「お子さんが生まれるのをお望みでないなら、きちんと相手の方に避妊するように言ってくださいね。まだ若いですし生むにしても堕ろすにしても、体にも経済的にも負担が掛かりますから」
諭すように優しく言われた言葉に、苦笑いで返すしかなかった。
生理がこないのはホルモンバランスの崩れだと診断され、体を鍛えすぎるのも控えるようにとのことだ(今でも毎日筋トレは欠かしていない。鍛えておいて損はないはずだ)。
「はが…エドじゃないか」
一番会いたくない奴に限って、タイミング悪く会う。
産婦人科を出てばったり。もう少し違う場所ならまだよかった(会わなくて済むならそれが一番いい)が、場所が悪すぎる。
大佐の視線がオレから産婦人科の看板へ移り、またオレへと戻る。
「妊娠でもしたか?」
「してねえよ。してたとしてもあんたには関係ないだろ」
「関係なくはないだろ?私の子供かもしれないしな」
どうせ自分の子供だろうが何もしないくせに。
もし言ったとしても堕ろせと言われて終わりに決まってる。
「私の子供ができたならきちんと責任は取るよ。結婚してもいい」
何を言ってるんだ、こいつは。まぁ、実際に妊娠はしてないとわかった上での発言だろうが。
若しくは、結婚というものがどういうものかわかってないかだ。
コツコツとリズミカルに音を立てながら、オレとの間を詰めてくる。
「色々考えたんだが、エドをフったのを惜しく感じてね。君は見た目もいいし、頭もいい。それに知らないだろうが大総統のお気に入りだったんだぞ?口が悪いのが玉に瑕だが、それが気にならないくらいに魅力がある」
オレの前髪に触れる大佐の手を、払いのけたい衝動にかられる。
大佐の結婚の条件は、容姿と頭脳と地位があれば誰でもいいのだ。オレである必要性はない。たまたま条件に当てはまった人物がオレだっただけ。
「それと最近気の乗らない見合いを勧められてね。地位はあっても自分じゃ何も出来ないような箱入り娘は好きじゃない。君と婚約すれば穏便に断れるだろ?」
「そんな理由で大佐と婚約なんてまっぴらゴメンだね。勝手に見合いでも何でもしてろよ」
オレなんで前こんな奴が好きだったんだろ。今となったら話していても、腹立たしさしか感じられない。
苛々としながら言ったが、大佐はお構いなしといった感じに話を進める。
「私と結婚したら何不自由させないよ。好きな物も買ってあげるし、どこにでも連れてってあげよう」
それで口説けると思ってんのか?中にはそれでいいと思う人もいるのかもしれないが、オレは絶対に嫌だ。
お金が無くても愛さえあればなんてことは言わないが、それでもお互い好きで結婚したい。
「大佐とは絶対に結婚しない」
きっぱりと断る。きっとこの先大佐をまた好きになる事はないだろう。前の一件でそれ位に傷付けられた。
大佐は意外だという表情をして、腕を組む。
「ハボックにでも惹かれ始めたか?あいつはやめとけ。薄給だし出世してもそう上まではいくような奴じゃないしな」
「それ以上ジャンを馬鹿にするならぶん殴るぞ」
拳を握れば、痛いのは勘弁だと肩をすくめる。
偉い人が好きな訳でもなければ、贅沢して過ごしたい訳でもない。だから出世なんかしなくてもいいし、薄給だって構わない。
「ならこうしよう。君が私と結婚するならハボックの活躍ぶりを大総統に話してあげよう。将来的にプラスになる。しかし断るなら話は逆だ。ハボックの手柄は私がいただくとしよう。出世もまずしないだろうな」
「…卑怯者」
ジャンは大佐の直属の部下だ。大佐が言ったような情報操作くらい簡単にできるだろう。
オレのせいでジャンの将来を悪くするようなことをできる訳がない。
二択あっても答えは最初から一つしか選べない。
こんな事になってから、自分の気持ちがわかった。
もっと早く気付けば良かった。
後悔した時には、もう間に合わない…
「ただいま…」
「おかえり!今日はシチュー作ったんだ。今までの中で最高のできで‥」
ジャンが口を挟む隙がないくらいに早口でいいたてたが、「エド」と低めに言われた声に口を止める。
視線を感じるが、ジャンの方を見れない。
「大佐と婚約したんだって?」
「うん…ごめん」
「なんで謝るんだよ」
苦笑しながら頭をポンポンとされ、溢れそうになる涙をグッと引っ込める。
「俺はエドが幸せなら何も言わねえけど…」
「幸せだよ。初恋の人と結婚できるなんて」
「…ならどうして泣いてんだよ」
笑ってるつもりだった。
精一杯の笑顔。そのつもりだったのに、ジャンに言われて初めて涙が頬に流れているのに気付いた。
急いで隠すように涙を手で拭う。
「これは、その、ちょっとナイーブになって…」
「嘘言え。本当のこと言ってみろよ」
な?と優しい声で言われ、拭ったはずの涙がまた溢れ出してくる。
オレはいったい何回ジャンの前で泣いたんだろうか。
ジャンの前だと弱い自分が隠せなくなる。
「本、当は‥っく‥大佐、と…っ‥結婚、したく‥ない」
嗚咽で詰まり詰まり今日あったことを話せば、頭を撫でながら聞いてくれた。
その大きくて優しい手があまりに暖かくて、余計に涙を誘う。
手が暖かいと心が冷たいとか聞いたことがあるが、そんなのは嘘っぱちだ(現に大佐は手も心も冷たい奴だった)。
「やっと‥っ‥気付い、た‥んだ……好、き‥ジャンが…好き‥ひっく」
告白したのにジャンからの反応は無く、涙を拭きながら顔を見れば、ポカンと口を開けたまま静止している。
その姿がなんだか可笑しくて、涙も止まり吹き出してしまった。
「なんて顔してんだよ」
目を赤くさせているオレも人のことを言えないが、それ以上にジャンは間抜けっ面をしている。
「…俺バカだから言葉そのまま受け取るぞ?」
「こんな時に冗談なんて言わねえよ」
こんな時に誰が嘘泣きしながら告白なんてイタズラするかっての。そこまで性格悪くない。
体をグイッと引き寄せられ、嗅ぎなれたタバコの匂いが鼻をくすぐる。
「離してやらねえからな」
「オレだってしがみついて離さないからな」
ジャンの背中に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
ただこうしているだけで幸せになれる。
「キスしてもいいか?」
「いちいち聞くなよ。恥ずかしい」
いいと返事をする代わりに目を瞑れば、ジャンの少しカサついた唇が軽くオレの唇に触れ、顔中にキスが落とされる。
「幸せすぎて死にそう」
デレデレとした声を出しながら抱き上げられ、クルクルとその場で回りだす。
落ちないようにジャンの頭に抱きつき、危ないだろと軽く頭を叩く。
「大袈裟なんだよ」
喜んでもらえるのは嬉しいが、それ以上に照れくさい。
本当にオレなんかでいいのかと思える。ジャンにならもっと似合う人がいるだろうに。
「今日から同棲スタートだな」
下に降ろしてもらいながら聞いた言葉に首を傾げる。
「オレここに住むつもりないぜ?」
「なんで!?」
ジャンの驚きの声が大きくて、こっちもびっくりする。
そこまで驚くようなことだろうか。
「仕事も決まったしいる理由ないって言ったのはジャンだろ?」
「それは付き合う前の話だからだろ。もう恋人同士なんだから理由なんてそれで十分だろ?」
そう言われればそうかもしれないが、このままズルズルとジャンに甘えて生活していくのはなんか嫌だ。
一度きちんと自立して生活していきたい。甘えてばかりじゃダメだ。
「エドがいなくなったら俺は何食べて生きてけばいいんだよ」
「オレが来る前みたいに自分で作れよ」
「自分の作ったマズい飯なんてもう食えないっすよぉ…」
「エドの作ったご飯じゃないと食えない」と子供のように駄々をこねる姿が、まるで犬のようで可愛いと思ってしまう。
体はデカいが中身はオレより子供なのかもしれないな。
「たまには作りに来るからさ」
苦笑しながらそう言ったが、ジャンは納得いかないという顔をしている。
そのままご飯を食べ終えるまでジャンを説得するはめになった。
渋々承諾した感じだったが、最低週一で一緒にご飯を食べるということで落ち着いた。
「付き合うことになったし、やっぱその……ヤりたいとか思うの…?」
髪の毛をガシガシと拭きながらビールを飲んでるジャンに、ベッドの上に正座しながら聞くと、飲んでいたビールを吹き出す。掃除しないと床がベトベトになる。
ジャンは飲みかけのビールをテーブルの上に置き、オレの隣へ腰を下ろすと、オレの緊張を表すように、ベッドがギシリと音を立てる。
「そりゃあ俺だって男だし、そういう風に思うぜ?でもそれは愛情表現の一つでさ、エドが嫌なら無理にするようなことはしねぇよ」
だから安心しろと頭を撫でる手に、心臓がどくりと鳴った。
苦しい時いつもオレを安心させてくれた大きな手。
ジャンの手を掴み、頬を擦り寄せる。
「嫌じゃない。ジャンがシたいならオレは大丈夫だよ?」
ジャンならきっと大切に、優しくしてくれる。だから大丈夫。
それに一つになれたら、ジャンに近付けたら、もっとジャンを好きになれると思えた。
「俺に気使わなくていいんだぜ?」
頬を撫でてくれる手が凄く心地いい。こんなにも安堵できる手は母さん以来かもしれないな。
「そんなんじゃねえよ。ジャンがシたくないならいいや。もう寝る」
優しすぎるのも少し難点だな。せっかく人が恥ずかしいの我慢しながら誘ったのに。
ふぅとため息を一つ吐き、布団に潜り込めば、直ぐに布団を捲られ、ジャンの足の上に向かい合わせに座らせられる。
「シたくねえ訳ないだろ。今までどれだけ我慢したと思ってんだよ」
知ってるよ。
寝てるオレに何度も触ろうとして指を引っ込める。その姿を何回も見たからこそ、もう我慢しなくていいよって言いたかったんだ。
でなきゃ始めからこんな話を振ったりしない。
「途中で止められねぇからな?」
指で顔をクイッと持ち上げられ、お互いの息がかかる程の距離しかない。
綺麗なスカイブルーの瞳に、吸い込まれるような感覚を感じる。
「止めるなよ」
どちらからともなくしたキスは、さっきとは違う深いキス。
初めてジャンとしたディープキスは、少し苦くてそれでもとても甘かった。
「っくしゅ…」
朝、肌寒さで目が覚めた。布団の中とはいえ、さすがに裸で寝るのは寒い。
手探りで服を探すが、見付からない。きっとベッドの下にでも落ちているんだろう。
服を取るには布団から出てジャンを飛び越えるしかない。
「仕方ないか…」
寒いのを堪え、ジャンを起こさないように布団から出る。外気の寒さに身震いし全身が粟立つ。
ゆっくりジャンを跨ごうとしたら、グイッと手を引っ張られベッドの上にひっくり返る。
「いってぇな…何すんだよ」
オレを転ばせた犯人を睨むが、悪びれもなくへらへらと笑っている。
「まだ時間あるしここにいろって」
意を決して出た布団に再び戻され、少し冷えた体がまた暖まっていく。
触れ合った素肌に、夜のことを思い出してドキドキしてしまう。
「またヤりたくなってきたな」
腰のラインを滑るように撫でられ、背筋がぞくりとする。
朝から盛られてたまるか。
「バカッ」とペチリと頭を叩けば、冗談だと苦笑を漏らした。
冗談とか言いながら、オレがいいって言えば絶対に続けてたな。
「エド、今日は一緒に軍に行くぞ」
さっきとは打って変わって真面目な表情。
失念しかけていたが、まだ大佐の問題が残っていた。大佐が公に婚約発表したりする前に(まだジャンにしか言ってないそうだ)、きちんと断らないと面倒なことになる。
「うん…」
ジャンの胸に耳を当てれば、トクントクンと心地いいリズムが聞こえる。
オレのせいで将来を台無しにしてしまうかもしれないことを謝れば、きっとジャンはオレに謝る必要はないと言うだろう。
だから心の中で謝った。
ごめん、そしてありがとう。
ジャンに買ってもらったワンピースを着て、手を繋いで軍まで行った。
軍に入れば人とすれ違う度にびっくりした顔をされる。隠していた訳でもないが、殆どの奴がオレを男と思っていた(名前とオレの態度とかを見れば、誰だってそう思って当然だ)。オレとしてはそれでも良かったし、かえってその方が都合が良かったから、訂正もせずにそのまま放っておいた。
それなのに急にワンピースを着てジャンと手を繋いでくれば、驚くのは当然。
珍獣でも発見されたかのような視線を全身に浴び、居心地が悪い。きっとオレが帰ったらジャンは質問攻めに合うだろう。
「ジャン・ハボックです」
ノックした扉の向こうから、「入れ」という声が聞こえ、深呼吸を一つ。
ギュッと繋いでいる手に力を込めれば、ジャンがにっこり笑い大丈夫だと額にキスし、緊張を解してくれた。
「失礼します」
「なんだ朝っぱらから。書類ならいらんぞ」
仕事をやる気ゼロな台詞だ。ホークアイ中尉が聞いたら、確実に銃の的になるな。
「ん?エドか?」
大佐はジャンに隠れるように立っていたオレを覗き込むように、ソファに座ったまま首を傾げる。
「スカートとは珍しいね。可愛いよ」
綺麗な笑顔を惜しげもなくオレへ向ける。
昔だったらその笑顔も台詞も嬉しかった。でも今は違う。
「夜に迎えに行くと言ったのに待ちきれなくなったのかい?今から大総統に報告をと思っていたんだ。せっかく来たんだ、一緒に行こうか」
「…オレ大佐とは婚約も結婚もしない」
その一言で浮かべていた笑顔が一変し、眉間に皺が寄り、机の上に肘を付き手を組む。
空気が痛い。きっと大佐はフラれたことなんてないんだろう。プライドを傷付けるには十分だ。
「ハボックはいいのか?こんなチャンス二度と巡ってこないぞ?」
「確かにそうだと思います。でも俺は出世して偉くなる為に軍に入った訳じゃありません。苦しんでる人を助ける為に軍人になったんです。それなのに好きな子一人守れないんじゃ、なんの意味もないっスから」
それに頭悪いから元から上に立つような人間じゃないと苦笑を漏らす。
確かにジャンが司令官としてバリバリ働いている姿は想像できないと、心の中でこっそり思ってしまったことは内緒だ。
「引く気はないんだな?」
「ありません。軍人辞める覚悟で来ましたから」
数秒間の沈黙の後、ふぅと大佐の口から息が吐かれ、二人で息を飲み大佐の言葉を待つ。
「…わかった。今回は私が引こう。有能な部下を失うのは惜しいからな」
用が済んだならさっさっと出ていけと追い払われる。
執務室を出て出口に向かって歩くが、なんだか呆気なさすぎて、本当に断れたのか実感がわかない。
「ちゃんと断れたんだよな?」
「あぁ」
「軍人辞める覚悟だったなんて初めて聞いたぞ。本当に辞めさせられたらどうしてたんだよ」
「その時はエドのお世話になろうかと…」
「勝手に決めんなよ。いいけどさ」
きっとそうなったら自然にそうなるだろう。
でも軍人じゃないジャンなんて、いまいち想像できない。
「結果お互い無事に終わったしいいじゃねえか」
「そうだけどさ」
司令部の出口に着き、立ち止まってジャンの方を向く。
「仕事サボんなよ?」
「定時に帰れるように頑張りますよ。だから応援にキスして?」
唇で弧を描きそこに指を当てながら言うジャンのすねに、思いっきり蹴りを入れてやる。誰がこんな場所でキスなんかするか。
よくよく考えれば、さっき執務室の前でしてくれた額へのキスもかなり恥ずかしい。近くに誰もいなかったのが、唯一の救いだ。
「じゃあな。ご飯作って待ってるから」
うずくまって痛みと戦っているジャンに手を振って歩き出す。少し歩いた所で振り返ると、ジャンがまだ立っていて手を振ってくれた。
自然と顔がほころぶ。
こういうのを
幸せ
っていうのかな―――
――数週間後。
「ジャン!起きろ!」
休日で寝こけているジャンの体を揺さぶる。
今日はオレの引っ越しの日なのに、ジャンが寝坊したせいで朝ご飯が一緒に食べれなかった。
夜張りきりすぎなんだよ。おかげで腰が痛い。
「ん…?おはよう…」
まだ寝ぼけているのか、ボーっとした表情のまま体を起こす。
「オレもう行くぞ。ご飯はテーブルの上にあるから」
自分の荷物の詰まった鞄を持ちながら言う。荷物と言っても元から少ないから、昔から使っていたトランクと小さめの鞄で済んでしまった。引っ越し屋も必要ない。
「へ?今何時!?」
「もう十時過ぎてるぜ」
マジかよと、やっと状況に気付いて急いで着替え始める。
そんなに慌てるなら夜加減しろっての。
「見送りなら玄関まででいいよ。近くだし」
「てかよ、いい加減新しい家の場所教えろよ」
ジャンにはまだ引っ越し先を教えていない。決めたと言ってからずっと問い詰められてきたが、秘密だと言い通した。
「俺に知られたら不都合でもあんのかよ」
「そうじゃないけど…近いうちに教えるから、ね?」
玄関に立ち首を傾げそう言えば、約束だと小指を出され、指切りをさせられる。
そういうところが子供っぽくて可愛いと思ってしまうのは、オレだけだろうか。
「今までお世話になりました」
「あぁ。約束守れよ?」
「わかってるよ」
名残惜しそうな表情のジャンに、すぐに会いに来るからと言って家を出た。
新しい部屋はピカピカで、前の住人の生活感が何も残っていなかった(家電はある程度備え付けられているが、新品同様にピカピカにされていた)。
壁も貼り替えられたのか真っ白で、ジャンの部屋とは大違いだ。
ベッドもソファも机も無い部屋に鞄を置き、皺になる前にと服を取り出し、ハンガーに掛けクローゼットに収納する。
「さてと…」
服だけをしまい、今来たばかりの部屋を出て、隣の部屋のインターホンを鳴らす。
今日から御近所同士、挨拶は大切だ。
ピンポーンとチャイムを鳴らすと、直ぐガチャリとドアが開く。
「どうした?忘れ物か?」
出てきた住人は、さっきまたねと別れたジャン・ハボック。
「今日から隣に住むことになりました、エドワード・エルリックです。よろしくな」
ポカンとしているジャンに、したり顔で小指を立てて見せる。
「約束、守ったぜ?」
今日からまた新しいスタートの始まりだ―――
fin
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