俺 その日、俺はおじさんに教えられた定食屋を訪ねた。 時間は昼をとうに過ぎていて、けれどその店にはまだ数人の客がいるようだった。 「いらっしゃい!お一人ですか?」 「はい」 「ではどうぞ好きなところへ」 迎えてくれたのは、品のいい女性だった。どことなく若い方の山本シナ先生に似ている気もするが、先生よりかは年上だろう。まあ、先生の年も分からないけど。 この人がナマエさんだろうかと思いながら、俺は壁際の席についた。 おじさんが「ナマエちゃん」という呼び方をしていたから、もっと若いと思っていた。 さて、どのタイミングで、豆腐の話を聞こうか。 そんなことを考えていると、ほどなくして、彼女はお茶と手拭いを運んできた。 「メニューはお決まりになりました?」 「あ、いや」 先に豆腐料理を食べた方が、聞き出しやすいか。 昼飯も、さっきの豆腐以外何も食べてない。さて、何を食べようか。 俺がすぐには決められないほど、壁に貼ってあるメニューには豆腐料理が並んでいた。さすが豆腐屋のおじさんがすすめただけはある。 「豆腐料理が美味いと、教えられてきたんですけど」 「あら、そうなの。ええと、そうねぇ…あの子、今日は何がオススメだって言ってたかしら」 「?」 一人勝手に悩み始めた彼女に、おれは怪訝な視線を送った。俺は別に、オススメを尋ねたつもりはない。 しばらくすると、我にかえったのか、彼女は綺麗に笑って言った。 「ごめんなさいね、思い出せなくて。でも、ウチの料理はなんでも美味しいわよ」 「あ、いえ…じゃあ、豆腐丼ってやつを」 「豆腐丼ね、少しお待ちください」 もう一度にこりと笑うと、彼女は厨房へ向かって注文を伝えた。 「ナマエ!豆腐丼!」 「はーい」 すると厨房の方から、女性の声が返ってきた。俺の席からは姿は見えないが、どうやら厨房にも女性がいるらしい。 ああ、豆腐好きだというナマエさんは、厨房にいる方の人か。 なるほど、メニューに豆腐料理が多いわけだ。 「本当に、豆腐料理ばかりだな」 麻婆豆腐に豆腐ステーキ、揚げ出し豆腐や湯豆腐ばかりでなく、他にも様々な豆腐料理が並んでいる。本当に、どうして俺がこの定食屋に来たことがなかったのだろうかと、自分で不思議に思ってしまうほど心踊るメニューばかりだった。 「ウチの娘がね、すごい豆腐好きなのよ」 俺の独り言を拾って、女性が口を開いた。 「そうなんですか。俺…僕も、豆腐が好きで、豆腐屋のおじさんにここを教えてもらったんです」 「あら、この町の豆腐屋さんかしら?」 俺が頷くと、彼女は「じゃあ、あの人が次来たとき、サービスしなくっちゃ」と小さく笑った。 「お母さん!出来たよー!運んでー」 「ああ、はいはい!」 厨房から、ナマエさんの声が聞こえた。もうできたのかと、俺は少し驚いた。 しかしまあ、今から食事を始めるのは俺だけのようだから、早いのも当然なのかもしれない。 ナマエさんの母親は、すぐに丼を運んできた。 「お待たせしました。」 「いえ」 「母親の私が言うのもなんだけどね、娘の豆腐料理は美味しいわよ」 そう言うと、彼女は他の客に呼ばれてそっちへ行った。 俺は、ようやく一人になれたことにホッとして、初めて丼に目を向ける。 白ご飯の上に、ツナと、白い豆腐が贅沢に乗せられていて、その上にゴマダレ、そして青ネギと黒ゴマがかかっていた。 「いただきます」 端の方を少しだけ混ぜて、俺はそれを口に運んだ。 舌の上に豆腐が乗った瞬間から、俺の顔がほころんだのが自分でも分かった。ゴマダレとツナが豆腐と絡まり、豆腐の味を引き立てている。 口の中でポロポロと崩れる豆腐が、丼によく合っていた。 まさにこの丼に、ぴったり合う豆腐を選ばれているのが分かる。木綿豆腐ではなく絹ごし豆腐であることはもちろん、固さやこの舌触りまで、本当によく豆腐を選んでいるようだ。 さあ、これは一体どこの豆腐だろうかと、考えたところで、俺はあることに気づいた。 「…っ、これは」 それは、この豆腐が、さっきの豆腐屋の、しかも、俺が改良する前の方の豆腐であることだった。 「…」 一口、二口と箸を進める度に、胸が激しく鼓動するのが感じられた。感激のあまり、自分がどうにかなってしまったかのような錯覚をする。 なるほど、この料理には、あの豆腐ではいけなかったのか。俺は、自分で改良してもらった豆腐を思い出していた。 あれではダメだ。あの豆腐は、なめらかさが増してそのままで食べるのにはもってこいだが、この丼に合わせるにはなめらかすぎた。 彼女が、ナマエさんが、あの豆腐屋のおじさんに、豆腐を元に戻してくれと言った意味が、今の俺にはとてもよく分かった。 話を聞かなくても分かる。 彼女は、この味を守りたかったのだ。 「…おいしい」 俺の負けだと、素直に思えた。 . [*前へ][次へ#] |