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novel
浅緋に手を翳せ


 未明と呼ぶには遅く、明け方と呼ぶにはまだ早い。気忙しい東の空は既にうっすらと白み始めているが、夜明けにはしばらく時間が掛かりそうだ。
 運転席のドアに背中を預け、スクアーロは眼下に広がるナポリ湾を眺めた。昼間は観光客やら地元民やらで溢れかえるこの街も、夜陰に沈む姿は静かなものだ。もっともこんな時間に外をうろついている一般人がいたら、風向明媚と並んで評されるナポリの裏の顔を、我が身を以って思い知る羽目になるだろうが。
 つい数刻前、ナポリを根城とする質の悪い新興マフィアを叩き潰し、街の治安維持に図らずも少なからず貢献したスクアーロは、スモークフィルム越しに後部座席を覗き込んだ。
「う゛お゛ぉい!降りてこねぇのかぁ!?」
 辺り憚ることなく声を張り上げると、言い終えるより先にドンッと窓ガラスを殴り付ける音が返ってくる。防弾加工の施されたガラスは確かに頑丈だが、中にいる男が本気を出したら一撃で粉砕されてしまうだろう。下手に刺激したら修理費が馬鹿にならないと悟って、スクアーロは仕方なさそうに肩をすくめ、静かな街並みに視線を戻した。
「ボスさんは車も降りたくねぇくらいお疲れってかぁ」
 年のせいか?などと笑って独り言のように呟くと、不意に微かな駆動音がしてサイドガラスが引き下ろされた。窓越しに潜めた声が聞こえたはずもないが、次いで現れた不機嫌そうな顔に思わず身構えてしまう。
「いつまでサボってやがる。さっさと車に戻れ」
 ギロリと射掛けられた眼光は闇を吸っていつもより深い紅色に染まっている。肌を撫ぜる冷気と身体の芯を疼かせる怒気に小さく身震いして、スクアーロはニタリと笑い返した。
「そう焦るなって。せっかくナポリまで足を伸ばしたんじゃねぇか」
「ふざけるな。てめーが勝手に寄り道しやがったんだろうが」
「そりゃあナポリを見て死ねって言うからなぁ」
「ならもう心残りはねえな」
「う゛お゛ぉい!車ん中で炎はやめろぉ!」
 車ごと燃やされては敵わないとスクアーロが珍しく焦った声を上げる。不承不承憤怒の炎を収めたザンザスは、ついでのように手近にあったスクアーロの髪を思い切り引っ張った。
「っでえ!」
 びりっと頭皮を襲った痛みにスクアーロが思わず叫ぶと、フンとつまらなそうに銀髪を解放し、広い後部座席にゆったりと身体を沈める。車から降りる気はないらしいが、傍らの窓は開け放たれたままだ。
「夜が明け切る前に車を出せ」
「了解だぜぇ、ボス」
 ザンザスに気付かれないよう緩んだ口元を引き締め、スクアーロはルーフに両肘を上げてドアに凭れた。夜と朝の合間に漂うひんやりとした空気を吸い込んで、ぐるぐると肩を回す。ひと仕事した後の一服、などと言ったら自分たちの正体を知る者は顔を顰めるだろうが、夜通し剣を振るった後の心地良い疲れはすっかり身体に馴染んでいて、スクアーロはいっそ穏やかな気分でくあと欠伸を噛み殺した。
「たまにはこうしてのんびり過ごすってのも悪くねぇな」
「ハッ。それが返り血晒して言うセリフか」
「あ゛?黒地だから目立たねぇだろぉ?」
「そういうこと言ってんじゃねえ。ドカスが」
 呆れたように吐き捨て、ザンザスは窓枠に頬杖をついて目を閉じた。それきり無為な会話も途切れ、沈黙が落ちる。
 しばらくぼけっと空を見上げ、スクアーロは思い出したように呟いた。
「静かだなぁ」
 耳に聞こえてくるのは、微かな波音と意識して吐き出した自分の呼吸音。
 肌に感じるのは、全身の細胞一つ一つにまで馴染んだ気配。
 まるで、今この世界に生きているのが自分たち二人だけのようだ。
 そう思ってから数秒。パチパチと無駄な瞬きを重ね、スクアーロは耐え切れずに吹き出した。
「ぶはっ!似合わねぇにもほどがあるぜぇ!」
「…ついに頭がイったか、ドカス」
 憐憫より軽蔑の色を浮かべてザンザスがスクアーロを眺め見る。ひとしきり笑ってからスクアーロは気にすんな、と手を振った。


 まだ夜が明ける気配はない。街並みは濃い影を落とし、紺碧を誇る海は漆黒に沈んでいる。
 やがて朝日が昇れば、闇は光に浸食されるだろう。世界は新しい色に塗り替えられ、眩い輝きを人々はこぞって祝福するだろう。
 だがしかし、路地裏に忍んだ影たちは息を潜めて次の夜を待っている。


Fine.


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あきゅろす。
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