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novel
生成り色の香を纏え1


 廊下に続く窓の外では、夕闇に追い立てられて黄昏の残り火が掻き消え始めている。
 自分の部屋でもないのに、この扉の前に立つと何となくほっとするのは何故だろう。
「う゛お゛ぉい!今帰ったぜぇボスさんよぉ!」
「るせえっ」
「ぐあっ!」
 ノックも礼儀も無視して勢いよく扉を押し開けると、耳に馴染んだ怒鳴り声と共に何かがスクアーロの頭を直撃した。
 後で思えばこのとき、どうせまたいつもと同じグラスだろうと油断したのは完全にスクアーロのミスだった。ガシャンではなくごとりと鈍い音がして、ぶつかったそれが床に落ちる。
「…ん?」
 だらだらと顔に流れ落ちてくる液体の感触がいつもと違う。臭いもウイスキーの芳醇な香りではなく、鼻にツンとくる刺激臭だ。
 訝しく思って手で拭ってみると、白い手袋がどろりと少し粘り気のある黒に染まった。
「お゛わっ、なんだこいつぁ!」
 どうやらザンザスは珍しく真面目に執務中だったらしい。床に落ちたそれを確認すると、今日飛んできたのはグラスではなく、万年筆用のインク壷だった。
 しかも蓋なしの。
「う゛お゛ぉい!なにしやがるこのクソボスがぁ!」
 慌てて浴室に駆け込み鏡を見ると、長い銀髪がてらてらとした濡れ羽色に染まっている。
 広い洗面台に頭を突っ込み蛇口を捻ると、墨を溶かしたような流水が瞬く間に排水溝に吸い込まれていった。
 インクが少量だったせいか、辛うじて黒髪になることだけは免れたようだ。
 顔や髪にところどころ色は残っているが、しばらくごしごしと擦っていると粗方は流れ落ちた。
「チッ、とっとと報告だけ済ませて風呂にでも入るかぁ」
 女ではないのだから容姿など気にしないが、斑に染まった自分の顔というのも薄気味が悪い。
 こうなったらさっさと自分の部屋に帰ろうと決め、スクアーロは手近にあったタオルで適当に顔と髪を拭ってからザンザスの部屋へと戻った。
「…てめぇ…」
 人の頭にインクをぶちまけておいて、何食わぬ顔で書類を読んでいる男を見ると、ついイラっとする。だがここで噛み付いていたらいつまでも風呂には入れない。
 つかつかとザンザスの前に進んで、スクアーロは適当に報告だけ済まそうと口を開いた。
「…なんだ、この匂いは」
 不意に書類から目を上げたザンザスが、顔を顰めて言う。話し出すタイミングを崩されて、スクアーロは一瞬言葉に詰まった。次いで出した声がやけに間抜けに聞こえる。
「あ?さっきのインクの匂いじゃねぇのか」
「違う。甘ったるい香水みてえな匂いだ」
「香水だぁ?別にオレはつけてねぇぞ」
 言いつつ自分の袖をくんくんと嗅いでみるが、既に鼻が慣れてしまっているのか良く分からない。大体、香水なんてものをつけて自ら敵に正体を晒す暗殺者がいるわけがない。
 ただひとつ思い当たることといえば。
「あーそいや、今日会った跳ね馬のやつは何かつけてたかもな」
「…キャバッローネのガキか」
 同盟ファミリーという間柄、ディーノとは顔を合わせる機会も多い。特に今はミルフィオーレとの戦争を控えているため、ヴァリアーといえど表に立たざるを得ない状況が続いていた。
 今日も水面下で極秘裏に推し進めている計画のため、ボンゴレの代表として密かにスクアーロがディーノの元まで出向いて行ったのだ。
「オレは香水の銘柄なんて知らねぇが、甘い花みてぇな香りがしてたぜ。きっとそれだろ」
「カスの分際で他の男の匂いをつけて帰ってくるとはな」
「移っちまったもんはしょうがねぇだろうが。だいたい今日の会合だって、本来ならボスであるお前が行くべき…」
「それ以上余計な口叩いてみろ。かっ消す」
「っ!」
 ぐっと低められた声に、スクアーロは反射的に口をつぐんだ。ギロリと敵を威嚇するような三白眼は、ザンザスの機嫌が最高潮に悪い証拠だ。
 だが、今までの会話でなにがそんなに気に障ったというのだろう。どちらかといえば、無理矢理ボスの代理で会合に行かされて、疲れて帰って来たところにインクをぶちまけられた自分の方が怒っていいと思う。
「何怒ってんだぁ、ザンザス」
 スクアーロは素直に疑問を口にしただけのつもりだったのだが、その瞬間ザンザスの纏う気配がざわりと殺気を帯びた。
 ガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、突然伸びてきた腕に首根っこを引っ掴まれても、スクアーロの頭には疑問符が増えただけだ。
「来い」
「う゛お゛ぉい!」
 襟首を掴まれて引き摺られるように連行される。パチリと照明の切り替わる音がして、連れて来られたのはさっきの浴室だと分かった。


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