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novel
天色の牙を剥け1


 生殺与奪権は常にこちら側にあった。だから、手持ち無沙汰に弄んでいたその小さな匣を、衝動のままに壊してしまうことも出来たのだ。
 実際そのつもりで呼び出した白髪の獅子は、まだ生え揃わぬたてがみをオレンジの炎に揺らがせ、玉座の傍らで主の命令が下るのを待っている。
「…チッ」
 音高く舌打ちを零した男は、これ以上不愉快な作業はないと言わんばかりの苦々しい表情を浮かべ、おもむろに自身の右手を掲げた。
 隊の紋章を刻したリングにぶわりとオレンジの炎が燃え上がる。摘み上げた匣に照準を合わせると、荒々しく乱れ狂った炎は抑え切れぬ憤怒に搦め捕られ、共に匣の中へと吸い込まれていった。
 カチリと蓋が開き、勢いよく炎の塊が飛び出す。
 見知らぬ匣を敵と認識したらしい獅子が、主を守るようにすっと一歩前に出た。それを片手で制し、男は燃え盛る炎が落ち着くのを待った。
 炎は徐々に輪郭を成し、余分な火片を弾き飛ばして一つの形へと纏まっていく。最後にピシリと強靭な尾を跳ねさせ、周囲に青色の水飛沫を撒き散らしたのは、まだ若い一匹の鮫だった。
「出やがったか」
 その姿を見るなり、男が思いきり顔をしかめる。ゆらゆらと宙を泳ぎ始めた鮫は、一定の距離を保ったまま探るような眼差しを向け、こちらの様子を窺っているようだった。
 自身の匣を開けた、いわば主人に対し、不遜な態度も甚だしい。牙を剥き出し警戒心をあらわにする下等生物の姿は、もはや単純な兵器とは呼べないだろう。
 物言わぬ相手の疑念を汲み取ったように、男は口汚く吐き捨てた。
「クソ生意気なカスザメが。てめぇの主はオレじゃねぇ」
 だが、と一旦言葉を切ったのは、知能の低い生物に解りやすく思い知らせるためだ。
 絶対的強者は誰なのか。真に従うべき相手は誰なのか。
 それまで抑えていた気を全開にし、紅色の双眼でギロリと相手を睨み据える。
 噴き上がる殺気は灼熱のマグマにも似て、経験の浅い海洋生物などに太刀打ちできようはずもない。年若い鮫は怯んだようにびくりと身体を跳ねさせ、次に語られる男の言葉を待っているようだった。
 それに少しだけ満足し、男はゆっくりと噛んで含めるように告げた。
「てめぇはオレの存在を忘れるな。そのカスより小さい脳みそに、オレの名をしっかり刻み込んでおけ」
 言い終えるなり、男は開けたばかりの匣を掲げ、短く「戻れ」と命じた。一瞬反抗的に炎を燃え上がらせた鮫は、じっと睨むように男を見据えてから、ひらりと緩く弧を描いて匣へと戻った。
「フン。どいつもこいつも、気にいらねぇ」
 パタリと閉じた匣を力任せに握り潰し、男が面白くなさそうに呟く。関節が白くなるほど強く握りしめると、八方の角が手の平に深く食い込んだ。
「動物タイプの匣ってのはどいつもああなのか?」
 疑問形で語られた言葉に答えを返せる者はいない。ただ白色の獅子がのそりと立ち上がり、主の意向を問うように上目遣いで首を傾げたのみだ。
 その忠臣ぶりに、男は小さく笑った。
「そういやてめぇも同じだったな」
 手招きして傍らに侍らせ、指先に触れた柔らかなたてがみを梳く。だが男の口元は微かな嘲笑を孕み、その目は決して笑っていなかった。
 大人しく身を伏せ心地好さそうに目を細めている獅子も、後足の筋肉を張り詰めさせ、どこか隙を窺うような気配を漂わせている。
 互いに油断を見せれば、一瞬にして喉笛を噛み切られる。
 主従を繋ぐ弱肉強食の剣呑さを、男はむしろ好ましく思っていた。命を賭けた日々の攻防があってこそ、絶大なる己が力の証明になる。
 ククッと喉奥で楽しそうに笑って、男は獅子の首元を軽く叩いた。


 地下へと続く階段を一気に駆け降り、スクアーロはこの城の中で最も陰鬱かつ凄惨な名を冠した部屋の扉を、思い切りよく押し開けた。
「う゛お゛ぉい!来たぜぇ!」
 一段低い床に足を踏み入れた瞬間、ひんやりした空気が服の裾からぞわぞわと這い上ってくる。灰色の天井に染み付いた何十人何百人の恐怖と絶望が、ひんやり冷たい指を差し入れてくるようだった。
 更にコンクリ打ちされた壁一面には古今東西から集められた用途不明の器具が並び、隅に備えられた排水溝はついさっき何かを洗い流したかのように濡れている。
 だがそんなことは意にも介さず、スクアーロは薄暗い室内をぐるりと見渡し首を捻った。
「なんだぁ?いるのはお前だけか、ベスター」
 近付きながら呼び掛けると、部屋の中央に据えられた粗末な寝台の側で白色の獅子がのそりと顔を上げた。
「今すぐ拷問室に来い、ってお前のご主人サマに言われたんだがなぁ」
 ついでのようにしゃがみ込み、無防備に顔を寄せて立派なたてがみをわしゃわしゃと掻き回す。僭越な手に自慢の毛並みを乱されても、ベスターは鬱陶しそうに緩慢な瞬きをしただけだった。
「てっきりまた新技の実験でもするのかと思ったぜぇ」
 当てが外れてぼやいてみるが、呼び出した本人がいないのではどうしようもない。
 触り心地のいいベスターのたてがみをひとしきり弄繰り回してから、スクアーロしみじみと感じ入ったように呟いた。
「にしてもお前はデカくなったなぁ、ベスター」
 隆々とした体格も豪奢なたてがみも、おまけに誰かさんにそっくりな堂々たる風格も、もう一人前に成体のものだ。
 それに比べて、とスクアーロは懐から自身の匣を取り出し、リングに灯した青炎を緩く注ぎ入れた。早く早くと急かすように震えた匣から、爆音にも似た音を立てて一匹の鮫が飛び出してくる。
「うちのアーロはまだこんなもんだぜぇ」
 ぐるりと空中で一回転してみせた暴雨鮫は、まだ身体のあちこちに成長の過程を残していた。匣に個体差などというものがあるのかは分からないが、ベルの嵐ミンクやルッスーリアの晴クジャクと比べても、成長度合は緩やかと言えるだろう。
 外の空気を味わうように悠々と泳ぎ回ってから、アーロはぴしゃと身を翻してスクアーロの元へと降りてきた。脇の下に潜り込んで甘えるように鼻面を擦り付ける仕草は、どこか人懐っこい駄犬を彷彿とさせる。
「ったく、てめぇは…。いつででも手が掛かって参るぜぇ。ちっとはベスターを見習え!」
 呆れたように言いながらも、スクアーロの口調には嬉しさが滲み出ている。我が物と定めた匣に懐かれれば悪い気はしない。毎日一緒に行動していればおのずと愛着も沸くし、それを手ずから育てているとなれば尚更だった。
 すべすべした首下の肌を撫でてやっていると、不意にアーロが身体を強張らせたのが分かった。
「どうしたぁ?」
 と声を上げてから、背中を刺す猛々しい気配を感じ取る。思わず緩んだ口元を隠し、スクアーロはくるりと振り返った。
「よぉボス、ようやくのおでましかぁ!」
 おせぇぞ、と文句の一つでも加えてやろうとしたスクアーロは、戸口に肘を付いたザンザスが物凄い形相でこちらを睨んでいるのに気付き、慌てて口を噤んだ。見慣れた憤怒など遥か彼方、その眼光の鋭さはいっそ憎悪や殺意に近い。
 だが、この男をそこまで怒らせた理由が見当たらず、スクアーロは表情を改めきゅっと眉を顰めた。
「何かあったのか?」
 自分が怒らせたのでなければ、何かザンザスの神経を逆撫でするような事態が起こったのかも知れない。まさかミルフィオーレが本部に手を出してきたか、と慌しく思考を巡らせたスクアーロに、ザンザスは皮肉気に口元を歪めた。
「フン、てめーらの気色悪い仲良しごっこに寒気がしただけだ」
「…んだぁ、そりゃあ」
 思いがけない言葉に拍子抜けして反応が遅れた。どうやら不機嫌の原因は自分とアーロの他愛もないじゃれ合いにあったらしい。
 自分だってベスターを可愛がっているくせに、と喉元まで出掛かった言葉を飲み込んで、スクアーロはひょいと肩を竦めた。仕方なくアーロに向けて匣を掲げてみせる。
「待て、まだ戻すな」
 続く指示を止めたのは意外にもザンザスの声だった。珍しいものでも見たように片眉を上げ、スクアーロはこちらへと近付いてくるザンザスの姿をまじまじと眺めた。
「やっぱ新技の実験かぁ?」
「違う」
 答えたザンザスの顔がやけに近い。あれ、と思う間もなく薄汚れた天井が目に入り、背中に硬い感触が押し付けられた。ぱちくりと目を丸くしてから、スクアーロは努めて冷静に尋ねた。
「で、なんでオレは拷問台に押し倒されてんのか聞いてもいいかこのクソボス」
 ピクピクと引き攣るこめかみに気付いたのか、ザンザスが喉奥で低く笑う。


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