novel 秘色のうらを接げ 取るに足らぬと切り捨ててしまえる程に、それらはごく些細なことでしかなく。 目に付くという事実こそが何より神経を苛立たせた。 薄雲の紗を重ねるように、空の色が暗く重く塗り替えられていく。申し訳程度に差し込んでいた光も遂に途切れると、瞬きした瞼の上にふっと濃い影が落ちた。 窓の外に目をやれば、いつの間にか日も暮れかけている。私室へ向かう足取りを早め、ザンザスはコートの裾をバサリと捌いて廊下の角を曲がった。 それに追い縋るように、濁音を纏わりつかせた喧しい声が鼓膜を弾く。 「う゛お゛ぉい!待ちやがれ、ザンザス!」 男の名を呼び捨てる人間は、今も昔もこの世に数える程しかいない。 己を剣などという無機物に称して憚らない奇妙な生き物は、出会った頃から遠慮会釈なくその名を口にした。但しこれは周囲に人目が無いことを前提としている。 わざとか無意識にか、知らぬ間に作られていた不文律は8年前と変わらず健在で、ザンザスは今更のようにそのことに気付いた。 そこでようやく、バタバタと暗殺者らしからぬ足音を響かせながらスクアーロが追い付いてくる。 「待てって言ってんだろうがぁ!」 背後からガシッと肩を掴まれ、ザンザスは肩越しにギロリと殺気を叩きつけた。 「離せ」 ぶわりと吹き出した憤怒に呑まれたのか、一瞬息を詰めたスクアーロがビクッと手を引っ込める。 だがすぐにムッとした表情を取り戻すと、気を取り直したように再び噛み付いてきた。 「さっきのあれはどういうつもりだぁ!」 「何の話だ」 「とぼけんな!次の任務の人員配置のことだ!」 今にも掴み掛かりそうな勢いで勝手に喚いているが、予想はついていたので驚くこともない。眉一つ動かさないザンザスに、スクアーロは立て続けに言を繋いだ。 「雷撃隊で奇襲、ベルが先鋒ってのはまぁいい。だがオレが後方待機ってのは納得いかねぇ!」 「てめーはいつからオレの決定に異を唱えられるほど偉くなった?」 「そんなんで誤魔化されねぇぞ!前回もその前も、オレだけが前線に出てねぇ!全部お前の采配だろうが!」 近頃の扱いによほど不満が溜まっていたらしい。ザンザスの冷ややかな撥ね除けにもめげず、諦め悪く食い下がって来る。 だがザンザスの側には歯牙にも掛ける気などさらさらなく、拳の一撃で五月蠅い口を黙らせることなど容易い。 と思うまでもなく実行に移して、ザンザスは事前に用意しておいた答えを返した。 「あの程度の組織なら遠距離攻撃で一気に叩く方が効率が良い。そんなことも分からねぇのかドカスが」 「ぐぁっ!…っ、けど前はいつも…!」 何か言いかけて、スクアーロがぐっと口を噤んだ。言葉が音になる前に押しとどめようとしたのか、薄い唇に鋭い犬歯が深く食い込んでいる。 知能の低い鮫が無駄な足掻きを、とザンザスはうっそりと嘲笑した。 前は、いつも。 その後に続く言葉はたやすく想像がつく。 前はいつも、オレが先鋒だった。 前はいつも、例え敵がどんな状況だろうと、ザンザスの率いる部隊に於いて先陣を切るのは自分の役割だった。 カスザメが考えるのは、どうせその程度のつまらないことだ。 嘲笑うようにくいと片眉を上げ、ザンザスはきっぱりと言い放った。 「てめーは使わねぇ。とでも言われれば満足か?」 「この…っ!」 カッと頭に血を上らせたスクアーロが、ぐいっと腕を伸ばしてザンザスの襟首を掴み上げる。だが一瞬で我に返ったのか、直ぐに手を離しチッと顔を背けた。ほっそりとした横顔に憤懣やる方ない表情を浮かべ、唇を真一文字に引き結ぶ。 「…なんでだ」 ぼそりと地面に落ちた呟きは、少なくとも表面上は一切の感情を消し去っていた。色素の薄い睫毛の下で、勝気な三白眼が不規則に瞬く。 「新ザコの管理はてめーの仕事だ。減らねぇ程度に前に出せ」 新入隊員は功を焦って自爆しがちであり、放任すれば却ってこちらの邪魔になる。故に抑止となる存在は必要不可欠だ。 そう返すザンザスの言葉も、正論であるにも関わらずどこか空々しく響いて聞こえた。 「…Si、ボス」 舌打ち紛れに頷いたスクアーロが、その取って付けたような理由に納得していないのは明白だった。だが、これ以上食い下がっても無駄だと悟ったのか、視線も合わせず素早く背を向ける。 立てる靴音に不満をぶつけながら来た道を戻り出したかと思うと、スクアーロは数歩先でぴたりと足を止めた。 「ザンザス」 肩をいからせ振り返った表情は、かつて身勝手な誓いを立てたあの日と同じに揺るぎなく、凛としていた。 「オレの信念は何も変わっちゃいねぇ。お前の隣がオレのいるべき場所だ」 次はオレを先鋒にしろぉ!と吐き捨てるように言うと、スクアーロはさっと踵を返し今度こそ二度と振り返らなかった。 去り際、さらりと揺れた長い銀色の髪がやけに鮮やかに、かつてないほど深く神経を蝕む。 「変わらねぇ、だと?」 スクアーロの言葉を反芻し、ザンザスは暗く自嘲した。 そう言い切ってしまえる眩しさが、酷く鬱陶しくて溜まらなかった。 例えば、以前とは違う酒の好み。 例えば、スラリとシャープになった顎のライン。 例えば、捩じ伏せるたび掌に感じる、しなやかな筋力の抵抗。 誰も気付かない。気付くわけがない。 それは日々を当然に生きる者にとって、余りに微細な変化の蓄積。 ただ一人のみに欠けた、八年の歳月の象徴。 Fine. [*前へ][次へ#] [戻る] |