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novel
藍白の硝子を割れ


 潜んでいた夕闇が瞬く間に世界を呑み込み、昼と夜の境界が曖昧になる時間。
 黄昏は人を惑わせ、狂わせるという。


 観光地として名高いヴェネツィアも、一歩分け入れば民家の立ち並ぶ住宅街が広がっている。細く入り組んだカッレは迷路のようになっていて、道幅も狭く地図に載らない小道も少なくない。下手に方向を見失うと面倒だが、追っ手を撹乱するのにこれ以上好都合な場所もなかった。
 事前に頭に叩き込んだ道順を思い返しながら、スクアーロは足早に次の角を右に曲がった。ぽつりぽつりと灯り始めた街灯が、夕闇に霞んだ影の輪郭を浮き上がらせる。突如ぽっかりと開いた脇道に身体を滑り込ませると、スクアーロは神経をそばだてて周囲を探った。追っ手の気配はない。
「ハッ、手ごたえのねぇカス共が」
 わざと派手に立ち回ってやったのに、これでは些か拍子抜けだ。しばらく息を潜めて待ってみたが靴音一つ聞こえてこなかった。
「これ以上付き合ってやる義理もねぇな」
 呆れたように肩を竦めて、スクアーロは薄暗い路地から出た。現在位置から車の隠し場所までの道程を脳内で辿りつつ、何気なくぐるりと視線を巡らせる。
 辺りにあるのはありふれた一般住宅と古びたムラーノグラスの店が一軒。重ねた年月分の塗装を剥ぎ落とし、薄汚れたショーウィンドウの向こうには色とりどりのゴブレットやワイングラスが並んでいた。その一つに目を留め、スクアーロは軽く目を見開いた。
 不意に左胸の奥がとくりとざわめいたような気がした。
 引き寄せられるように近付いて覗き込むと、くたびれたビロードの上に鮮やかな赤色のグラスが鎮座しているのが見える。まるでそこだけ世界から切り取られたかのように、透き通った赤がスクアーロの視界を埋め尽くす。
 ムラーノグラス特有の透明度の高い赤は光の加減によってその色を変え、特に黄昏の薄闇を纏った今は、滴る鮮血よりも濃厚でねっとりと重たい紅色をしていた。滑らかに反った縁の流線形は、グラスを傾ける角度や飲み口に触れる唇のカーブまでもが計算し尽くされており、鑑賞用というよりは人に使われるために生み出された品なのだろう。
 触れてもいないのに、グラスに口をつけた時の吸い付くような感触さえ覚えて、スクアーロは思わず自分の唇をなぞっていた。
「何してやがる」
 耳に馴染んだ低音が、夢現からスクアーロを呼び戻す。はっとして振り返ると、眉間に皺を寄せたザンザスがねめつけるようにこちらを見下ろしていた。車で待っていたはずなのにどうしたんだとか、よくこの場所が分かったなとか、浮かんでくる言葉はどれもぼんやりしていて、今言うべき言葉は他にある気がした。
「…ザンザス」
 その顔をまじまじと見つめて、スクアーロはほろりと花が綻ぶように小さく笑った。
「お前に似合いそうだなぁ」
「あ?」
「あのグラス、お前の目と同じだ」
 自分が思わず惹き付けられてしまう程の赤色は世界に二つとない。男の双眸に宿る赤はこのグラスの赤にとてもよく似ていた。
「見てみろ。いちばん綺麗な色だろぉ」
 こんなにも美しい赤色は共に在るべきだ。
 納得したように独り頷いて、スクアーロはちょっと待ってろと懐に手を突っ込んだ。私的な買物など随分久し振りだが、確かここら辺に入れて置いたはずと自分の財布を探る。
 そんなスクアーロをザンザスの嘲笑が一蹴した。
「フン、こんな安物がオレに似合うだと?」
「あ゛あっ?」
 せっかくの意気を殺がれ、スクアーロが大きな声を上げる。些かムッとして投げた視線は、ザンザスの冷たい瞳に軽くあしらわれ地面に落ちた。
「オレを舐めてんのか、それともただ見る目がねえだけか」
 宝物を見つけた子供ように弾んでいた気分が、男の言葉に容赦なく叩き潰される。
「てめーはどこまでもカスだな。ボンゴレの末席に名を連ねる身なら、物を見る目くらい養え」
「う゛お゛ぉい!オレが言ってんのはそういうことじゃねぇだろ!」
 確かにヴェネツィアといえど下町、こんな路地裏の小さな店だ。言われなくとも一見しただけでそれ程価値は高くないと分かる。第一そうでもなければ、気安く財布に手を掛けたり出来ない。
 ただこの赤が綺麗だと、そう思ったから。
「そもそも一番ってのはそいつのことじゃねえ。隣の白いグラスの方が余程…」
「あ?んなもんあったかぁ?」
 小馬鹿にするように鼻を鳴らしたザンザスが途中で言いかけてやめる。ぐぐっと眉間の縦皺が一層深く刻まれて、スクアーロは訝しげに首を傾げ改めてショーウィンドウを覗き込んだ。いや、覗き込もうとした。
「う゛おっ!」
 ゴンと鈍い音がして、側頭部からガラスに叩きつけられる。そのままギリギリと抑え込まれてしまうと、スクアーロはもう店の中を見ることが出来なくなった。
「さっさと来い、ドカス」
 恐ろしく力の強い五指で髪ごと頭を引っ掴まれる。無理矢理にショーウィンドウから引き剥がされると、スクアーロは腹立ち紛れに大声で喚き散らした。
「う゛お゛ぉい!一体なんだってんだ、その白いグラスがどうかし…」
「うるせえっ。黙って付いて来い」
「い゛っ!ちょ、てめっ、マジで千切れ…あ゛ああっ!分かったからそれ以上引っ張るんじゃねぇええっ!」
 ジタバタと足をもつれさせながら、スクアーロは離れていくショーウィンドウを名残惜しげに振り返った。
 あの赤いグラスは、きっとザンザスに良く似合っただろうに。
 他の品など目に入らないくらい、綺麗だったのに。
「よくわかんねぇ白いグラスとかいうやつのせいだぁ…」
 宵闇に囚われた路地裏に、スクアーロの悔しげな呟きが零れて消えた。


 後日、スクアーロの元に見覚えのあるそれとよく似た形の白いグラスが届けられたが、水を飲む度縁に触れる唇が誘っているようにしか見えないといちゃもんを付けられ押し倒され三日間ベッドに縛り付けられて以降、厳重に鍵を掛けてクローゼットの奥深くにしまわれているとかいないとか。


Fine.


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あきゅろす。
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