novel 濡羽色の印を刻め2 身に染み付いた習性で反射的に剣を構えようとし、義手に何も装着されていなかったことを思い出す。 …いや、むしろそれで良かったのだろう。反射とはいえ彼に刃を向けていたりしたら、先刻以上の仕打ちは免れなかったはずだ。 「ノックもナシに開けんじゃねぇ、ボス!」 この浴室の扉を開けられるたった一人の名前を呼ぶと、残った白い湯気を蹴散らして漆黒の影がのそりと姿を現す。 「オレの部屋でノックする必要があんのか、カス」 ちらりと視線だけ流してつまらなそうに吐き捨てられたら、全くもってその通りなので何も言い返せない。むしろ主に無断で浴室を使用しているのはスクアーロの方だ。 「それはそうだけどよぉ…!」 「おい、カスザメ」 シャワーのコックを閉じ、悔しげに唇を噛んだスクアーロの額に、ぺしっと何かが投げ付けられた。 「おわっ!」 するりとバスタブに落ちそうになるそれを慌てて掴んで、目の前に掲げる。 「んだぁこれ…手袋?」 しかも何故か片方しかない。 「てめーの趣味なんざ知ったこっちゃねぇが、敵に付けられた無様な傷をいつまでも人目に晒されたんじゃボンゴレの名に傷が付くんだよ」 「傷だとぉ?このオレがいつそんなもん付けられたってんだぁ!」 「気付いてもいなかったのか、ドカスが」 カッと反論しかけたスクアーロは、ザンザスの視線に促されて自分の左手を持ち上げた。 目を凝らして見ると、不気味な程整った義手の表面にうっすらと剣で傷付けられた跡が残っている。 いつの間にこんな傷を付けられたのだろう。 恐らくは今日の任務で敵と戦った時に剣先が掠めでもしたのだろうが、勿論義手の皮膚には神経が通っていないから全く気が付かなかった。 この深さならきっと手袋にも切れ込みが入って使い物にならなくなっていただろう。 「あ」 そこでようやく気付き、スクアーロは右手に握っていた手袋を広げた。だらんと垂れ下がった指の形は間違いなく左手用のものだ。 ちっと舌打ちが聞こえ、間髪入れずバタンと乱暴な音を立てて浴室の扉が閉じられる。 「ザンザ…!」 言いかけた言葉は途中で遮られ湯気の向こうまで届かなかった。 広げた手袋をじっと見つめ、スクアーロはそれが濡れないよう注意しながら手近にあったタオルで身体を拭った。 髪から滴り落ちる雫はそのままに左の義手だけは一層丁寧に拭って水滴を落としていく。ようやく満足したところで、真新しい手触りを確かめるよう慎重に手袋を嵌めた。 まだ少しぎこちない感じはするが、きっとこの感触にもすぐに慣れるだろう。 そこまで終えると、何故か不意に笑いが込み上げてきた。 「ぶ…、くはっ、くくく…っ!」 吐息を洩らしながら声を押し殺して笑い、くつくつと漏れそうになる音を喉元で締め上げて、呼吸ごと胃の奥へ送り返す。 きっと浴室の外、部屋の中にはまだザンザスがいるはずだ。何が可笑しいのか自分でも分からないのに、こんな声を聞かれたら確実に殺られる。 ふうっと長く深い息を吐き出して、スクアーロはニヤリと口端を上げた。左手を掲げ、見えるはずもない扉の向こうにひらひらと手を振ってみせる。 「こいつは有難くもらっとくぜぇ、ボス」 だがな、と心の中で付け足して湿ったバスタオルを腰に巻き、スクアーロは無造作に髪をかき上げながら外へと続くドアノブを捻った。 「やっぱもう片方、欲しいだろうが」 新しい手袋が片方だけだなんて、どう考えたってちぐはぐだ。ククッとまた一つひそめた声を洩らして、勢いよく扉を開ける。 「う゛お゛ぉぉい!!」 自分以外が刻んだ印はこんな小さな引っ掻き傷さえ気に入らないのかと。口にしたら骨も残らず灰にされるだろうから。 もう片方の手袋を、新しい印をもっと寄越せと、おまえに要求するために。 Fine. [*前へ][次へ#] [戻る] |