狼男の雨
白い手が私を招いている。
お願いですから、もっとこちらへ来てくださいな。もっと、水辺まで来てください。どうか、どうか私のところへ来てくださりませんか?
哀しいほどに眩しい水面に映る彼女の顔は、水連の花みたいに静かな美しさをたたえていた。
プラスチックの皿を腕で払いのけて、男が奇声を上げる。
「うぅ―、あぁああ、アー、あああ!」
何が不満だったのか、男は昼食として運ばれてきた料理を片っ端から、ベッドに設置された移動式のテーブルから叩き落としている。
「ぃいいい、ああ、ぐうう!」
男の言葉を理解出来る者はなく、また理解される必要のない言葉だ。本人ですら意味をこめて叫んでいるわけではないのだから。
「あらあら、××さん。またやったのね、どうしたのかな。美味しくなかったのかな」
ベテランの風格を漂わせた恰幅の良い看護師が入って来て、皿を片づけ始める。男の奇声にも慣れているようで「あら、そうなの」などと相槌を適当に打っている。
「ぐう、うう、ああ」
次第に声が弱まり、男は完全に沈黙してうなだれるようにうつむいた。窓の外はひどい大雨で、雨粒が地面を叩く音が室内に響いている。耳まで湿りそうな雨音は人の心に侵入してきて、活力を失わせる。男は雨の魔力に負けて完全に黙り込んだ。
着衣には昼食の味噌汁や、鯖の味噌がついていたが男は構うことなく布団へ潜り込んだ。これ以上起きていると雨に自分が持って行かれると思っているかのように。
「あら、駄目よ、××さん。ちゃんとお着替えしましょうね」
明るい、溌剌とした声で体格のよい看護師は男を抱き起こす。手慣れた扱いで、男も大人しくしている。
「白―い服が茶色になったわね、うふふ」
子どもに話しかけるみたいに屈託のない声をかけながら、看護師は手早く上着を脱がし部屋の隅にある備え付けのタンスから出した上着を男に着せる。
「はいはーい、綺麗になりましたよ。××さん」
にっこり笑うと白い饅頭の中心に顔の部品が集まり、彼女独特の愛きょうのある笑顔になる。男はぼんやりとその笑顔を眺めると、打って変わったように静かに布団へ潜り込んだ。
男の発作は一日に一回あるかないかのもので、その手の患者としては扱いやすいというのが看護師たちの意見だった。患者によっては、屈強な男の看護師が押さえつけなければならないほど暴れる者もいた。
重度になれば、暴れる患者専用である窓のない部屋に入れることになる。場合によっては手足を拘束されることもあり、稀に出て来られなくなる患者もいる。
雨音が止むことなく鳴り響いている。男は布団で耳栓をした。
耳栓をしても、水音は次第に高まって男を飲みこんでいく。
藤紫の着物を着た女が水辺に佇んでいる。男に向かって手招きしている。
お願いですから、こちらへ来てくださいな。私の方へいらっしゃってくださいな。あなたを愛しく想っているのですわ、ですから、どうぞ、どうぞ私の方へ。
哀願する痛々しい姿に男の胸は締め付けられる。
愛しております、あなたを心から、あなただけなのです。わたくしにはあなただけなのです。
女の頬に伝っているのは雨だろうか、涙だろうか。
手を伸ばして拭ってやろうとすると、男は病院のベッドの上に居た。生々しい水の香りが鼻孔に残っている。
「あああああぁあああああああ」
喉が裂けるほどの大声を上げ男は頭を抱えて、のたうち回る。あまりの激しさに男の身体はベッドから落ちて、したたかに頭を打った。
それでも男は暴れた。突き上げてくる激しい衝動が男を捉えて離さない。
白い手が、あの白い手が目の前に見えていたのに、一瞬にして女は消えてしまった。透明な音色をした女の言葉がまだ耳に残っているというのに、もう女はどこにもいない。
「うぁあああぇえ!」
廊下から重い音が走って来るのが聞こえる。頑丈な男の看護師が部屋に入って来て、自分に鎮静剤を打つのだろう。男には自分がどういう目にあうのか、分かっていたが暴れることをやめることが出来ない。
叫びながら何かを壊さなければ、自分を壊すしかなくなる。男は頭を血が出るほどに掻き毟り、自分の顔を拳で叩きつけ続けた。
やがて男が予想していた通りに屈強そうな男が入って来て、注射を打った。男は薄れる意識の中で、ゆっくりと床に倒れ伏した。
霞む視界の中で、先ほどの看護師がいるのが見えた。
白い顔の白い腕をした女。男は意識を失った。
次に気がついた時、目が眩むほどの日光が部屋に差し込んでいた。暴れて疲れ切った男の身体を隅々まで清らかな光が照らしている。
男、いや私は鏡を見つめていた。昨日掻き毟ったせいで髪がまだらになっており、顔はあちこちに痣がある。
ひとつため息をついて私は立ち上がり、ベッドの横にある二段しかない本棚へ近寄り、適当に一冊引き抜く。ドイツ語で書かれた小説だった。
ベッドに座るとゆっくりと読書を始める。日差しがページを白く輝かせているのが美しかった。私は文章を追うよりも、紙の輝きに目をやった。
「××さん、おはよう。今日は調子が良さそうね」
昨日私を着替えさせてくれた看護師がにこにこしながら部屋に入って来た。
「ええ、おかげさまで。昨日は申し訳ありませんでした」
頭を下げると、看護師はとんでもないと返した。
「本当に晴れている日は違う人みたいねえ」
けらけらと朗らかに笑われると、まるで笑い飛ばせる程度の変貌である気がして、私はつられるように口元を緩める。
狼男が月の光を浴びて元の姿に戻るように、私は太陽の光を浴びている時だけ元の自分に戻れる。
正確に言うなら、晴れの日だけ私の精神は安定する。雨の日はジキル氏とハイド博士のように私は豹変し、ろくに言語を操れず、無意味に暴れるだけの低能な生き物に成り下がる。
日光を浴びれば、私はドイツ語の本を苦も無く読める程度の知能に戻り、言語を操って謝罪も出来る。
「さあ、××さん。今日は注射ですよ」
きびきびとした動きで、看護師は私の腕を取り透明の管で私の腕を固定する。白い指が私の腕で躍るように動き、私を捉え、私を安定させる。
陶磁器のような白い肌とは少し違う。昨日も思ったように、饅頭のような白さだ。
注射の針をいじる白い指先を私は陶然とした想いで眺める。
あの人の手は白かった。白くて滑らかで、夢みるような美しさをもっていた。
私に微笑みかける、まるで娘みたいにうぶな笑顔。思い出すたびに少年のように胸が高鳴る。
雨の日になると私はあの人を思い出して発狂する。
私は何故、あの雨が降る日に白い手を取らなかったのだろうか、と。
原因は私の方にあったように思う。気まぐれな女遊びでもしたのかもしれない。馬鹿な博打でもしたのかもしれない。今となってはどうでもいいことだ。
あの人は駄目な私を許した。代わりに全ての罪と清算を我が身で行おうとした。
霧雨が降る中、川の淵にあの人は立っていた。藤紫の模様が描いてある白い着物が川の中に溶けるようにして浸かっている。
きちんと結った髪が雨によって少し乱れていたが、あの人の美しさによって官能的な魅力を匂わせていた。
白い手を優雅に上げて、あの人は私を手招いた。私は馬鹿みたいにただ川の淵に立ちつくしていた。かける言葉すら浮かばなかった。
戻ってこいとか、行くなとか、もっともっと言うべき言葉があったのに、私は知能がない生物になってしまっていたのだ。脳の機能全てが止まってしまった。
全てが止まるほどの衝撃が、川の中にいるあの人の姿にはあった。まるで夢を見ているような、極楽浄土を切り取って来たような、不可思議な魅力をたたえている光景だった。
こちらへ来てくださいな。私の方へ、もっと水辺まで来てくださいな。
わたくしにはあなただけでございます、あなただけ。誓って嘘は申しません。
ああ、分かっている。あの人の心の清らかさに私は何度、自己嫌悪に陥ったことか。
己の醜さに悩み、あの人の清らかさに憧れ、勝手にひねくれて何度も傷つけてしまった。深く傷つけて、あの人が己の醜さをさらけ出してくれるのを、私は卑怯にも期待した。
自分と同じ位置にまであの人を落としてしまいたかった。そうしなければ私は安心出来なかったし、あの人を妻として世間的には手に入れたはずなのに、遠い存在として感じている不安を解消できない。
清らかで慈愛に満ちている、夫への献身的な心を忘れない素晴らしき妻。
となりにいる私は人間を疑い、憎み、妬み嫉み、何とも矮小な夫だった。汚く薄汚れた夫と菩薩の心を持つ妻などという夫婦が存在するはずがないのだ。
私は何としてもあの人をしっかりと自分のものにしたかった。だから苦しめて、菩薩の仮面を剥がしてやりたくて。ただの醜い女になってくれたら、どんなに楽になるか、そんな酷い事ばかり考えた。
でもあの人は本当に清らかな存在だった。この世に生を受けたのは誤りであり、本来ならば天界に存在すべき、汚すことなど絶対に許されない人だ。
川の中で、あの人は陶磁器のような滑らかな肌を雨で濡らしていた。着物は水を吸い込み、身体に張り付く。藤紫が目にしみる。
赤みを失ってはいるが形の良い唇が静かに動く。
霧雨が私とあの人を濡らしていく。私は動けない。
あの人が川の奥へ、奥へ消えていく。振り返った時、あの人は微笑してみせた。それが最期だった。
私が焦がれ続けた天女は水の中を通り、天界へ戻っていった。
美しき人、美しすぎた人。傍にいることを永遠に願った、唯一の人。あの日から面影を忘れた日は一日たりとてない。
雨が降って発狂し、混乱した頭の中にも、必ずあの人はいるのだ。霧雨に濡れて白い肌から水滴を垂らし、私に手招きする幻想的な光景が何度も何度も蘇る。
不思議とあの人と平和に暮していた思い出や、苦しめた思い出は一切思い出さず、ただ延々とあの雨の日の情景だけが頭を巡り続ける。
注射針を抜いて、ふくよかな体型の看護師が大仕事をこなしたと言わんばかりに大げさな動作で額を手で拭いた。
「はい、××さん。終わりましたよ」
気軽な口調で、白い饅頭顔をした看護師は笑顔をみせた。愛らしい笑顔だと、しみじみと思う。あの人とは少しだけ違うけれど、白く滑らかそうな指と肌。
私は看護師の手を取った。
「白くて綺麗な手ですね、この仕事で荒れたりはしないのですか」
「頑丈だもの、私。それにねえ、太ると指の皺まで伸びるから綺麗に見えるのよ」
中年女性にありがちな、がさつな笑い声が私の耳に響く。
手に取った白い手は、血管が巡り、温もりを持ち、己の意志をもち、水を弾く力を持っている。あの人がかつては持っていた全てだ。
私はゆっくりと顔を上げた。
川から無理やりに引きずり出された、あの人の抜け殻は私の精神を狂わせるには十分な姿だった。
水死体の特徴であるぶよぶよとした肢体が着物からはみ出し、紫色に変色し不気味に膨らんだ顔からは眼球が垂れ落ち、異様に長い舌がだらりと首近くまで伸びていた。
生前の面影をまるで残していないあの人の死体を、私は現実として受け止められず、死体の確認のために付き添っていた警察官の目の前で私は豹変した。
大学教授として地位と名誉を得て大人の男性として優雅に振る舞っていた男が、意味不明の叫びを上げながらむやみやたらに暴れる変貌ぶりは、目撃者にとって非常に大きな負担を与えるらしく、死体安置所に付き添っていた警察官はうつ病になったと後で見舞いにきた刑事たちが話していた。
刑事が来た日は晴れていたので、比較的まともに会話をした。
彼らは私が死体を見て発狂したことに少し責任を感じていて、個人的に見舞いにきたのだと告げられたのには驚いた。
確かに彼らが死体をあなたの妻かどうか確認してほしい、などと頼まれなければ妻の変わり果てた姿を見ずに済み、私は辛うじて狂わずにはいられたかもしれない。確証はないが。
あの人を失った私がいつまでも正気でいられるとは、とても思えない。遅かれ早かれ私はこの病院へ来ることになっただろう。
お願いですから、こちらへおいでになってくださいな。水辺まで来てくださいな。
霧雨の中であの人は悲しそうな笑顔で手招きをした。
私がいつまで経っても動かないので、あの人はそっと涙を流したに違いない。
頬を伝ったのは雨だけではなく、あの人の黒く濡れた瞳から零れおちた清浄なる滴も流れ落ちたのだろう。
最期に悲しみをこらえて微笑んだあの人。
私が愛した全て。
部屋にある内線で私は、かつてこの部屋にきた刑事がいる警察署である××署に電話をしたいと告げた。
晴れている日の私は看護師たちから信頼があるので受話器越しの女性は、何の質問もしなかった。外部への電話に切り替わり、幸運にも一発で話したい刑事が出た。
きっと私が誰なのか分からないだろうから、私はかいつまんで自分の話をした。受話器の向こうで息をのむ音がする。
精神病院に入院している患者からの電話など気持ちの良いものではないのだな、と私は彼の反応で理解した。
晴れの日だけ回復するなど誰も信じていない。私だけが知っている真実だ。
「それで、用件は?」
刑事らしい簡潔な物言いは好ましかった。私としても無駄話をしたい気分でなかった。
「すぐに来てほしい。あなたの仕事になることだから」
返事を聞く前に私は電話を切った。
私の足元には、白い饅頭顔を紫色にした看護師が目を見開いて舌をだらりと垂らしながら、うつ伏せに倒れている。
彼女が持っていた透明の管を首に巻きつけ、力をこめて引っ張った。結果、体格の良い看護師は喉を掻き毟りながら息絶えた。
この世にもうあの人はいないのに、目の前にあの人を思い出させる白い腕があるなら、私は殺さなくてはならないではないか。
もう水辺まで行ってもあの人はいない。残酷な事実を上塗りする腕、指先を消さなくては、私はあの人を近くに感じられない。現実にあの人と似たようなものを持つ人間など存在してはいけない。
空想の中にしかあの白い腕は存在せず、この世には決してない。
晴れの日に平然としている私は本物なのだろうか。
発狂した私は果たして偽物だろうか。
憶病で猜疑心と嫉妬心に凝り固まった醜い私こそが、あの人に見抜かれることを恐れていた真実の私なのかもしれない。
次第に空に雲がかかり、雨の匂いが遠くから流れてくる。私は目を閉じて、あの人の声を思い出す。
さあ、どうぞこちらへ。どうかお願いでございます。
哀願するような哀れな声に、少しの敵意を感じたのは私の思い違いだろうか。
部屋が曇り出し、私の頭に靄がかかり始める。天女のごとく美しく清らかなあの人には、絶対に似合わない言葉だ。
復讐だなんて。
だが、私の人生はめちゃくちゃになった。
晴れ間に思う。
私はあの霧雨が降った日、あの人に魂を殺されたのだ。魂だけは水辺へ行き、あの人と水の底に沈んだ。
雨がやってくる。私は再び豹変する恐怖をじわじわと感じ始めていた。
<了>
Oxygen shortage/酸欠:作品参加
「晴れ間に思う」
作者:藤森 凛
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