※一年後捏造 不意に後ろから名前を呼ばれて私は足を止めた。こんな夜更けにどうしたというのだろう。聞き慣れた声にゆっくりと振り返れば、暗い廊下の先に漆黒に包まれた次屋がいた。 「次屋か」 「はい」 いくら暗いとはいえ、なかなか姿がはっきりしない次屋を私は不思議に思った。目を凝らしてみても彼の前髪くらいしか色味がわからない。お互いに距離を縮める気はないようで、ふむと思考が行き詰まったところで私は鼻孔を擽るある匂いに気付いた。風下だからか、私のものではないその匂い。そこで私は悟った。お互いに距離を縮めない理由を。知られたくないのは、どうやら私の方だけではなかったようだ。 「…任務だったのか」 「……はい」 歩み寄れば、少しだけ驚いたような次屋の顔があった。全身黒装束に身を包み、見えるのは目元だけ。しかもその目元も赤黒い血で汚れていた。 「怪我は」 「ありません」 「そうか」 二人分の血の匂いがこの場を満たす。全身に返り血を浴びた次屋は私よりも強くその匂いを纏っていて、私は微かに眉を寄せた。口布を外してやれば、頬にまで伝った血痕が乾いてかさりとした感触を残した。 「恐ろしかったか」 訊いといて愚問だな、と私は内心笑った。忍に恐怖などあってはならない。あったところで人殺しにはなれないのだ。しかし次屋の答えは違っていた。 「はい、恐かったです」 ぽたりと流れ落ちた雫に私は驚いた。次々と濡れていく頬を黙って見つめることしかできない。 「もう貴方に会えないかもしれないと思ったら、恐かったです」 そっと両手で頬を持ち上げた。雲間から出た月明かりにやっとその顔がはっきり見えた気がした。そのまま濡れそぼった頬に舌を当てる。ざらりとした感触としょっぱくも鉄の味がするその涙を私は舐めた。 「…生きててくれて良かった」 風のない夜だった。 20101018 |