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第8話:塊





第8話:塊





『開けて』

扉の向こうから聞こえてきた女の人の声。それは、酷く微かで弱々しいものだった。声は続ける。

『閉じ込められたの。出られない』

扉の隙間に耳を当てていたエンチューが、緊張した面持ちでこちらを振り返った。

「誰だろう。もしかして、僕達みたいに七不思議を追い掛けて来た人かも」
「だけどさ、もし──悪い霊だったりしたらやばいんじゃないか?」

そう言ったヨイチは爪を噛みながら(落ち着いていない時の彼の癖だ)、不安げに扉と階段の出口の方角とを交互に見ている。扉の中の人も気になるがもうこれ以上怖い思いはしたくない早く帰りたい、という彼の気持ちをあたしは容易く察する事が出来た。

「うっかり開けて霊だったりしたらやばいし、でももし人が閉じ込められてるの知ってて無視したりした、とかでもかなりまずいし……」
「うん。そうだよねー……」

この時もあたしはヨイチに賛同。此処は霊気の濃度が高過ぎて扉の向こうに霊がいるかどうか判断しかねるし、そうでなくてもMLS在学中のあたし達はまだ十分に霊感が培われていない。一般人よりかは遥かに上だが、プロ級にはまだまだ届かないレベルだ。

「困ったなー……」
「一旦戻って、ヒゲジジイでも誰でも教官呼んでくりゃあ良い」
「あっ、そっか!」

突如口を挟んだムヒョの言葉に、あたしはなるほどと手を打つ。そして扉の向こうに呼び掛けた。

「すいませーん、誰か大人を呼んで来るんで、少し待っててくださ──」
『開けてくださいでやんすー!』

あれ?とあたしは首を傾げる。この声にこの独特の喋り方。聞き覚えがあるぞ……?

『助けてくださいでやんす、出られなくなったでやんすよ!今すぐ頼むでやんす』

焦りまくった、必死の響きが色濃く滲んでいるこの声の主は確か──

「……七面犬、じゃん」
「アホ犬だよ」
「アホ犬だナ」
「アホ犬」

三人に訂正された。

「七面犬さん、中にいるんですか?」

その中でもちゃんと正式名称で彼を呼ぶのは、やはりエンチュー。

『そうでやんす、急いでくださいでやんすー!』

もう声が半泣きだ。地獄の使者だというのに情けない……。こんな使者もいるんだなー、と、あたしは少し呆れたような少し可笑しいような気分になった。これが昨晩あたしのペンを踏みにじった存在なんだから実に滑稽だ。何かもう笑うしかない気がした。

(んー、こーゆーのを、えーと……そうそう、“何故か憎めないやつ”っていうんだろうなあ……)

まあペンはペイジさんが腕の良い魔具師に修理の依頼をしてくれるし修理費は払わなくて良いらしいしパパにも内緒にしてくれるらしいから結果的には良い。それにいつまでも過ぎた事にうじうじしたくないし。
あたしは心の中で七面犬を許した。
うん、と頷いたあたしは、うん?と今度は首を傾げた。

じゃあ。
あの最初に聞こえた女の人の声は──?

嫌な予感というよりも最悪な予感がしたその直後、その最悪な予感を決定付けるかのように、むわっと生暖かく生臭い空気がこちらに押し寄せて来た。反射的に目をぎゅっと閉じ呼吸を止める。

「、……!」

目を開ければ、目の前に存在していた大きな扉が、さっきまで閂が掛けられて頑なに閉じていた扉が、──開いていた。
開いていた、と言ってもわずかな隙間が空いているだけだが、それでも。
十分過ぎた。
手遅れ、だった。

気持ち悪いくらい生温い風と共に、霧のようなものがじわりとその隙間から這い出て来る。仄白い霧はあたし達の足元に溜まるように緩く渦を巻き、周囲を満たしていった。

「まずいぜ、こりゃ……!」

ヨイチは慌てて扉を手前に引き戻そうとしたが、大扉はやはり見た目通りの重さらしく、なかなか動いてくれない。その上扉を“押す”事よりも“引く”事の方が困難である事は明白で。その扉がかなりの重さならば尚更だ。
ヨイチの焦りようからどうやら彼も、いくら落ちこぼれとは言っても、この霧の意味が──重大さが、はっきりとわかっているようだった。
霊燐。あたし達に纏わり付くかのように周囲に満ちているこのおぞましい霧のようなものは霊達のもたらす瘴気で、魔法律界ではこれを“霊燐”と呼ぶ。『霊のいない所に霊燐は立たぬ』というか『霊燐ある所に霊あり』というか何というか……。
とにかく。霊燐が存在するという事は霊が存在するという事で。だが、昨晩ペイジさんも言った通り、厳重に対霊防壁が施されているはずのMLSの建物内にこれ程に濃い霊燐が漂う事など有り得ないのだ。
本来は。
有り得ない、はずなのだが、不吉な臭気を孕んだ霧は確かに存在していて。それは確かに霊燐であり。そしてそれは今もなお、まるで布を手繰るように次々と、扉の奥から溢れ出ている。その上。

ぺたぺた。ぺたぺたぺた。ぺたぺたぺたぺた──と、薄闇のあちこちを、粘り着く裸足の足音がいくつも通り抜けて行く音が。しかし周りにはあたし達五人以外人の姿は何処にもいない。もちろんあたし達はじっと立ちすくんでいるだけでその辺を駆け回ってなんていないし、それ以前に、裸足じゃない。足音は床だけでなく、壁も天井をも縦横無尽に横切り、駆け回り始めた。それから。
くすくす。ひそひそ。くすくすくす。ひそひそひそ。くすくすくすくす。ひそひそひそひそ──と、微かな笑い声、悪意を滲ませた囁き合いまでもが耳に入って来た。
闇の中という、視力が十分に発揮出来ない分──聴力が格段に上がる。顔をしかめたその時。

「逃げよう」

満場一致の意見を、ビコが口にした。

「えーと、七面犬さん!開けましたよ、急いで出てくださーい!」

急ぎ足で階段へ向かいながらも律義に扉の奥に声を投げたエンチュー。やはり扉を開けたのは七面犬のヘルプに応えたエンチュー達自身だったらしい。
だが、ヘルプを頼んだはずの七面犬からは何の反応も無く。扉の奥には闇しか見えなかった。

「ほっとけ。どうせ地獄の使者ってんなら自分で何とか出来るだろ」
「ムヒョの言う通りだ。通れる位の隙間だけ開けといて、オレらはとにかく戻ろう!何かまじでやばい気がするぜ……皆、走れ!」

あたし達は埃と周囲に澱んでいく妖しい囁き声の中、魔具庫内を引き返そうとした。霊燐が漂う中でも、階上からの光が零れてくる階段付近はぼんやりと明るい。そのわずかな光を目指しあたし達は必死で駆けるが──。

「……!?」

先程まで、まるで外に出れたのが嬉しいとでもいうようにただ駆け回っていただけの足音が、後ろから、かなりのスピードであたし達を追い掛けて来ていた。こぞってこちらに向かって来ているその何十組もの裸足の足音に、あたしはぞっとする。
そして気付いた。このスピードに、この方向。“彼ら”の狙いは直接では無く──つまりあたし達では無く──しかもこのままじゃ──!

「っ、……ヨイチ!」
「おわあっ!?」

あたしは、先頭を切って階段へと突進し掛けたヨイチの服の裾を掴んだ。ヨイチは危うくひっくり返りそうになったが、何とか堪えたようだ。

「何だよユキ──」

言い掛けたヨイチの頭上すれすれを、何かが掠め飛んだ。ヨイチはそのまま硬直してしまう。ヨイチ以外の皆も、思わずすくんでしまったようだ。そしてその間にも“それら”は、あたし達の足元、両脇の壁、と背後から凄まじい勢いであたし達を追い抜いて行く。濡れた音を立てて移動する“それら”は、そのままあたし達の向かう先へと──唯一の出口である階段へと、次々にへばり付き始めた。

「うわっ、何だよあれっ!?」

階段のそこここに、半透明のぶるぶる震える塊がいくつも張り付く。あたし達が呆然と見守る内にそれは溶け、階段にも壁にも広がり始めた。あたしは溶かした片栗粉を思い浮かべて顔をしかめた。霊と食品を結び付けてしまうのは賢いとは言えない。しばらくは八宝菜は食べれなさそうだ……。
あたし達の行く手を阻むように、“それら”はわずかな間に、すっかり階段部分を覆い尽くしてしまった。

「あーあー……」

どうしよう?
飛び(ジャンプでは無く、フライ)でもしない限り、あの半透明の塊に触れずに階段を上る事など出来ない。むしろ上からも液体と固体の中間値のような物体(こういうのをゲル、って言うんだっけ?それともゾルだったっけ?)が滴り落ちている為、飛べたとしても回避する事は難しいように感じられた。まああの不気味な粘着質の塊が有害であると決まったわけではないが、かと言って触れても無害なものだとは言い難い。ちなみにあたしの勝手な判断では90パーセント有害だ。
他の四人もそう感じ取っているのだろう、階段に近付こうとはしなかった。その代わり彼らは顔を突き合わせる。

「こ、これ何?何かすっげえ気持ち悪いんだけど」

近くで見れば、その塊はますます不気味に蠢いて見えた。いくつもの小さな膨らみが表面のあちこちにぼつぼつと現れている。今度は絨毛を思い出してしまった。今回は理科の時間ですか……。ただ絨毛と違うのは、その現れた小さな膨らみが細長く伸びて宙をまさぐってはまた縮む、という動作を延々と繰り返しているところだ。しかも突起一つ一つはごく小さいが、それはよく見れば、見覚えのある形をしていた。

「こりゃ、手だナ。ヒッヒ」

あたしと同じ事に気付いたらしいムヒョが何でも無いように言い、笑う。ヨイチが息を呑んだのがわかった。
膨れ上がり、次々に伸びて来る半透明の塊は、確かに人間の五本の指を持っていて。何かを掴もうとしては空を探り、また内部へと溶け込んで行く。それは手そのものだった。まるで赤ん坊のような、小さな手。何かを欲しがっているようにも見えたし、助けを求めているようにも見えた。何だか複雑な、やり切れない思いになった。
ムヒョの言葉の後、塊全体がびくりと大きく蠢いた。まるでこちらの声に反応したかのようだ。もちろん生物でもないし、何かはわからないがそれ自体が意思を持つようにはとても見えない。なのに、半透明の塊も、中から伸びては消える無数の手も、立ちすくんでいるあたし達の方を──生きている人間の気配を真っすぐに目指して、じわじわと這い寄ろうとし始めた。半透明の塊はほぼ階段全体を包み込んでいるので、まるで階段そのものが歪みながらこちらに迫って来るかのような錯覚に陥る。
そして、踊り場辺りに一際大きく膨らんだ塊が、ぴくりと蠢いた。全体の重みを落し込むように、下に向かってぼとりと零れ落ちて来る。

「き、気持ち悪っ!おい、やばいよこれ、なあユキどうする!?」
「どうするって言われても……」

今のあたしはきっと困ったような表情をしているだろう。“あれ”は未知の敵だし、第一あたしにはペンが無い。為す術無し、だ。今頃になって再び七面犬が恨めしくなってきた。
うーんと腕組みをしているあたしの横で、エンチューは不気味な塊を怖々と見下ろしながら口を開いた。

「階上にとにかく、何か報せる手立てがあれば……何とかなるんじゃないかと思うんだけど」
「その前にオレら全員、めでたく“こいつ”のエサになってそうだけどナ。ヒッヒ」
「はっきり言うなよ怖いだろ!って、うわっ!」

小さく悲鳴を上げ反射的に逃げたヨイチの目の前に、鈍い水音を滴らせて重いものが落ちて来た。ぶるぶるとその身を震わせている生々しい塊は、濁った水で作った出来損ないのゼリーのようだ。
……うん。ゼリーもしばらくの間は口に出来なさそうだな。プリンも駄目かも……。
何だか段々食べれるものが減って行く事に悲しみを覚えながらもやはり優先順位というものがあるわけで。食に対する心配よりも今は、目先の問題だ。まあ先程のはちょっとした現実逃避も含まれているだろうけど。

その落ちて来た塊は階段を埋めている本体の一部がちぎれたものだろう。それはちぎれてもなお、本体と同じくざわざわと人の手の形の突起を次々に覗かせ始める。しかしそれは、明らかに本体とは違う部位があった。

(……?…………!)

震えるその塊のほぼ中央から、半透明では無い何かが一本、不格好な棒のようにおかしな角度で突き出ているのだ。ぴくぴくと動いているそれは間違い無く──先端に丸っこい肉球と爪が付いた、藤色の細い獣の脚。

「し……七面犬!?」

先程扉の向こうで叫んでいたはずの彼が、まるで咀嚼されているかのように、塊によって中に引き込まれ掛けていたのだった。





第8話:塊(了)

七色の魔声/どり〜む/ふる〜つ村。


あきゅろす。
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