私が流させた一掬の涙


 ビラブドの住居は東京の郊外にある。時と場合によってはその兄である日本の名代としても働く彼女の家は、車を使えば都心まで一時間とかからないが、しかしまだまだあたりはのどかな農地も広がっている。
 自然と調和したその家を訪れるものは多い。物見高な異国人達はその空間を流れる時間や、日の光の移ろう様などを堪能し、異国情緒を味わおうとする。
 ……中には明らかな下心を持つ男も混じっていたが、そういった輩には行動に移った途端に丁重にお引取り願っている。――武の国日本の片割れであるビラブドがただの娘であるはずがないのだ。愛用の薙刀をはじめ、最悪の場合でも簪などの武器はいつだって手に取れるようにしてある。小さいながらもこの家はビラブドの城である。先だっても不埒な行為を働いたフランスが鳩尾に薙刀の渾身の一撃を食らって追い出されたばかりだ。

 今日の客はビラブドが――兄の日本が招いた国である。西欧の国から少しでも優れたものを学び取ろうとする兄は、この国ばかりではなく他にも多くの国の接待をせねばならない。女の身に生まれたビラブドは政治のことには口を出さないが、客人をもてなすことならばできる。
 この男は数ある西洋諸国の中でも、政治・医学・工業、なにより軍事に抜きん出た発展を遂げた、日本にとって重要な相手であった。

「お前、赤い着物ばっかり着てるよな」
「左様ですか?」

 男の問いかけにビラブドは少し首を傾げて、そうかもしれません、と控えめに答えた。

「華やかな色合いですから、娘らしい服には多いですからね。余所行きの服にはやっぱり赤が多いですし、大事なお客様をお迎えするときも余所行きの服を選びますし」
「そうか」

 つい、と湯飲みを持ち上げて茶をすするビラブドの様は絵画のように美しいのに。
 ――ズズズズズ……。
 男とて行儀の悪い方に数えられるが、しかしどうして日本人はああ下品に音を立ててしまうのか。西洋諸国にとっては永遠の謎である。
 静かに湯飲みを置いてビラブドは心なしか楽しげに語りだした。

「古来から赤いものに美しいものは枚挙に暇がございません。椿に山茶花、南天、木瓜に梅、牡丹に芍薬、紅葉に楓に蔓、お天道様」
「でも、血の色だ」

 哂うように遮られてビラブドは男を、プロイセンを見る。その目は確かな赤い色をしていて、ビラブドの心は不思議なざわめきに襲われるのだ。

(呑まれては、いけない)

 日ノ本の国に生まれた娘として、日本の、兄の名代として、他国に対して怯むことは許されない。相手が西洋諸国であり、ましてやその中でも強国と数えられる相手ならば尚更。隙を見せればきっと容易く取り込まれてしまう。――中国のように。
 自分を叱咤して、深く、息を吸ってビラブドはプロイセンに向き直った。

「異国では存じませんが、この国では確かに女の血は穢れと忌み嫌われます。ですが殿方の血は時に神聖なものとして貴ばれますわ」

 何を指して血の色と、そう言ったのかを察せられてプロイセンは眉を寄せる。ビラブドのいうことは嘘偽り無く確かにこの国に習慣として残ることなのだろう。しかしどこか機嫌を取られているようで――癪に、障る。

「赤を貴色とするお国は東洋では大清(中国)様を筆頭に星の数ほどございます。西洋では如何程か存じませんが――確かえすぱにあ殿やおろしあ殿、西の大帝国様も左様でしたかと心得ておりますが」

 一部気の食わない面子の名前にプロイセンの眉間は更に険しさを増す。わかってはいるのだ――ビラブドが、プロイセンが己自身を貶めるように言ったことを撤回させようとしていることは。

「それにあなた様の瞳の色でございましょう?」
「不吉な色だ」

 確かにキリスト教とて赤を貴色として扱っている。しかしそれは贖罪の色、神の子の流した血の色としてだ。貴色でありながら禁色――憚る色でもある。
 人の目としてはあまりにも珍しいこの色はいつだって好奇と悪意の的だった。

「違うか?」

 もはや自分でも誰に何に対して向けているのかわからないプロイセンの敵意をビラブドは真っ向から受け止めた。

「この国では緑も青も紫も、何色であろうと黒でない瞳はただ珍しいだけですわ」

 赤い瞳、というものが本当に珍しい、一種のかたわとしてしか生まれえぬことをビラブドも知識としては知っている。知ってはいるが、目の前の男に関する限り実感としては理解できない。
 この男が同じ日本人であったり、東洋人であるのならば或いは理解しえたかもしれないが、見慣れぬ西洋風の顔立ちである以上、そういう色合いもあるのかと素直に納得させられてしまう。
 偏見なしに見れば、プロイセンの容貌はビラブドにとり十二分に鑑賞に値する。意志の強い目も、引き締まった輪郭も、武を貴しとする日本にとって好ましいものなのだ。今も、日に透ける髪に眩しそうに目を細めながら、ビラブドはプロイセンを真っ直ぐに見つめた。

「私の口から赤を忌まわしいなどと言わせようとなさらないでくださいまし」

 普段大人しいビラブドはこうして時折はっとするほどの意志の強さを垣間見せる。「菊と刀」だ。たおやかでありながら鋭い強さが潜んでいる――そしてどちらも、見るものの目を奪う美しさがある。
 そんなことを思い出しながら、けれどもプロイセンもまたビラブドから目を外すことが出来ずにいると、ぬばたまの瞳と視線がかち合う。目と目を合わせるのは西洋では礼儀だ――しかしこの国では不躾だと、作法からは外れた仕草でもある。その黒瞳は静かでありながら人の心に直に何かを訴えかけてくる不思議な力があった。

「私は赤をこの上なく美しい色と好んでいますわ、ぷろしあ殿」

 ――まるで、自分のこの目を好んでいる、といわれたようだ。そう感じた瞬間、かっとプロイセンの目元が朱に染まる。それを見てビラブドは静かに立ち上がった。

「お茶が冷めてしまいましたね。入れ直してまいります」

 中座するビラブドの背中を小さな呟きが追いすがる。

「悪ぃ」

 いいえ、と答えてみせて、その声が湿った擦れ方をしているのをビラブドは気付かない振りをして襖を閉めた。――この国では男は親の死に目以外に泣いてはいけないのだ。

(いじましい方)

 プロイセンは人の情というものをあまり知らないのだろう。ビラブドはそう思う。戦場に生きる男達にはそんな男も多かった。多分彼もその一人だ。そういう男に限って不意に触れた温もりに揺らぐのだ。
 ――そんな男に対して心が揺らいでしまうのは、ビラブドが武の国日本の娘であるが故だろう。

(……"あな、あはれ"とでもいうべきなのでしょうかね)

 いつかあの赤が柔らかく満たされて、そうしてこの手に入ればいいのに。たおやかな手に今あるのは盆一つとその上の湯飲み二つに急須が一つだ。そんなことを思いながらビラブドは台所へと足を進める。
 あの赤が乾くのはいつ頃になるまで待てばいいのかと思案しながら。

が流させた一

(それを私が目にすることはないけれど)
企画に捧げたもの。
2008/12/21提出。12/24PCサイトで公開。
(2010/01/02モバイル公開)

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あきゅろす。
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