硝煙の匂いが、まだ身体にこびり付いている。 「stronzo……」 汚い言葉が口をついて出る。 シャワーのぬるい水流が、びしゃびしゃと音を立てて降り注いでいる。 これから恋人に会うと言うのに、心の中は暗く、重たい。 柑橘系の香りの泡で何度も何度も肌を擦るけれど、そのうちスポンジまで、血なまぐさい色に染まってしまう。 鼻が麻痺しているようだ。 鉄の錆びた臭い。そればかりが、鼻腔に染みついて、取れない。 ぺ、と吐き捨てた唾がシャワーの湯に溶けて混じり、流れていく。 「……Kyrie eleison……」 似合わない祈りの言葉を呟いて、失笑する。 どうか憐れんでやってくれ。 この俺に、命を奪われた哀れなあの男のことを。 項垂れたままの後頭部へと絶え間なく降り注ぐ水の音に、祈りの言葉は掻き消される。 畜生、と壁に叩きつけた拳はずるりと滑り、バランスを崩して額を壁に打った。 ぴぴぴ、ぴぴぴ、とドアの外に置いたアラームが、出発の時間を告げている。 殊更ゆっくりとコックに手を伸ばし、緩慢な動作でそれを閉める。 きゅ、と小さな音を立てて、水流が止まる。 シャワールームから出る為に数歩の距離を歩くと、髪から滴る雫が足元でぴちゃぴちゃと音を立てる。 血溜まりを歩いている様だ。 ああ、嫌だ。 真っ白なバスマットで足を拭き、上質なタオルで体中の水滴を拭っても、それでも染みついた煙の臭いが取れないような気が、した。 「ボス。」 腰にタオルだけ巻いて部屋を出ると、腹心が着替えを用意してくれていた。 腹の中に重たいものを抱えたまま、用意されたジーンズとTシャツに袖を通す。 くん、と思わず身体の臭いを嗅ぐと、腹心が苦虫を噛んだような顔をする。 「……洗い立てだぜ。」 「……ああ、解ってるさ。」 「無理すんじゃねぇぞ。」 わし、と腹心の手が、俺の頭を撫でる。 大丈夫だ、とは言えなかったけれど、もう行かなくてはならない。 愛しい人は、時間に厳しいひとだから。 ああ、だけど、あいつはもう、愛しいひとを腕に抱くことさえ出来ないのかと、失笑が漏れた。 「遅い。」 五分遅刻で訪れた応接室。案の定、そこの主は不機嫌そうに眉間に皺を寄せて腕を組んでいた。 いつもなら、そんなに早く俺に会いたかったのか、とか、軽口を叩いて喜ぶのだけれど、今日はそんな気分になれなかった。 「悪い。」 ぶっきらぼうに答えると、恭弥は一瞬鼻白む。それから、一層眉間の皺を深くした。 「……気に入らないなら帰りなよ。」 むす、と呟く恋人の姿に、俺は漸く、しまった、と後悔する。 恭弥は何一つ悪くない。八つ当たりするような真似をするのは、いけない。 ――例え俺がどんな状況であれ、だ。 「……ごめん。疲れてたんだ。でも、恭弥の顔みたら吹っ飛んだ。」 そう言って何とか笑顔を浮かべようとつとめる。 頬の筋肉はやけに重たくて、とても持ち上がる気がしないけれど、それでも恭弥の眉間にくっきり刻まれていた皺が少し薄らいだ。 今日はどうする、問いかけると、手合わせしようよ、と当たり前のように答える。 その顔には抑えきれないといわんばかりの期待が見えて、俺は少し気が重たくなる。 手合わせが嫌なわけではない。教え子の成長を実感出来るのは、家庭教師としても嬉しいことだ。 だけど、こうして鍛えた力でいつかきっと、この子は。 「嫌なの?」 恭弥の声で意識が弾けた。 相当渋い顔をしていたらしい。恭弥の眉間にみるみる皺が寄る。 「ああ……いや。」 「嫌ならいいよ。帰る。」 付いてこないで、と言わんばかりの言い方に、俺も少しカチンと来る。 俺が感傷的になってしまっているのは俺の都合で、それを恭弥に押しつけるような真似はいけないと、頭では分かっているんだが。 「待てよ。」 語気が強くなってしまう。振り向く恭弥の瞳にはまぎれもない苛立ちの色が浮かんでいて、それが一層俺を苛立たせる。 お前には、俺みたいな思いをさせたくない。それだけなのに。 「離して。」 「どこ、行くんだよ。」 自分の声のあまりの昏さに、自分でも少し驚く。 が、それ以上に驚いていたのは当然ながら、恭弥のほうで。 一瞬ぎろりと強く睨めつけられた。 ごめん、と呟くしか出来なくて、俺はしゅんと項垂れる。 すると恭弥は呆れかえったように、はぁと溜息を吐いた。 「今日のあなた、おかしい。」 誤魔化しきれないな、と己のポーカーフェイスのなっていなさに苦笑が漏れる。得意なつもりだったのに、恭弥の前ではちっとも上手く被れない。 「ごめん。」 「謝っても仕方ないでしょ。手合わせするの、帰るの。」 恭弥の求める物はとてもシンプルだ。 ななつも下のちんちくりんに、そんなこと求める方が筋違い、なんだけど、でも。 「……一緒に、居て?」 恋人なのだから。 弱っているときくらい、支えてほしい。――甘え、だと、解ってはいるんだけど。 「何があったの。」 嫌だ、とも、良いよ、とも言わずに、恭弥は俺の方に向き直った。 言いたくない、と答えると、じゃあ帰って、と冷たい答え。 そりゃそうだ。 甘えさせて貰う対価、か。 「じゃあ、話すから――傍に居て。」 きっと、泣きそうな顔をしていたんだろう。 恭弥は呆れたような顔で、先ほど立ち上がったばかりの応接室のソファに再び腰を下ろす。 俺は黙って、その隣に腰を落ち着けた。 「大したことじゃねえんだ――」 組んだ手を、まるで祈るかのように額に寄せて、肘を膝に預ける。 瞼を閉じると、まだ今朝方の光景がそこに焼き付いていて吐き気がする。 「ただ、ちょっと、抗争があって。」 抗争、という言葉に恭弥の肩がぴくりと跳ねた。 声には出していないけれど、興味深そうに瞳が輝くのが解る。戦うことと、血の臭いが好きな俺の教え子。 「一人、死んだ。」 マフィア同士の抗争で、死人が一人だったというのはマシな方だ。いや、奇跡に近い。 人を殺したことが無いなんて言わない。 けど。 「殺したの。」 「……うん。」 「敵でしょ。」 敵をころして何が悪かったの、と言わんばかりの顔をしている恭弥の、まっくろな瞳を見ていられなくて、最初から目は合わせていないのだけど、見詰められている事さえ苦痛で。 大きく息を吸って吐く。 手のひらに残っている、重たい小銃の感じ。硝煙と血の臭い。 直接手を掛けた訳じゃないのに、ちいさな弾が柔い肉を抉る感触さえ、覚えているような気がする。 俺に向けられた銃口と、その向こうの冷たい目。 昨日まで、笑っていたはずの瞳。 「仲間。」 長い沈黙の後俺が答えると、恭弥は少しだけ意外そうな顔をした。 「裏切ったの。」 「うん。」 「なら、いいじゃない。」 ころされて当然だよ、その男。と、恭弥の声が聞こえた。 それと同時に鋭い音がして、気が付いたら恭弥の頬が赤かった。右手がじんじんと痛い。 「冗談じゃない。殺されて当然の奴なんか、居るか。」 頭に血が上っているのが解る。酷く感情的になっている。 けれど、頭の中の僅かにどこか冷静な部分でさえ、自分が感情的になることを許している。 この子に、大切な俺の恭弥に、そんなこと言って欲しく無い。 恭弥はただ呆然と、少しだけ不機嫌そうに眉を寄せてこちらを見ている。 「あいつだって、嫁さんが居た。両親だってまだ生きてる。そいつらにとっては、大切な、ただ一人の人間だったんだ。」 それを俺が殺した。 殺す以外の道が無かった。それは血の掟だから。 いや、それ以前に殺さなければ俺が殺されていた、か。 「でもそいつは、あなたを殺そうとしたんだろ。あなたが殺されてたら、きっと僕がそいつを殺すよ」 恭弥の瞳は変わらずにまっすぐで、俺はただただ悲しくなる。 恭弥の言っていることはきっと、正しい。こいつが将来、歩むであろう――歩まざるを得ないだろう道を考えれば。 そして、俺もきっと恭弥のように考えなければいけないのだろう。俺の立場を考えれば。 けど、俺にはそれが出来ない。 ころして当たり前とか、ころされて当たり前とか、そう言うのは、嫌だ。 「俺は、お前に誰も殺させたく、ない。」 「随分甘やかすんだね。僕に、人のころしかたを教えてる癖に。」 恭弥の言葉に息が止まる。 そして気がついたら、右手で恭弥の首をしっかりと掴んでいた。細い細い、このまま折れてしまいそうな白い首。 指が食い込んで、恭弥の喉からひゅうひゅうと細い息の音が。 「殺しかたなんて、教えたことねえよ。」 ぎゅう、と右手に力を込める。 親指と人差し指にはたしかな動脈の、脈打つ感触。血の巡りを止めれば失神する。 手のひらに捕らえた気道。これを、潰せば。 地面に足が届かないギリギリのところまで持ち上げる。あと少し、持ち上げてやるだけでいい。 「自分の体重で首が締まって、死ぬ。これが、殺しかただよ、恭弥。」 びっくりするくらい優しい、けれど暗い声。こんな声が自分に出せるのかと、戦慄さえした。 多分もう大分意識は朦朧としているだろう。 藻掻いていた脚がだらりと大人しくなる。俺はそっと手を離した。 恭弥はその場に崩れ落ちる。ただでさえ白い肌が青白くなって、げほげほと咳き込んでいる。 「解ったか恭弥、相手を倒す方法と殺す方法は全く違う。俺はお前に、殺しかたなんて、一度も教えてない。」 「……随分、なめられた、ものだね……」 多分一気に血が回り始めたせいで、目眩を起こしているのだろう。立ち上がる足取りが不安定だ。 「恭弥……」 手加減なしで絞めてしまった頸が心配なのと、まだ納得がいかない様子なのに対する苛立ちがない交ぜになって、結局俺は何も出来ないで恭弥の名前を呼ぶ。 「誰も、殺させたくないんだ、恭弥。」 こんな鉄錆の臭いの、重たい荷物、恭弥の華奢な肩に乗せたくない。……絶対に。 それは俺のエゴ、だけと。 漸く意識がはっきりしたらしい恭弥が、苛立たしげな目で俺を睨んでいた。 「馬鹿だね。無理に決まってる。」 「まだ戻れる。」 「これを持ってる限り無理、だろ。」 そう言って恭弥がちらつかせるのは、雲の刻印がされた指輪。 そうだ、それが有る限り、裏の社会からは逃れられない。 「そしてあなたは、僕がこれを受け取ったからここにいる……違うかい?」 挑発するように笑う恭弥に、俺は苦いものを感じながら頷いた。 恭弥があのリングを継承しないなら、一般人と無駄な関わりを持つわけにはいかないから。 「なら僕はこれを手放さないし、手放さない以上いつか誰かを殺す必要がでてくるでしょ。」 「恭弥……」 そんな風には、思ってほしくないんだ。この思いは――ただのわがままだけれど。 けれど俺は、恭弥からリングを取り上げることも、できない。この子を、手放せない。 血生臭い道を歩かせることになるとわかっていても、それでもだ。 「僕、何か間違ったこと言ってる?」 子供のように純粋で傲慢な瞳が、俺の顔をまっすぐに覗く。 「そうだな、倫理のテストなら不可がつくだろうな。……マフィアのテストなら百点満点だけど。」 「生憎、安っぽい倫理とやらには興味が無いんだ。」 「うん……でも、いつかわかる。……わかって、欲しい。」 多分、俺も恭弥も間違ってはいないんだ。 俺は恭弥みたいに生きなきゃならないし、恭弥はもっと、慈しみとか、ひとの痛みを知らなきゃならない。 それを教えてやれるのは俺だけ、なんて傲慢かも知れないけど。 「恭弥、ありがとう、ごめん、愛してる。」 伝えたいことがいっぱいで、全然理論的な伝えかたが出来ない。けれど、俺は恭弥の体を抱き締めた。 「ちょっとだけ、胸貸して。」 「……そこは肩だけど。」 そうだな、と苦笑してから、泣いた。 死んでしまったあいつのために。 それから、裏切られた悲しみに。 ああ、始めからこうすればよかったんだ。 俺は多分、泣きたかったんだ。 恭弥は黙って、でも、動かないでいてくれた。 それが、とても暖かい。 「ありがとう、恭弥。」 ひとしきり泣いて、俺は顔を上げた。 「もう、大丈夫だ。」 「そう。……手合わせしようと思ったのに、もう夜じゃない。」 「ごめん、埋め合わせは絶対する。旨いもん、食べにいこう。」 必ずだよ、と言う恭弥の手を取って、応接室を後にする。 きっと、いや、絶対に、また俺は誰かを殺して、恭弥だって、いつまでも綺麗じゃ居られなくて、それでも俺達はこうして生きていくんだ。 ……いつか恭弥が俺みたいに泣きたくなったら、今度は俺が胸を貸してやろう。また泣きたくなったら、胸を借りよう。いや、肩かな。 「……Kyrie eleison」 もう一度だけ、祈りの言葉を口にする。 どうか憐れんでやってくれ、哀れな子羊たちのこと。 何か言った? と首をかしげる、愛し子のことを。 あなたのもとには永遠にたどり着けないから、せめて。 *---------- お待たせしてしまって申し訳ございませんでしたあああああ!! と言うわけでありす様より頂きました、「シリアス→甘の喧嘩もの。ディ ノさんマジ切れ。」でした。 そういえばうちの跳ね馬に、恭弥相手にマジギレさせたことがなかったなぁ……と。収拾がつかず、大変長い時間を頂いてしまい申し訳ないです…… 本当にリクエストありがとうございました。お気に召して頂ければ幸いです。 <<*#>> [戻る] |