何故か、朝から海の上に居る。
事の始まりは今日の早朝のこと。
いきなりやってきた――いや、前日に、朝早く行くから、とは聞いていたのだけれど、まさか日が昇ると同時にやってくるだなんて思わないではないか――跳ね馬に車に押し込められた。
おはようのキスには応じてやったけれど、それから先の会話は拒否して助手席で一眠りした。そして、起きたら、基、起こされたら、目の前には水平線が広がっていた。
何で海、と思う間もなく、手配してあったと思われる船に乗せられて、それで、今だ。
船は小さかったが小綺麗で、小さな船室にはテーブルセットとソファが置いてあった。
普段は、船上パーティーでもやるのに使うのかも知れない。
ディーノに促されるようにして、ソファに腰を下ろす。
スプリングのよくきいたソファのおかげで、揺れはそれほど気にならない。
雲雀は予想外の時間にたたき起こされた所為で些か不機嫌で、しかし、珍しい体験に少し楽しんでいるのか、アンニュイにも見える中途半端な表情で、ぼんやりと窓の外を見詰めていた。
その雲雀の肩にそっと手を回し、ディーノもまた、ぼんやりとした顔でどこかを見詰めている。
始業までには帰れるの、とぽつりと雲雀が呟く。
ギリギリだけど、間に合わせるよ、とディーノが答えると、それで満足したのか雲雀はまた黙った。
ボー、と低く響くモーターの音と、ばしゃばしゃと波を跳ねる音だけが、二人の耳を支配している。
長いような、短いような、中途半端な時間が過ぎて、雲雀が少しうとうとしてきた頃、音が止んだ。
そろそろかな、と一人呟いて、ディーノはよいしょ、と立ち上がった。そして、雲雀の手を取って船室から出る。
いつもなら素直に言うことなんて聞かない雲雀だけれど、船の上という慣れない、そして目新しいシチュエーションが、少し彼をおとなしくさせているのかもしれない。
二人はぽてぽてと、デッキの上に上がる。
ぷかりぷかりとちぎれ雲が浮かぶ中に、すっかり高く上った太陽が輝いている。
ねえ、何なのといぶかしむ雲雀に、ディーノはくすりと笑うと何やら黒い板を雲雀に差し出した。
反射的に受け取ってから、しかしディーノの意図が今だ掴めず、雲雀は手の中の黒い板を弄ぶ。縦十センチ、横二十センチ程度だろうか。薄い板だ。どこかで見たことがあるような気も、する。
ほら、とディーノが、自分の黒い板を空にかざしてみせる。
雲雀もそれに習ってみると、板越しに、まんまるなオレンジ色の太陽が見える。
直接見ればまぶしすぎて目が眩む太陽も、黒い板を透かして見ると、その輪郭をハッキリととらえることができる。
しかし、だからなんだというのだ。雲雀が文句のひとつも言いたげに口を開こうとした、その時。
ほらほら、とディーノがはしゃいだ声を上げる。
その視線は黒い板に釘付けで、雲雀は少し呆れ気味に、再び板越しの太陽に目をやる。
すると、太陽の端が、ほんの少し、黒く欠けていた。
じっと見詰めていると、その黒い部分は太陽をかき消す様に、少しずつ面積を増していく。
ああ、日食か、と、雲雀は漸く気がついた。
月が太陽を覆い隠す自然現象だ。
全く、それほど珍しい現象でもあるまいに、わざわざこんな所に連れてきて観賞会か。雲雀はやれやれとため息を吐いた。
小学生の頃に、理科の授業で観察した記憶がある。
確かに、太陽と月ではバスケットボールと針の先ほど大きさが違うというのに、こうして重なって見えるというのは興味深い現象ではあるけれど。
はしゃぐディーノをよそに、雲雀は黒い板を下ろす。
先ほどまでに比べると、確かに少し薄暗いだろうか? しかし太陽は相変わらず煌々と輝いて眩しくて、食が起きているということなど微塵も感じさせない。
まるで、この人の様だ。
いつだって笑顔で、少しくらい遮られても、それが曇ることは無い。
周囲を明るく照らし続ける日輪。
「あなたは――太陽みたいだね」
ぽつりと呟くと、ディーノは黒い板から目を離し、雲雀の顔をまじまじと見詰める。
それから、嬉しそうににっこりと笑った。
食はいよいよ進行しているのか、辺りは少しずつ薄暗くなっていく。
けれど、相変わらず太陽はまぶしくて、直視することは出来ない。
まだ見てるの、とあくび混じりに問いかけると、ディーノはもう一度板を手にすると、雲雀の目の前にかざして見せた。
みて、と微笑むディーノに、何なの、といい加減うんざりしながら、それでも律儀に黒い板を覗き込むと、そこには。
丸い、オレンジ色のリングがくっきりと映っていた。
金環日食、という言葉が、脳裏に思い出される。
それは確かに、珍しい現象なのかも知れない。少なくとも、雲雀は初めて見たのだから、ここ十数年では起こっていないことになる。それなら、これほどはしゃぐのも納得出来るというものか。
――実際の所、次に関東で観測出来るのは三百年後と言われているくらいで、本当に、非常に珍しい現象なのだけれど。
「恭弥は、月――かな」
いつの間にか雲雀の背中にぴたりと寄り添って居たディーノが、同じグラス越しに太陽を覗き込みながら、くすりと笑った。
青白い、静謐な光を放つ月。それは確かに雲雀によく似合う。
太陽の光を受けてひっそりと輝くその姿も。そして、今こうして重なり合っている姿も。
そこまできっと、ディーノは考えているのだろう、と思うと、嬉しいような、恥ずかしいような、苛立つような、腹が立つような、ムカ付く。
雲雀はぷい、と横を向いた。
それを見たディーノはおおらかに笑う。
もう帰ろう、という雲雀に、まって、とディーノは太陽に向かって手を伸ばした。
捕まえられるとでも思っているの? と冷ややかに見詰めていると、太陽のような笑顔がこちらを振り向く。
ほら、と差し出された手のひらの中には、きんいろの、小さなリングが握られていた。
「La prego di sposarmi?」