紙切れに指定された時間にアパルトメントを訪ねた。
四番、と彼が呼ぶその部屋は、「アジト」などという無粋な呼び方は似合わない洒落た空間で、建てた人間のセンスを伺わせる。
しかし室内は物が少なく、まるで生活感がない。住んでいる人間のセンスは、ちっとも感じられなかった。
何度か訪れた部屋の中を思い返しながらドアをノックすると、間を開けずに見慣れた顔が中から現れる。
「よ。」
向けられた笑顔に少しだけ気持ちが弛むのを感じながら、どうも、と軽く会釈する。
久しぶりだな、とイエミツの眦が下がった。
「まあ上がれよ、ゴタゴタしてるが。」
ゴタゴタするほど物もないでしょう、と言い掛けて、イエミツの向こうに見えた部屋の様子に絶句した。
いくつもの段ボールが積み上げられ、いくつかは蓋が開いている。その中からは洋服やら本やらが取り出されようとしている所だった。
「この、荷物は?」
中へ通されてみれば、外から見ただけでは解らなかった内部の惨状までもが明らかになり、俺は一瞬問う言葉を失いかけた。
とは言っても段ボール自体は五つか六つ程度で、入口から見えたものが全てだった。荷物はそれほど多い訳ではなさそうだが、それだけしかない荷物が、しかし無秩序に散乱しているせいで部屋の中はひたすら汚く見えた。
「暫く此処に落ち着こうと思ってな。」
お前が来る前には片付くと思ってたんだが、とイエミツは肩をすくめる。
今まで俺が足を踏み入れた彼のねぐらは三つ、いや四つだったか、いくつかあったが、どこも全て整然と片付いていたものだから、今の今まで彼は綺麗好きなのだと勝手に思っていた。しかしそれは単に、主に寝泊まりする部屋へ通されていなかったというだけのようだ。
アジトを移すような事態ということは、仕事の事情かはたまた、どこかに情報が漏れたか。いずれにせよ、その辺りの事情を俺が訊くのは憚られた。
「手伝いますよ。」
ねぐらの移動には慣れてる、と苦笑を返しながら、俺は当たり障りのなさそうな洋服の詰まった段ボールに手を掛けた。
「おう、悪いな。」
イエミツは悪びれずに笑うと、段ボールから本を取り出しては棚に並べていく。が、何を思ったか不意に立ち上がると他の箱の蓋を開けて中をかきまわし始めた。
「何を……?」
「ん、おう、資料が一冊抜けててなー……ゆっくり荷造りしてられなくて適当にぶち込んで来たからな、どこに紛れたもんかと……」
やはり何かのっぴきならない事情での転居だったようだ。
しかしそれとこれとは別、というか。
「全部荷物を開けば見つかりますって……一箱ずつやらないと終わりませんよ。」
「しかしな……」
「俺も引越しの度にカルテ見失いますけど一々探してたら荷ほどき終わる前に次の引越しです。一箱ずつ開ける方が絶対早い。」
言いながら衣類の入っていた段ボールを畳んでやる。中身は既にチェストの中だ。
その様子を見たイエミツは軽く肩をすくめ、もと開きかけていた箱へと戻って行った。 時たま違うことを始めようとするイエミツに何度か忠告しながら荷ほどきを進めること小一時間、漸く全ての段ボールが畳まれ、室内は秩序を取り戻した。
「おー、早いな!助かったぜ。」
ニカッと人の良い笑みがこちらを向く。
高く付きますよ、と嫌味半分に言ってやるとイエミツはやれやれと肩をすくめた。
差し当たり夕飯は奢ってもらおうと心に決めて口を開きかける。
「じゃあ、これでどうだ?」
俺が口を開くより一瞬だけ早く、イエミツがポケットから何かを取り出し、俺の目の前にぶら下げる。
鍵のような、と思って良く見たが、鍵でしかなかった。
渡される鍵の心当たりなどいくつも無いが、しかしそれはにわかには信じがたい。
「これは……」
「暫く、大きな仕事はなさそうなんでな……ここならいいだろ。」
そう言ってにっこりと笑う。
はあ、と思わず中途半端なため息が口から漏れた。
「ん?どうした、いらないか?」
イエミツが訝しげな顔をする。
俺は慌てて笑顔を取り繕った。嬉しくない訳ではないのだ。ただ。
「こんなもの、貰える日が来るなんて思って無かったから。」
お互い、日の当たる商売じゃない。いつ死んだっておかしくない。
だから、だろうか。
それとも男同士だからか。
俺達の関係は、今だけのものだと、いつまでも続くものではないと、そう思っていた。
イエミツもそう思っていたからこそ、今まで部屋の合鍵を渡すようなことはなかったのではないか。
「ま……なんだ、本当は渡しときたかったんだが……前んトコはちと治安がな。」
何かを誤魔化すように頬を掻いて、イエミツは口の中でブツブツといくつかの言い訳を並べる。
「それに、なんだ、お前……じき、誕生日だったろ。」
ガリガリと後ろ頭を乱暴にかきむしりながらそう言うと、黙って受けとれ、と俺の手の中に小さな鍵を押し付けた。
「住めとは言わねえよ、気が向いたら好きに使えばいい。連絡があれば書き置きでもしとけ。」
言いきってそっぽを向くイエミツの、耳の先が少しだけ赤かった。
「一応……とっときます。」
これが将来の約束だとか甘ったるいことは考えていない。彼のアジトはいくつもあって、そのたったひとつの鍵を預けられただけだ。
だけど……今までイエミツからの連絡を待つしか無かった関係が、少しだけ、少しだけ変化したことは事実だった。
俺は鍵をポケットに落とす。
「じゃあ、もうすぐ誕生日な俺に夕飯でも奢って下さい。」
つとめて平然と言ってやると、イエミツはやれやれと肩をすくめた。何が食いたい、と言いながら財布を手に取る。
「旨いズッパを出す店、知ってるんですけど。」
「おうおう、なんでも奢ってやらぁ!」
景気の良いことを言うイエミツの後ろに着いて部屋を出ると、彼は鍵を掛けようともせずスタスタと階段を降りていく。
おい、と呼び止めると、鍵よろしくー、となんとも気の抜けた返事が飛んできた。
俺は足を止めて、やれやれと肩をすくめる。それから、ポケットの鍵を取り出した。