日記ログ
E
『サンキュ』



在校生に見送られ校門から去る卒業生たちの少し誇らしげな背中が住宅街に散り散りに消え、1年生及び2年生は会場の後片付けに入った。
そんな中、こっそり一人抜け出して、屋上から彼のバイクの音を探す。
人と群れるのが嫌いな彼は、玄関前で最後の別れを惜しむ生徒たちより二足くらい早く、カウリングに太陽の光を反射させたバイクに跨がり行ってしまった。


手の中には、彼の制服のボタン。
(欲しい、なんて言わなかったのに)
風紀委員の腕章靡く学ランから、ぶちりと無造作にもぎ取って握らされたもの。


『そんなに欲しかったんなら、素直に言えば良いのに』
『べ、別に欲しいなんて』
『凄く物欲しそうな顔してるよ』
『・・・う!』
『全く・・・最後じゃないんだから』
『そ、んなの・・・別に・・』
『電話もするし、寿司屋にも行くし、部活終わったらお持ち帰りもするよ。・・・今までと変わりなく』
『・・・だってひばり、そんな時間あんのかよ』
『そりゃ他の奴に割いてやる時間は無いけどね。君になら24時間OK』
『・・・あは、何だそれ』
『・・・だから、そんな泣きそうな顔しないでよ』


雲雀が安心出来るように、笑って見送っていたつもりだった。だけど、やっぱり俺はまだまだがきんちょだから、気持ちを隠し通せなかったらしい。
ていうか、他の奴等には隠せることも、どうしてか雲雀にはバレちまう。なら最初から素直に言えば良いのかもしれないけど、その辺りは男としてのプライドとか意地もあるから難しい。
中学と高校っていっても同じ町内にあるんだし、ほんのちょっと足を伸ばせば良いだけだし、雲雀の言う通り電話とかの連絡手段だってあるんだし。
そう思うのに、明日から学校に来てもいないんだと、階段ですれ違うことも、風紀委員の検査で名前を書かせられることも、応接室のソファーに並んで座ることも無いんだって思うと、何て言うかこう、心にぽっかり穴でも空いてしまったような、そんな気分―――。
「こ〜ら、サボってんじゃないわよ」
「おわ?!」
突然背後から背中を叩かれ、心臓が飛び上がった。顔だけ振り向けば、風に煽られたスカートを押さえながら、黒髪を靡かせた黒川がいつ来たのかすぐ後ろに立っていた。
「なあんてね。あたしも片付けサボって来ちゃったんだけど」
屋上の金網み指を掛けている俺の隣に、ストンと腰を下ろす。
「・・・雲雀に第二ボタン貰えた?」
「・・・おう」
「そっか。あたしはあの人から貰えなかったなあ」
「・・・そーか」
風の強い屋上は黒川の髪を後ろから煽って、表情を隠した。


黒川が三年のテニス部の、背が高く大人っぽい外見の主将に熱を上げているのは、実はクラスでは密かに噂になっていた。
誰にでもずけずけ物を言うアイツが、その人の前では真っ赤になって黙ってしまうのだとクラスの男連中はからかい半分に影で笑っていて、黒川はそういう奴等に気付いていながら『ガキ』と言って取り合わないから、余計そいつ等は図に乗って囃したりして。
『だけど、好きな人を前にしたら誰だってそうなるんじゃねえ?お前ら違うの?』
そう言ったらそいつ等は恥ずかしそうに黙ってしまった。
友人である黒川が変に噂されているのが我慢ならなかったんじゃなく、自分も雲雀の前では言いたい事がはっきり言えなかったりする事だってあるから、そういう気持ちを茶化されて何となく腹が立ったのだろうと思う。


とにかく、黒川はその先輩に今日、気持ちを伝えたのだ。そうして、フラれた。
好きな人に想いが伝わらないのは、とても悲しいだろう。泣きたいくらい切ないだろう。だけど気の強い黒川だから、そんな顔を友人に見せるのを躊躇って、だからここに来たんだろうな。
(似た者同士・・・かな)
俺も、弱気な自分は見せたくないと思った。だって優しいツナや獄寺は、何だかんだいったって心配してしまうだろうから。
心配なんかかけたくないと思った。こんな顔、見せたくないと思ったのだ。


―――雲雀以外には。


黒川は屋上の出入り口の方、俺は金網越しの並盛の街並みを、それぞれ違う方を向いて、種類の違う、それぞれの寂しさに思う存分浸った。
カーンカーンと抜ける排気音が並盛山の方から微かに聞こえるのに耳を澄まし、彼の行く先を頭の中で辿った。ずっとずっと、時間が経つのも忘れて、彼の後だけ追った。時折風に混じって、小さく鼻をすする音が聞こえたけれど、ずっと雲雀の後を追い続けた。


暗くなってしまった帰り道、送って行く途中の自動販売機で温かいミルクティーを二本買い、黒川に渡した。
目の縁や頬骨の辺りが擦れて赤くなっているような気がしたけれど、きっとそれは街灯の黄色い明かりのせいだろう。
プルタブを開けてミルクティーを流し込めば、どれだけ体が冷たくなっていたのかが判った。体の芯が、ほんのり温かくなって、少しだけ気持ちが落ち着く。
「山本」
「ん?」
「・・・ありがと」
「おう。黒川もな」
「え?」
「ひばりのこと。・・・知った後も誰にも言わないでいてくれて、サンキュな」
「・・・馬鹿ね、言ったらアイツに殺されんのはあたしよ」
「あはははは」
「笑いごっちゃないわよ!」
そう言う黒川も、大口開けて笑い出した。その指先はかじかんでしまったらしく、しきりに缶に押し当て温めている。
いつか、その指を包み込んで温めてくれる人が彼女にも現れるだろう。
それまでは、こうして隣を歩きながら彼女の好きなミルクティーを奢ってやろう。
お互いに別々の方向を見ながら、お互いに違う相手に想いを馳せて、


心だけ、肩を組んで。


――――――――――――

スクアーロ2010誕生日小話1


白に近い銀髪に、淡い桃色が一枚、また一枚。
山本武からスペルビ・スクアーロへの誕生日プレゼントは、満開の桜並木だった。
「並盛川の桜並木っていえば、町内でも有名なんだぜ!」
はらり、ひらりと風に舞う桜の下で、まだ幼さの残る笑顔が陽射しにとける。
桜は、しばしばその散り際の潔さを侍に例えられるのだ―――とは、今目の前にいるこの子供が遠くない未来、俺に教える事になるのだが。
昔、本当にまだ幼い頃、日本贔屓の伯父にどこかの庭園の桜を見に連れていかれた記憶がある。
その頃は情緒なんてものは欠片も育っていなくて、曖昧さを好む日本人らしい花だと皮肉った。
今、こんなにも美しく見えるのは、自分がその美を理解できる程に年を重ねたせいなのだろうか。


それとも


「スクアーロ」
上ばかり見ていた俺を、まだあどけない色を濃くした瞳が捉えていた。
「何があっても、俺頑張るから。もうアンタに痛い思いさせたりしねえから」
そうして手渡されたのは、布で丁寧に包まれた己の義手だった。
「もっと強くなるから。親父もアンタも仲間も、みんなみんな守れるくらい、強くなるから」
硬い声、硬い表情。決意はしろと言った。だがそれは、全てを抱えろという意味ではない。
人一倍他人の痛みに心を砕くお前を、俺は嫌いじゃない。誰よりも努力家であることも知っている。お前が望めば、それは叶えられなくは無いだろう。
だが今はまだそこまでする必要なんてない。人には持って生まれた力量ってものがあって、それは確かに無限の可能性を秘めているかもしれないが、まだ幼いお前が、今以上のものを手にしようと足掻く必要は無いのだ。
第一、お前にそんな顔は似合わない。
「ばかかあ?誰がてめえみてえなひよっ子に守ってもらいてえもんかよ!自分の身は自分で守れらあ!――――だから、お前はお前が出来ることを、すりゃあ良いんだよ。何してたって、親父が気に掛かって仕方ねえくせに」
僅かに見開かれた薄茶が揺らいだ隙を見逃さず、スクアーロは渡された義手を静かに足下へ放り、山本の狭い背中を抱き寄せる。
どっかから殺気がびんびん伝わって来るが、そんなもん気にしてられるか。
この時代の俺が、14歳の山本に直接してやれることは少なすぎるのだから。
「お前はまだ若けぇ、技だってこの時代の山本に比べりゃ粗削りだし、考えも足りねえ」
腕の中の山本は俯きながらも頷き、スクアーロの言葉を素直に受け止めているようだった。
「だが吸収は早い。柔軟な頭は何だって吸い込んじまう。・・・良いもんも悪いもんもなあ」
ポンポン、後頭部を軽く叩いてやれば、透明な雫が一つ、二つ落ちて土に染みを作った。
覚悟は必要だと言った。剣一本で行く、その覚悟は。だがその為に感情を切り捨てろとは言っていないし、誰かを庇って倒したくもない相手に斬りかかり、それで自分が傷付いていては意味が無い。
辛い気持ちを押し殺し、仲間の為に持てる力の限りを尽くしているお前に、まだたった14でしかないお前に、そんな重荷を背負えなんて言う筈がない。
「う゛ぉぉい、何の為に大人が居ると思う?ガキ共のフォローをするためだろうがあ」
慰めるように弾ませていた手で、今度は短い髪をぐしゃぐしゃ掻き回す。やめろよ〜なんて甘えた声を出すのも、今は許してやろう。
「お前らが出来ねえ分は、キチッと俺たちがカタつけてやるから、お前はお前の信じるようにやりゃあいい」
感情を切り捨てて向かってくる敵を薙ぎ倒すなんて芸当は、今はまだしなくていい。
いや、して欲しくはない。
この時代を生きるお前を間近で見ている俺は、特にそう思う。
生身の手が包まれ山本の頭上から外されたかと思ったら、まだ柔らかな輪郭を残した顔がスクアーロを見上げていた。
「ありがと、スクアーロ。何かさ、スクアーロの誕生日なのに俺が励まされちまった」
ボサボサになってしまった髪を指で撫でながら、山本が照れくさそうに笑う。
「ふん。だいたいなあ、三十路を過ぎちまったら誕生日なんか嬉しくねえんだよ」
「そうなのか?」
「てめえも30越えてみりゃわかるぜえ」
「あははっそうだな!」
そうだ。哀しみや辛さが吐き出せる場所がある内は、一時だけでも預けて、そうやって笑ってろ。その内、嫌が応でも独りで抱えて歩いて行かなきゃならない時が来るのだから。
「誕生日プレゼント、桜見物だけしかできねーけど、過去に還ったらイタリアに何か送ろうか?」
「いらねえよ。お前にプレゼントなんか貰ったら、俺の命が危ねえ」
「何だよそれ」
「知らんでいい」
額を少し強めに小突いてやれば、桜の下、涙を擦ったせいで桜色になってしまった頬が嬉しそうに綻んだ。
踵を返し、スクアーロを先導するように歩き始めた背中に、薄紅がちらちら影を映しながら風に舞う。
苦しみも哀しみも全て独り飲み込み痛みを湛えた目で笑う、自分には決して弱さを見せなくなった山本の広く寂しい背中が不意に甦り、スクアーロは口許に苦い笑みを浮かべた。




俺の前で素直に涙を流し、そして嬉しげに笑うお前がなによりの―――。


―――――――――――
スク誕2



幾ら傷に慣れた体とはいえ、巨大鮫にズタズタに切り刻まれた筋肉は回復には時間を要していた。
見張りを兼ねたキャバッローネ傘下の病院はリハビリ施設が完備されていて、スクアーロは1日の四分の一をそこで過ごしていた。
一刻も早く以前のように動けるまで回復しなければ。焦ったところで仕方ないとは思うものの、スクアーロは毎日誰よりも熱心にリハビリを受けていた。
そうしないことには、あのボスだ、さっさと見限られ自分の代わりを探してしまうやもしれない。常に不安はつきまとう―――。
流れる汗をものともせずに痛みを堪えて、ベッドに横になっていた間に萎縮してしまった筋肉を理学療法士の手で伸ばしてもらう。
「スクアーロ」
見慣れた金髪が、リハビリ室の自動ドアを潜り抜けて来た。封筒らしきものを手に携えて。
「なんだあ、大した用事じゃねえなら、外でてろ」
理学療法士に足や腕の屈伸をされているスクアーロは、すげない口振りでディーノを追いやろうとした。
プライドの高いスクアーロだから、包帯は取れたとはいえ、自分で動くことすらできない姿など見られていたくはないのだろう。
幼なじみでもあるディーノは、自分の体でありながら思うようにならず日々苛ついているスクアーロの気持ちを逆撫でしないよう、なるべく早く立ち去ろうと手にしていたエアメールを銀髪が腰掛けるマットの上にそっと置いた。
「これ、昨日届いたんだぜ?誰からだと思う?」
「あ゛あ?」
赤と青の縁取りの封筒は、まさしくエアメール。イタリア以外の場所に赴くことはあっても、それはもっぱら仕事で飛ぶだけで、手紙を貰うような親しい間柄になるような人間はいなかったはず。
まさか、個人的な仕事の依頼だろうか?・・・無理に決まっているのに。
怪訝な顔に、ディーノが苦笑して「ホントにアイツって律儀だよな〜」と笑って去って行った。



「少し休憩しようか」
理学療法士がスクアーロの肩を一つ軽く叩いた。汗が額から頬を伝い、スクアーロはままならないながらも腕を持ち上げ、拭う。
白いマットの上に置かれた封筒の差出人を見れば。

『Takesi yamamoto』

スクアーロは筋肉の震えを覚えながらも何とか手紙を持ち上げ、歯と歯の間に挟むと、無造作に噛み切った。
一体なにが書かれているのか。あのマフィアのマの字も知らない子供から、自分に言いたい事など想像もつかない。
果たして、中からは端が切れてしまった白い便箋と、そして。



突然ホールに響き渡った笑い声に、リハビリ室の全員の目が向く。
「しばらく見たくなかったのによお。――――ハッ、・・・・ばあああか新年も俺の誕生日も、とうに過ぎてんだろうがあ」
腹筋どこれか、全身が痛むのも構わずにスクアーロは笑った。こんなに笑ったのは入院してから初めての事だった。




『誕生日おめでとう!今年もよろしくな!



山本武』






――――――――
ヒバ山(叔父×甥)





 今日こそ彼女に告げよう。


 仕事から一旦帰宅してから乗り込んだセダンで、一路いつも待ち合わせるホテルのラウンジへと向かう。
右手でハンドルを握りながら、雲雀恭弥はスーツの内ポケットで出番を待つ小箱を、上着の上から確かめるようにそっと押さえた。






昼間は上着を脱がなければ暑いくらいだった陽気は、夜も夜中に近いこの時間、歩いている雲雀の体を芯から冷やすようだった。

少し飲み過ぎただろうか。

いや、背筋が震えるのは、夜風のせいなどでは無いかもしれない。

タクシーや代行を使って帰る気にもなれず、マンションまで一時間はかかる道のりを雲雀は歩いていた。

明日駐車料金を見るのが恐ろしいな。

生け垣から零れるように咲き乱れる紅色のツツジに、情熱を秘めた彼女の唇が重なる。






『武くんはとてもいい子だし、可愛いわ。大好きよ』


けれど、と彼女は悲し気に微笑んだ。


『私はあの子のお母さんになりたいんじゃない。貴方の・・・恭弥さんの妻になりたかったのよ』


 差し出すビロード張りの小さな箱を、細い指で押し返した彼女に、掛ける言葉は見つからなかった。


『武くんを大事にしてあげて。・・・私が貴方に言ったこと、あの子には決して言わないでね。あの子を、傷つけないで』


最後まで武への気遣いを見せて、彼女は静かに席を立った。
こんなにも武の気持ちを考えてくれているのに、何故?
そう思わずにはいられなかったけれど、だからこそ彼女の言葉が胸を突いた。


『私は武君のお母さんになりたいんじゃない。貴方の妻になりたかったのよ』


ずっと思っていた。聡明な彼女であれば、武の良き理解者になってくれるだろうと。
いびつな僕たちの隙間を埋めて、円い家族の輪を作ってくれるだろうと。


武と共に、愛していけるだろうと。


 最後まで涙を見せなかった彼女の強さに、ずっと自分が甘えていたことを思い知らされた。





漸く辿り着いたマンションのエントランスから、ガラスの扉越しに自分の歩いてきた道を振り返った。
人影の無い暗い夜道に点々と灯る街灯の下に、綺麗に刈り込まれた植え込み。上着のポケットから取り出したのは、給料の3ヶ月分―――とは言わないけれど。
自動のドアから一歩踏み出した雲雀は、軽く振り被って青紫色の小箱を放り投げた。
高い放物線を描きながら落ちたそれを、佇み暫く眺めていた雲雀だったが、上着の襟を正し再びエントランスへ入ると、エレベーターのボタンを押した。






 鍵を開けて中に入る。男二人暮らしの室内はどこか閑散としているが、一人が小学生なのもあり、置いてあるモノトーンの家具に、ちぐはぐなポップカラーが目に付いた。


ふと見れば、寝室の灯りがドアの隙間から漏れていた。


武は雲雀が外出したり残業で遅くなるときは、自分は先に寝ていても必ず枕元の電気をつけっぱなしにしていた。暗い部屋に一人で眠るのは、まだ怖いらしい。


武は小学二年生になっていた。


 スーツを脱ぎ、スウェットのズボンだけ穿いて上はシャツのまま、雲雀は武の隣へ潜り込んだ。酷く寒さを感じて、発熱しているような子供の背中に身を寄せれば、うん、と一度唸ってこちらを向いた。
「・・あれ?恭おじさん・・・お帰りなさい」
「ただいま」
今夜は遅くなるけど、お客様を連れてくるから。そう言って出た叔父が、いつも通りに隣に居ることを不思議に思っているような武に、雲雀は。
「フラれちゃったよ」
「え?!うそ!」
突然の告白に驚いた武が、布団を跳ね上げ飛び起きた。が、雲雀はそのまだ小さな体を抱き寄せ、背中からすっぽり抱き込んで。
「彼女、今は仕事に全力を注ぎたいんだって。丁度海外出張の話があるから、向こうで頑張るって」
武を傷つけないでと、最後まで自分の甥を心配してくれた彼女の気持ちを、ありがたく頂こう。
嘘はいけないと常々言い聞かせている雲雀だったが、今日くらいは許される気がした。
「・・・そっか、恭おじさん仕事に負けちゃったのかあ」
「そう」
「恭おじさんには勿体無いくらい、いい人だったのにね」
「・・その通りだよ」
「ウソウソ、冗談だぜ?・・・でも、似合ってたのに、残念だね」
「・・・・・うん」
雲雀の腕の中でみじろいだ武が、向きを替えて胸元に抱き着いて来た。


小学校に上がって二年目だというのに、武の体は周囲の同い年の子供と比べても随分小さかった。
食事は好き嫌いなく食べるし、小食でもない。なのに一向に身長と体重が増えて行かない。
単に体質なのか、それとも両親と未だ見ぬ妹を一度に喪ってしまった精神的なものが起因しているのか、それは分からなかった。
が、小さくても元気に友達と走り回っているので、雲雀はあまり気にしていなかった。むしろこの大きさでないとベッドがキツくなってしまうので、腕の中にすっぽり包み込める今の武が丁度良かった。


「俺は、ずっと恭おじさんの側にいてあげるからね」
布越しでも温かい柔らかな頬をシャツに擦り付け、武が笑う。
「俺が高校卒業して、プロ野球の選手になって、おじさんがおじいさんになっても、ずっとずっと側にいてあげるからね。恭おじさんを毎日ギュッてしてあげるから」
小さな手で、まだ自分の半分もない大きさの手で、背中を抱き締めてくれる武が心から愛しい。
「ありがとう・・・そうしてくれたら、嬉しいよ」
君が、いつか素敵な女性を抱き締めるその日まで、40になっても、50になっても―――。




 きっとあり得ない未来を思い浮かべて、雲雀は今日初めて心から温たまった思いで微笑んだ。






 好きだった。それは本当。






 彼女の柔らかな日溜まりのような笑顔は、目の前の子供のそれに、よく似ていたから。


ー―――――――
名もない誰かの話



爽やかな風が、人影まばらな校舎を駆け抜けていた。受験を控え部活を退部して、はや一ヶ月が経過。

そう、引退ではなく、退部。

夏の暑い日も、冬の指先までかじかむ日も、家族が旅行に出た朝だって休む事なくボールを打ち続けたけれど、結局レギュラーにはなれず、補欠にすら、入れず。
学年が上がると共に番号を背負い始めた仲間に、いつか追い付き、追い越せ、そう思って来たけれど。
春の大会――胸を弾ませ待っていたが、ついぞ自分の名前は呼ばれやしなかった。


ポッキリと、自分の中の何かが折れる音を耳にした。


放課後、図書館で教科書を開くのが日課になった。部活を辞めたことを、まだ家族に伝えていないから、何となく帰り辛くて。
だけど開いているだけで、本当は少しも頭に入っていない。だって此処にいると風に乗ってグランドの掛け声や体育館の壁に当たる打球の音がよく聞こえてくるから。
「並中ーーーファイ、オー、ファイ、オー、ファイ、オーーー!!」
グランドを走る野球部の声は、どの部活よりも大きい。中でも二年生のエースで校内でも人気の高い山本の声は、一際よく通って、部活中体育館に籠る熱気で、倒れた方がましなんじゃないかと思う私のくたくたな心を、励ましてくれたものだった。
彼は私の事なんか何も知らないだろう。
学年は違うし、部活だって体育館とグランドでは、せいぜい雨の日にすれ違う程度。それに制服を着てしまえば、案外顔なんて似たり寄ったりに見えてしまうものだ。
たまに外の水飲み場で見掛ける事があった。どんな時でも大概彼はチームメイトと一緒にふざけあっていたけれど、一人になると急に顔付きが変わるのがとても印象的だった。
真顔になると、同い年の生徒たちよりずっと大人びて見えた。その分笑った顔があどけなさを残していて、そのギャップが彼の魅力のように思えた。
真夏の炎天下のグランドの隅で、頭からタオルを被り木陰に項垂れていた彼の「ちくしょう」という小さな呟きは、きっと私しか知らない。
そして、忘れられない。
彼の噂は階の違う三年の教室でもよく耳にしていた。

天性の野球センスを持ちながら、決して練習の手は抜かず、仲間思いでチームメイトからの人望も厚く、二年生ながら既に時期主将と言われている野球部の大黒柱。

山本でも、そんな風に思うことはあるのだと、何故かとても彼を近くに感じた出来事だった。
異性として気にかかるとか、恋愛とか、そういう感情とは少し違うけれど、私は彼を好きだった。
野球に向ける彼の情熱、真っ直ぐな瞳、羨ましくて、憧れた。


ランニングは終わったらしく、柔軟に入ったようで、掛け声は各々のそれに変わった。
私は立ち上がると、周囲に誰もいないのを見計らって、窓を閉める。
カウンターにいた図書委員がチラリと視線を向けたけれど、すぐに返却本の整理に戻った。


もう野球部の声は聞こえない。


励ましてくれる声は、背中を押してくれる声は、図書館まで届かない。


私の想いも、誰にも。




終わり




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あきゅろす。
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