日記ログ
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すれ違い様にKiss



3、4時間目は家庭科で調理実習。今日はなんとカップケーキで、女の子の中には付き合っている彼にあげるんだなんて、張り切って腕捲りしている子もいる。
山本はそんな話を小耳に挟みながら、先生が量っている小麦粉やバターを女の子たちの代わりに取りに行った。
(上手く出来たらひばりにあげようかな)
正月明けだからか、最近何だか雲雀はお疲れ気味だ。疲れた時は甘いものがいいという。こってり甘いのは好きじゃないみたいだけど、カップケーキだからくどい程甘くはないだろうし。
しかし、今日に限っては、山本の思惑通り上手くことは運ばず。
「じゃあ武は、これお願いっ!!」


眠たい三時間目の社会の授業を何とか耐え忍び、次から次へと沸き出るあくびを噛み殺しながら、雲雀は特別教室棟へ続く廊下を歩いていた。
これ以上机に向かっていたら、突っ伏しいびきをかいて眠りこけてしまいかねない。あんな大勢に自分の寝顔を見せるなんて堪らない。見物料でも取れるなら別だが。
(ん?)
三階の応接室目指して昇る階段途中、二階に爪先を着けたところで何ともいい匂いが漂ってきた。
確か二年生の家庭科の調理実習で、調理室を使用するのだったか。そこまで考えて、そういえばその家庭科の授業が何年何組だったかを思い出した。
廊下を進むごとに、匂いは増して来る。これはスポンジケーキだろうか。
実習室の大きな窓ガラスからは、オーブンを覗き込む女生徒や、やる気のない男子生徒。そして。
「何してるの」
雲雀は廊下に面している実習室の窓に寄り掛かるようにして何やら腕を動かしている背中をチョンとつついた。
「げ、ひばり」
「・・・なにその可愛くない返事は」
「あう〜、何でこんなとこ通るかなあ」
見れば山本は生クリームを泡立てていた。今時電動泡立て器じゃなく手作業って、校長に掛け合わなきゃならないな。
「女子がさ、生クリームホイップするのって結構力がいるからお願いね〜って言うもんだから。俺としちゃあ、カップケーキ作ってひばりと二人で食べたかったんだけど、自分たちで作ったのはみんな彼氏にあげるんだって。俺は味見係だってさ」
ま、しかたねーよなーと笑う山本のほっぺたには生クリーム。随分熱心に混ぜていたらしい白いクリームは、ボールの中でツンツン角を立てている。
「ひばり眠そうだな、これから一寝入りするのか?」
甘い匂いに昼食間近の胃は空腹を訴えようとするけれど、確かに山本の言う通り今にも目蓋は落ちて来そうだ。
それというのも、三学期早々の風紀検査で、引っ掛かる生徒が多すぎるせいだ。
「カップケーキ無いけど、甘いので良いなら、内緒で今これ舐めちまう?」
口元を大きな手で覆い隠すようにしながら、山本がこそこそ雲雀に囁く。全く、見ただけで甘ったるくて胸焼けしそうなものを舐めるかなどと。
雲雀は首を振って、腕を伸ばし差し出されている生クリーム入りのボールを山本に押し戻した。
「そんなものより、もっと疲れが取れる甘いものがあるでしょ」
「え?」
口の中だけでぼそぼそ呟いたから、山本にはよく聞こえずに。もう一回言って、と窓から身を乗り出してきた唇を、雲雀はすかさず奪う。
「ひっ、ひばっ・・・!!」
「ごちそうさま、ウンこれで今日1日はもつかな」
真っ赤になって固まった山本をその場に残して、雲雀はヒラヒラ手を振りながら階段の方へ歩き出した。
「武ー、ホイップできたー?」
女子たちが山本に話し掛け、次いで武顔赤いよ〜なんて声が聞こえて雲雀はそっと口元を弓なりに引き上げる。
生クリームなんかよりずっと甘くて、甘いものなんかよりずっと元気が出るもの。
それが山本武




僕の恋人。



―――――――


 『家族の肖像』前編(叔父25×甥4)



風呂から上がると、雲雀は髪を乾かすのもそこそこに自室のベッドを覗いた。
大人二人が悠々手足を伸ばせるくらい大きなそこには、小さな幼子が体を丸めるようにして眠っている。
(良かった。今夜は魘されてないみたいだ)
扉の隙間にため息を忍ばせ、もう一度洗面所に戻り全自動洗濯機のスイッチを押した。二人分の衣類が、静かに水に沈んで行った。


山本武は雲雀の姉の子供だ。雲雀自身はあまり子供は好きな方ではない。
というよりも、人が、好きではなかった。
だから姉に子供が産まれた時も、特に感慨のようなものはなく、形式的におめでとうとは口にしながら、まるで猿のようだと思ったことを覚えている。
それでも武と名付けられた甥っ子は、人懐こく笑顔を振り撒き、雲雀が訪れれば常にその膝に座りたがって、最初は顔にすら出して嫌がっていた雲雀も、公園で転がってきたサッカーボールを蹴り返そうとしただけで、相手小学生を凍りつかせた自分の膝に座ろうなんて物好きは、この先到底現れないだろうと占領された膝上を黙認するようになっていた。
先刻も触れたが、雲雀はあまり子供が、人が、好きではない。勿論肌が触れ合うのも。
学生の頃、すれ違い様に肩がぶつかったというだけで、喧嘩に発展したことすらあるくらい。


そんな人嫌いは、生い立ちに原因があるのだと知ったのは、大学で精神心理学の講義を受けてからだった。


雲雀と姉が生まれた“雲雀家”は、代々続く名家だった。昔は大地主で、当時は大勢の小作人が奉公していたという。16畳もある二間続きの和室には、遡ること9代前の先祖の名前が記された家系図が、額縁に入れられ飾られていた。
そんな家だから、子供は生まれてすぐに乳母に預けられる。母親と引き離されるのだ。
母以外の人間の乳を飲みながら、一歳の誕生日まで両親以外の人間により育てられ、そして男子は一歳になるともう1人の社会人たるよう教育を受け始める。
躾から社会的教養全て、言葉も覚束ないうちから隔離された場所で他人に教育されるのだ。
殆んど記憶にすら残らないうちから施されるのものを、雲雀は当たり前のように感じていた。それが人と異なる環境であるなどとは、思いもよらなかった。周りに自分と同じような環境下に置かれた姉(それでも自分よりは随分弛いようには見えたが)以外の子供を見掛けなかったのだから、当然といえば当然な話だが。
だから幼児期、金持ち学校として地域でも有名な幼等部から大学まで一貫校に通い始めた時、周りの子供たちとの違いに、まだ三歳の身でありながら愕然とした。送ってきた母親が帰ると言っては泣き叫ぶ。隣の子供が落書きしたといっては、その子供に対して低俗な暴言を吐く。馬鹿馬鹿しい。こんな連中と何故同じ空気を吸い、同じことをするよう強要されなければならないのか。
そんな雲雀の見下した視線や、人との関わりを頑なに拒絶する態度は教師たちに批判され諭されたが、何度連絡が行っても呼び出しに顔を出すのは教育係の人間だった。
勉強が出来ても他に楽しいことが何一つ無かった雲雀だが、同じ屋敷で寝食を共にする姉だけには、そこそこ腹を割って話をした。
学校の下らない生徒や、少しも要領得やすく授業を教えられない無能な教師たち。
そんな話をするたび、彼女は言った。
『恭弥は考えが偏ってるのよ。世の中には恭弥の知らない事が沢山あるのに、それを何も知ろうとしない内から理解したみたいな顔をしているなら、恭弥も自分が見下している人と同じじゃないかしら』


彼女は恋をしていた。

相手は商店街で寿司屋を営んでいた。両親が早くに亡くなり、その両親から継いだ店を1人で切り盛りしていた男は、雲雀の家御用達の寿司屋でもあった。
20代半ばの男は、常に朗らかな笑顔で威勢よく玄関を開けた。握る寿司も彼の人柄をよく表し、まだまだ粗削りだけれど何か光るものを持っていた。
そんな男が姉を嫁に欲しいと両手を着いたのは、姉が二十歳を越えてすぐだったと思う。
18の誕生日を過ぎてから頻繁に見合いを持ち掛けられていた姉が、頑として首を縦に振らなかった理由はこれだったかと、雲雀は合点がいったものだ。
一介の寿司屋風情―――許して貰える筈がない結婚を、雲雀家が許したのは、姉が既に身籠っていたからだ。
『ふしだらな』
『嫁入り前にはしたない』
親戚達に散々嫌味を言われた姉は、しかしケロッとしたもので。
『既成事実を作っておけば、絶対結婚できると思っていたもの』
あー清々した!そう言いながら笑ってみせた姉は、雲雀が覚えている中で最も美しかった。


そうこうしている内に腹は大きくなり、赤ん坊が産まれて。
生まれた子供は武と名付けられ、二人に大切に育てられていた。
そう、あの日まで。


勤め始めた会社に連絡があったのは、武の四歳の誕生日が終わった数日後だった。
退社すら告げずに駆けつけた商店街のアーケードは、まだ燻っていて消防車やパトカーが何台も赤色灯を回していた。
銭湯から出火。丁度裏側の竹寿司にそれは飛び火し、木造の店はすぐに炎に包まれたらしい。姉はその頃二人目を身籠っていて、つわりがきつくよく横になっていた。その妻を、まだ見ぬ我が子を、助けに炎に飛び込んだ夫を誰が責められるだろう。

――武だけは、保育園に行っていて無事だった。

既に両親が亡くなり親類と呼べる人間が居なかった剛だから、葬式は雲雀家が一切を仕切った。
『あんな男と結婚したばかりに不幸になって』
『まだ28だっていうのに』
『それよりあの子供を誰が引き取るの?』
葬儀の場で、泣いているのはたった1人遺された武だけだった。
親戚たちは――いや、久しぶりに顔を見た雲雀の両親ですら、孫である武に言葉の一つもかけるどころか、この後の武の身の振り方ばかり言い合い、押し付けあっている。
(なんて醜いのだろう)
剛はともかく、自分の娘が死んだというのに、涙の一粒も見せやしない。
どころか、自分たちの言う通りにしなかったからこうなっただの、あの男が全ての元凶だのと。
(そんなことばかり言っている家から、解放されて喜んでいたんだよ姉さんは)
そして、決して彼女は不幸などではなかった。剛は心から姉を大切にしていたし、息子にも愛情を注いでいた。
『恭弥、私ね、剛さんと結婚して、武が生まれて、今やっと家族ってどういうものなのか、分かった気がするの』
触れ合うことを、語り合う言葉の重要性を、労りあう眼差しを、教えてくれたのは、両親ではなく、愛するひと。
そしてその人が、全身全霊でもって姉を、息子を守ろうとしていたことを、雲雀はこの目で見て、確かに感じていた。
もしもこの男が自分の父親であったなら、自分もこんな歪な人間にはならなかっただろうかと思える程に。
「・・・おいで、武」
雲雀は祭壇で棺に顔を伏せるようにして口を引き結び、静かに泣き続けている子供を抱き上げた。大人達の心無い言葉が、その小さな胸をどれだけ傷つけ抉っているのだろう。なのに、何も言わずに。
まだ四年しか生きていないのに、これから武にはもっと沢山の我慢を強いられる出来事が待っているのは想像に難くない。
だから。
「僕の所においで」
生まれたときから孤独だった僕。
そして君は、今日独りぼっちになってしまった。
独りと独りが一緒になれば二人だ。
二人なら、家族になる。


『剛さんと結婚して、武が生まれて、家族ってどういうものなのか分かった気がするの』


「僕達、家族になろう」
一生懸命雲雀を見つめようとする大きな薄茶の瞳から、涙が溢れる。
僕の手で君を守ってあげられるかと聞かれれば、ちょっと自信が無いし、一緒にいるだけで家族になるなんて無理かもしれない。
だけど君はあの二人から沢山の愛情を受け継いで来た子供なのだし、僕は僕のできる範囲で君と手を繋いでいこう。
そして今は無理でも、少しずつ、この心に響かせてはくれないだろうか。姉が君を生んで分かったように、家族とはこういうものだと。


いびつな僕と、今はべっこりへこんじゃってる君。
だけど二人くっついていたら、いつか丸とか四角になれるかもしれないよね。


生まれて数日して家に帰ってきた武を、ベビーベッドの柵越しに覗いていた。
姉は隣の部屋で少し眠ると言って、剛さんが見ていたんだけれどお客様が来て暫く任されてしまって。
泣いたら困るな、そう思いながら、どうやってあやしたらいいのかも分からずに柵の隙間から手を突っ込んで、ただ閉じたり開いたりしてみせた指をいきなり握って穏やかに笑ったように見えた時、胸がドキドキしたのを僕は覚えているよ。



だからすぐには無理でも、いつか心から笑って欲しい。だってほら、仏頂面は僕の方がお似合いだ。




武、僕達、家族になろう



 『家族の肖像』後編



しくしく そんな表現がぴったり当てはまる泣きかただった。
意外だった。小さい子供というものは、もっと大袈裟に悲しみを表現するものだとばかり思っていたから。
(雲雀に至っては、涙を流した記憶すら無いが)
こんなとき、どうやって慰めていいのか皆目見当もつかない。そもそも人嫌いの雲雀が泣いている人間に遭遇する自体が、まったくもって珍しい事象といえるだろう。
雲雀は泣き続ける武の隣に腰を降ろした。家財も全て炭になってしまった山本家には、未だに警察や消防局の捜査が頻繁に立ち入っていたから、一応雲雀が叔父兼後見人という形でこの先武の面倒をみるという事で、取り敢えず幼い武を自宅マンションに連れ帰ってきたのだが。
抱きながら歩く雲雀の肩口に額を擦り付け、武はずっと泣いていた。もう、涙を流すしかする事がないみたいに。
雲雀は何も言わなかった。言えなかった。幼子が何を思い、どんな気持ちで泣くのか、両親に愛情など感じたことのない雲雀には理解し難く。
けれども触れた体の表面から流れて来る、まるで暗い樹海に独り取り残されたような絶望的な寂しさに、言い様のない感情が沸き上がり乱されるのが分かったから。
「・・寂しい?」
フローリングの床には、西日が差して背の低い家具から長い影が伸びている。まだ5月になったばかりだというのに、既に春を通り越して、気温は初夏の趣。
「僕も・・・寂しいよ・・・・」
なぜそんな言葉が口を突いたのだろう、武の感情に引き摺られたのだろうか?けれどその気持ちは、妙にストンと胸に落ちた。
武の気配が、微かにこちらを窺っている。優しさを沢山貰ってきた人は、他人にそれを分け与えられるのだそうだ。だからなのだろうか、雲雀が寂しいと呟いてすぐ、武は泣くのをやめた。
「・・・ああ、そうか、僕は多分姉さんが好きだったんだね・・・」
言ってみて、確信した。
(そうか、そうなのか)
数センチだけ開いている窓から新緑の風が緩やかに差し込み、武の涙の乾ききらない頬を優しく撫でた。
少しだけ目蓋にかかる雲雀の前髪も、ふわりと揺れる。
親しい友人も作れず、姉以外家族と呼べる人間の居ない広すぎる屋敷の中で、姉は兄弟であり友だちであり、最も心を許せる人だった。この先、誰に話を聞いて貰えばいいのだろう。誰に叱って貰えばいいのだろう。本当に、ああ僕達は“独り”になってしまったんだね。
「おれもっ・・・おれも父ちゃんと母ちゃん大好きだった・・・」
不意に、隣の武が絞り出すような声を出した。小さな子供だなんて、思えないみたいな声。
「うん」
「赤ちゃんだって・・・会えるのたのしみにしてたっ・・・!!」
「うん」
「父ちゃんも母ちゃんも、なんにもわるいことなんて、してないよおっ・・・!!!」
やはり。葬儀場での大人たちの会話に、武は胸を痛めていたのだ。大好きな父と母をあんなに罵られ蔑まれ、どれ程叫びたかっただろう。ただでさえ悲しいのに、こんなに傷つけられて。
「・・・そうだよ、何もしてない。二人に悪いところなんて、何一つ無いよ」
むしろ悪いのは、懸命に生きてきた二人を貶めるようなことしか言えない大人たち。
自分可愛さで他には何も見えていない哀れな大人たち。
「恭おじちゃん、なんで?!なんで火事なんてなっちゃったの?!なんで父ちゃんと母ちゃんは死んじゃったの?!おれっ・・おれっ」
独りはやだよ。
再び泣き崩れた武を、雲雀は抱きしめた。いくら甥とはいえ、他人を腕に抱くなどという行為は生まれて初めてで、本当は恐くもあったけれど。
恐る恐る、不器用に手を伸ばして短く切られた髪に触れた。幼い髪はふわふわ柔らかく、高校生の頃バレンタインとやらに下駄箱に突っ込まれていたぬいぐるみの毛並みに似ていた。
「武、僕も独りは嫌だよ?だけど君がいてくれたら、僕は独りじゃなくなって、君も独りじゃなくなる――よね?」
子供というのは普段でも体温が高いという。その上泣いているから武の体はまるで熱目の湯タンポのようで、西日が気温を上昇させるこの部屋では額に汗が滲むほどだったが、雲雀は抱きしめる腕の力を強めた。
「二人なら、寂しいのも半分にできるよ」
だって今、君が僕の代わりに涙を流してくれているから、気付かない内に胸の奥に溜まっていた悲しみは、少しずつ少しずつ、かさを減らしているもの。
「嬉しいことはみんな君にあげる。だけど悲しいことは、僕と半分にして生きて行こう」
喜んだり、楽しんだり、笑ったり。これから沢山素晴らしい未来が、武の前に拓けるはず。けれど生きて行くのはそれだけでは済まなくて。だからもしも苦しい出来事に出会った時は、その半分を共に背負って行こう。剛さんや姉さんならば、きっとそうするように。
「恭おじちゃん・・・」
「うん」
「かなしいの、もうやだよ・・・たのしいの、はんぶんにして、いっしょに笑ってほしいのな・・・」
武の手が、雲雀の喪服の胸元を握り締めた。目の縁に留まっていた涙が、瞬きと共に擦れて赤くなった頬を伝い落ちた。
「・・・笑うの苦手だけど、努力してみるよ」
赤い夕日に照らされて泣き笑いする子供の頭に、雲雀は額をコツリとぶつけた。
いつしか抱き締める手は頭だけでなく背中もあやすようにトントンと叩いていて、泣き疲れたのだろう、武は雲雀の腕の中で静かに寝息をたてはじめた。
生え揃った睫毛は、まだ涙でしっとり濡れている。
新しい生活をするために、明日は武の洋服を買いに行こう。まだ間に合わせの喪服姿の武を抱き上げると、雲雀はベッドへと運んだ。
いつも使用している、雲雀のベッドへと。


あれから夜になるごとに、武は夢遊病のようになった。昼間は保育園でも普通にしているし、帰宅後もしっかりご飯を食べて残業する雲雀に就寝の挨拶をして床に就くのだが、寝入った頃ベッドを覗くとその姿が無い。
慌てて探せば、必ず玄関先で膝を抱えて涙を溢しているのだ。
ある程度の時間そうしていて、諦めたようにその場で眠ってしまう武が、雲雀は哀れに思えた。
誰にも――叔父である雲雀にすら、その悲しみは癒してはやれないのだと思うと、無力感に苛まれもした。
そしてそれでも、この子供にはもう自分しかいないのだと、側にいようと強く誓った。
いつか、楽しさを半分分け与えられた不器用な自分の笑顔に、武が笑ってくれるまで。


月日は瞬く間に過ぎて今に至る。
夏が過ぎ秋の虫たちが涼しげな音色を奏でる頃から、少しずつ朝までベッドから出ない日が増えてきた。
あと数ヶ月もすれば、玄関でなどじっとしていたりしたら風邪を引いてしまう寒い季節になってしまうと何気に気を揉んでいた雲雀は、内心安堵していた。
ベッド脇のスタンドの電気を消して、武の隣に潜り込む。小さな体は完璧に寝入っていて、初秋の今まだタオルケットでも熱いくらいに発熱している。
「・・・おやすみ」
雲雀は眠る子供に聞かせるでもなく、天井に呟いた。すると。
「恭おじちゃん」
「・・え?!」
雲雀は冷静に驚いた。今の今までぐっすり眠っていると思い込んでいた武が、こちらを向いてニッコリ微笑んでいたのだから、それも無理はない。
「あ、な「せーので、ガオ〜っていおうな!」
(は?!)
返事を遮られたかと思ったら、何だその妙な提案は。
「せーの!」
(えええ?!)
何がなにやらさっぱり理解出来ない。しかし武が余りに楽しそうに言うものだから。
「「ガオ〜っ!」」
何がなにやら分からないまでも、動物を真似て叫んで我に返る。いい大人が夜中にガオ〜は流石に恥ずかしく赤面する雲雀を余所に、武は満足そうに再びタオルケットに頬を擦り付けながら小さな寝息をたて始め。
「・・・・・もしかして・・ね、寝言・・・?!・・」
上から覗き込んでも、額を突ついても、ウンともスンとも言いやしない。
「なんだよそれ・・・参ったな・・・」
二人の他には誰もいないのではあるが、恥ずかしさに顔を隠すように前髪を一ふさ掻き回す。一体どんな夢を見て、あんな事を言ったのだろう。だけど、泣き顔ではなかった、嬉しそうに笑っていた。
(まあ、いいか)
胸が、仄かに温かくなる。
「おやすみ」
今度こそ起きないのを確かめて、雲雀もタオルケットをかけ目蓋を閉じた。
明日目が覚めたら、どのような夢を見ていたのか聞いてみよう。微睡みに落ちて行く自分の唇が微笑みの形を象っているなど、微塵も思いもせずに。


次の週の日曜日に、二人は動物園に行く約束をした。
ライオンの檻の前で二人揃ってガオ〜って言うのだ。


武の夢の中で、雲雀叔父さんとしたのと同じように。





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