日記ログ
C
ぱちん
今日も目覚ましに起こされる前に、スイッチをOFFにするのに成功。
初っぱなを挫くと、後の諸々まで躓く気がするなんて言う父親とは違って、山本は単にその方が気分が良いだけ。
「う〜ん・・・」
布団に上半身だけ起こし、両腕で天を突くように背伸びし、そのまま右手で左肘を押さえ腹の横の筋肉を伸ばす。
右側も同じく数十秒かけて。
次は足を左右に広げ、前屈。肩からではなく、腰から前へかがみこむように、これもゆっくり行い、元に戻った山本はふーーーと長く息を吐いた。
「よっし!」
橙色の電気の下で、パジャマ代わりのスウェットを素早く脱ぎ、ジャージに着替える。
掛け布団を四つに、四隅を留められるシーツが掛かった敷き布団は三つ折りにして、枕を一番上に重ね押し入れに軽々押し込んだ。
静かに襖を開く。
隣の父の部屋からは、微かないびき。
昨日は忘年会とかのお客人で、店はほぼ貸し切り状態だった。山本も手伝いはしたが、夜10時を過ぎた頃、『もう風呂入って寝ろ』と背中を叩かれ、ほぼ出来上がり、あとは酒を飲みながら喋るだけになったお客を見ながら父におやすみと挨拶をして二階に上がったのだった。
1時頃、何となく目が覚めて下の様子に聞き耳たててみた時には物音はしなかったから、それより前には終わっていたのだろう。
けれど洗い物や店内の後片付け、帳簿付けなんかを終わらせるとなると、やっぱり1人では時間がかかるものだ。明日に仕事は持ち越さないなんて言わずに洗い物くらい残しても、やっておくのに。
山本はなるべく音を立てないように階段を降りた。
暗く短い廊下を抜け、台所の暖簾を片手で捲り、ひんやりした中で炊飯器の電源を入れる。
冷蔵庫を開き、今日の味噌汁に入れる具材と、弁当おかずになるものを品定め。卵があと3つしかないから、学校の帰りにスーパーに寄らなければ。
商店街の八百屋でも売っているが、毎週木曜日はスーパーの卵は特売なのだ。
チチチ
青い炎が燃え上がり、山本は炒り子の入った鍋に蓋をした。これから家を出て走って帰って来る頃には、父が起きて味噌汁に入れる小松菜を刻んでいるだろう。もしかしたら弁当のおかずも作ってくれているかもしれない。
もしも寝過ごしていたら、今日は足の裏をくすぐってやろう。最近鈍くなってきたみたいだから、一発で起きるかどうかは判らないけれど。
スニーカーを履いて、爪先を2〜3回玄関の床に打ち付ける。
裏口を開ければ、まだ冬の空は藍色を広げたまま。
「はーーーっ」
上を向いて息を吐き出せば、白い煙りとなって消えて行った。
「じゃ、行きますか」
冷たい空気は柔軟をしているうちに肌に馴染んできた。
とんとん、軽く足を踏み鳴らして、走り出そうとした山本の耳に、遠くから、バイクの排気が抜ける高い音。
「・・・まーたケンカして来たな〜」
少し肩をすくめつつ、まあ彼のこと、さほど心配もしていない。
爪先に力を入れてアスファルトを蹴り付ける。靴の裏で跳ね上げた砂利が、ジャージを履いたふくらはぎの辺りにかかるのを感じ取った。


学校へ行ったら応接室に絆創膏を持って行ってみようか。
部活で当たり前みたいに擦り傷作る自分に、いつも楽しそうに消毒液を付ける雲雀の罰の悪そうな顔を見るのも、たまには良いかもしれない。


そんな、本日朝6時07分。


―――――――――

テレビの天気予報を聞きながら朝食の後片付けをする。
そろそろ水が冷たく感じるようになってきた。山本はタオルで手に付いた水滴を拭った。
「今日は1日晴天が続くでしょう」
流しの正面窓から見える空は薄く雲が張っているけれど、気象予報士の言葉を信じよう。
本日快晴、体力万全、全く部活に支障なし!
ちゃぶ台で新聞を広げている父に、愛用の大きな湯飲みにほうじ茶を入れ差し出し、行ってきますと挨拶を。
「おう!気をつけて行ってこい!」
まだ眠たそうだけれど、送り出してくれる声には、いつもの張りがあった。
商店街はまだ開店前で、豆腐屋と魚屋、新聞屋以外はシャッターが降りている。
アーケードは風の通り道になっていて、表通りの銀杏の落ち葉がどうしても吹き溜まってしまい、シャッターの前は枯れた黄色が散らばっていた。自店の前に溜まった枯れ葉を掃き出している本屋のおばちゃんの前を通り様挨拶。
「おはよおばちゃん」
「あら武くん、行ってらっしゃい!」
「行ってきます!」
道行く猫や、小さなお社にも挨拶しながら歩いていれば、小学校からの友人たちが後ろから駆けて来た。
「おっす武」
「おう、はよ」
「お前ら今日数学ある?わり、コンパス貸して」
「何だよもう忘れ物の話か?」
「いや昨日弟とケンカしてよー、あいつ隠しやがってマジうぜえ」
「相変わらず仲良いな〜」
「仲良いわけあるかよ!良かったらケンカなんかしねーっての」
「いいじゃん兄弟ゲンカ。一人じゃできねーんだぜ?」
「あーやるやる、あんなうぜえのでよけりゃ武にやるから、遠慮なく持ってけ」
あははは、ひでー!!笑い合っているうちに、もう校門は見えて来て。一人だと20分の道のりは、喋っていたらなんと短いことか。
「げ!おい武やべーぞ!」
「ん?」
朗らかに談笑していた筈の隣の友人の顔が突然ひきつった。その隣も後ろの奴も、見る見る青ざめていく。
「んん?」
視線の先を辿って見れば、生徒玄関には黒の制服が横並びに整列していた。そしてその一歩前に居るのは。
「おーす、ひばりーっ!!」
山本は鞄を提げていない方の腕をブンブン振った。
「げーっ武信じらんねえ!」
「バカかよてめーっ?!」
ぎゃーと叫び声が上がる。
「あでっ?!」
友人たちは次々に山本の背中をベコバコと鞄で殴ると、一目散に逃げ出してしまった。
どうやら玄関を回避して、グランドを突っ切り体育館の渡り廊下から入り込もうという考えのようだ。どうせそこにも既に風紀委員が待ち受けているに違いないのに。
それにつけても、本当に雲雀恭弥という人物は恐れられているなあと、山本は苦笑した。まあそれも、友達と固まって喋っているだけでもトンファーで殴られたりするのだから、いたしかたあるまい。
そんな山本はといえば、当然臆する訳もなく。
「お〜いて。はよ、ひばり」
鞄をぶつけられた背中を撫でつつ、わざわざ並盛最強風紀委員長の前へと進み出た。
「おはよう。・・・因みに今服装検査の最中なんだけどね山本武。君、ネクタイまた不着用。ていうか未だかつてまともにしてきたの見たこと無いんだけど」
雲雀に指摘され、山本は胸元に手をやった。確かにネクタイは絞めていない。―――というか、絞めようとした記憶すら無い。
「ん〜だって面倒くさいのな〜」
鞄をごそごそ漁れば、目的物が底から引っ張り出された。よれてはいるけれど、確かにネクタイではある。一応持って歩いてはいるのだ。
「あるなら付けなよ」
「え〜、めんどい」
「放課後居残り反省文提出」
「そりゃ困る!俺今日目一杯野球してーし」
「じゃあ付けろ」
「・・・結びかた忘れた」
数回の問答の後、雲雀の表情が変わった。
すわ殴られる!!
可哀想に、あの野球部エースは、運動神経は格別だが頭の中身は空っぽだったかと、周囲が雲雀に咬み殺されるであろう哀れな生け贄に、手を併せんとしたその時だった。
「貸しなよ」
「ん」
(ええーーーーーーっっ!!!)
なんと恐々の衆人環視の中で山本からネクタイを受け取った最強不良委員長は、襟元に黒いタイを素早く巻き付けたかと思うと、慣れた手付きでキュッと結び終え。
「はい、頑張りなよ。何てったって君たち野球部には来年の県大会優勝を期待しているんだからね」
(ええーーー?!嘘何で?!)
周囲の声にならない叫びと驚愕の視線も何のその。にっこり笑った山本は、満足そうにネクタイの結ばれた胸元をポンと叩いて。
「おうよ!!サンキュなひばり!」
軽やかに横をすり抜け行ってしまった。後ろの下駄箱に駆け込んだ長身の姿を振り返ることなく、雲雀は次の生徒を手招きする。呼ばれた生徒はどこを見て何を言えばいいやら、目を白黒させていて。
「・・・シャツの裾はズボンに入れる。ハミパン禁止。ネクタイは襟元まで締め上げる」
射るような視線で問題箇所を指摘し、手にするバインダー上のレポート用紙に名前も聞いていないというのにスラスラ学年、組、名前を書き出した委員長に、生徒は慌てる。
「え、ちょ、あの!あ!俺陸上部!!」
そういえば先程の委員長の野球部員への扱いを思いだし、じゃあ俺もと揚々口にしてみれば。
「反省文及び三日間の部活停止」
「なんでーーーーっっっ!?」
煩い!袖の下のスチール棒が叫んだ生徒の頭を直撃、カ〜ンと良い音がしたと思ったら本物のチャイムが鳴り始め、遅刻になるーっ!!と、別な叫び声が上がった。


校門目指して走り来る数人の生徒達の前で徐々に門が閉まって行く。
リーゼントの風紀委員の前に順序よく並びながら、あれが依怙贔屓というんだ、なんて後ろから赤ん坊みたいな家庭教師につつかれ、依怙贔屓=恋は盲目なんだなあ、とゲンナリした綱吉の視線の先で、件の少年が既にタイを弛めながら手を振っていた。



そんな、8時3分。


――――――――

四時間目



ぱら。


ぱら。


お昼の前の山本の背中は伸びている。なぜならば。
(あ〜明日の夕飯なんにしよ)
現在山本が地理の地図帳に立て掛け眺めているのは『おはよう奥さん特別版、45分で三品も作れる。これであなたもお料理上手主婦!!』。
今晩の夕飯当番は父だ。だから山本は目一杯部活で体を動かした後は、疲れた体を引きずってスーパーに行き、買い物を済ませて帰ってもご飯にありつける。
だけど明日はそうはいかない。
どんなに疲れていても、夕飯の準備はしなければならない。父は1日交代なんかしなくても、どうせ自分は家にいるのだから毎日作っておくのにと言ってくれるが、これは山本が中学に入学したその日に決めたことだから、甘えたくは無いのだ。


ただでさえ個人営業で忙しい上に、家事までしていたら休む時間が無くなってしまう。
『父ちゃんまだまだ若けえんだぜ〜?』
そう笑ってくれる父と山本の身長は並んでしまった。
若いというなら自分はもっと体力的に余裕があるのだ、父にばかり負担を掛けるわけにはいかない。


に、しても。


(ん〜ん〜何が良いかなあ、寒くなってきたし温かいもんが良いよなあ、鍋!鍋食いたいかも。でも二人だしなあ・・・)
山本は視線を本から窓へ向けた。朝の雲はどこへやら、天気予報どおり青空がどこまでも広がっている。
見上げる視界の端で何かが動いたような気がして、山本は首を少しだけずらした。
特別教室棟の丁度この教室から向かいの部屋は応接室。つまりあの肩から靡かせる黒い学ランは―――。
ゆらりと、腕章の袖が翻り、白い相貌がこちらを捉えている。山本がじっと見つめていた視線に気付いたらしい。
小さく手を振ってみるが、当然向こうから振り返したりなんてことはない。
・・・・ていうか、すっげえ睨んでんですけど。自分は授業さぼってあんなとこにいるくせに、俺が料理の本見てるからって怒らなくても良いのに。
(あ!そうだ!!)
山本は料理の本を持ち上げ、雲雀に向けた。開いてあるページは『すき焼き&箸休め二品』。
それを指差しながら、大きく口を縦横左右に開ける。
“あ・し・た・く・わ・ね・え?”
が。
パカーーーーーーン!!
「あてーっ!!」
突然頭を叩かれて何事かと振り返った山本の横には、丸めた教科書片手にこめかみに青筋をいくつも立てた社会科の教師―――。
「・・・す、すんませーん」


取り敢えず昼休みに弁当を持って、応接室へ行こう。
それで明日の夕方は予定いれないでくれって言ってみよう。


一緒に囲む鍋は、温かくて美味いぜ。



絶対。


――――――――
昼休み



弁当片手に応接室に入ったら、これはこれは不機嫌そうな風紀委員長が待ち構えていた。
「・・・どしたんだひばり。眉間、すっげえ皺寄ってるぜ?」
山本は自分のそこをトントン人差し指でつついて目をしばたたかせた。
あれか?授業中まともに授業を聞かずに料理の本見ていたからか?
だとしても雲雀は授業をサボったか抜け出して応接室に来ていたのだろうから、お互い様だと思うのだが。
「・・・君さ」
「ん?」
応接室の厚く重そうな机に頬杖着きながら、雲雀がじっとり睨んで来る。
せっかく明日の夕飯のお誘いに来たというのに、何だか出直した方が良さそうな気がしてきた。
しかし後ろ頭をガリガリ掻いた山本の前、雲雀が唸るように漏らしたセリフに、山本は再度瞬いた。
「君、毎日赤ん坊の分までおにぎり握って来ていたの?」
「は?」
「仲良く休み時間に食べてたじゃないか・・・!!」
「・・・・」
なんとまあ。この並盛一怖くて強いと評判の雲雀恭弥が。


子供のおにぎりに嫉妬してなさる。


山本は今しがた聴いたその言葉を反芻しつつ、雲雀を凝視した。
怒っているようではあるが、よくよく見ればあれは拗ねているようにも見えなくもない。
何だか無性に可笑しくなってきて、くっくと喉を鳴らし始めた。
だってだって。
いつも涼しげに校内を闊歩している雲雀恭弥が。
食うとか出すとか、想像し難いとか女の子たちに噂されてる雲雀恭弥が。



たかがおにぎり一個に嫉妬する食いしん坊だったなんて可愛すぎる―――!



(あーそうか、そうだな今新米の季節だもんなあ。ひばり俺と小僧が食べてるの見て腹空かしてたんだろうなあ)
自分では気付かぬ内に、またしてもどこかずれた考えに辿り着いてしまった山本は、携えていた弁当の包みを頬杖着く雲雀の前で解くと、おもむろに箸でだし巻き玉子を掴み口元へ差し出し。
「ごめんなー?ひばりがそんなにおにぎり好きだったなんて気付かなくってよ。はい、あーん」
「は?!何言ってんの僕は君が赤ん坊と仲良く!んぐっ」
会話の途中で差し込まれた玉子焼きに、むせかえりそうになりつつ雲雀は慌てて喉を鳴らして飲み込んだ。
「大丈夫だぜ?明日からひばりの分も握って来るからな!」
「じゃなくて、はむっ・・!?」
今度は豚のしょうが焼き。雲雀がもぐもぐ口を動かす間に、山本がご飯を口に入れている。
「やっぱうまいな新米。ひばりが食べたがるのわかるわかる」
「わかってな・・はぐっ?!」
ニコニコ笑いながら問答無用で突っ込まれた白い米は、何も付いていないのにほんのり甘く。
「・・・うん。美味しいね」
思わず漏らしてしまえば、山本は頬を美味しい形に膨らませながら綻んで。
「中身ひばりは何が好き?」
「・・・牛のしぐれ煮」
「うお!難しいこと言うのな!」
そんな風に言いながらも、ダメとは決して言わない山本に、何となく沸々していた気が削がれ。
「・・・一個じゃ足りないよ」


何だかとっても腹が立っていたのに、何となく満たされてしまったのは決して山本のおかげだなんて思いたくないひねくれ委員長は、山本が今しも口に入れようとしていた最後のだし巻き玉子に勢いよくかじりついた。


――――――――

五時間目


昼御飯を食べ終わる頃には雲雀の機嫌は何となく直っていた。きっと相当お腹が減っていたんだろう。腹が減るとどうしても苛々するものだ。
五時間目は体育だ。
今日は体育館でバスケット。


背が高く、駿足の山本はどんなスポーツでも重宝される。球技といわず、おおよそどんなスポーツも苦手意識は持ったことの無い山本ではあるが、寒い時期の球技はどうしても慎重になる。
なぜなら、山本は並盛野球部のたった一人のピッチャーだから。
念入りに手首を回し、指を内側、外側と反対の手を使って押し、反らす。ボールを受け損ねて突き指など、決してあってはならないからだ。
ピッチャーという重責、それ以上に。
(指痛めて思いっきり野球できないなんて、たまんねーからな)
疲労骨折し、数週間投げることも打つことも出来なくて。
苛々は焦りに変わり、仲間から、野球からどんどん距離が開いて行くような恐怖と、不安に苛まれ。
綱吉により助けられたあと残ったのは、ただ純粋に野球が好きだ、野球がしたいという思い―――。


「おーい山本ーっ!!お前どこチーム入んのー!?」
クラスメイトが口元に手を当て呼んでいる。
チーム?そんなのは決まっているんだ。当然、今壁に背をくっ付けて自信無さそうにキョロキョロしているアイツが入るとこ。
「ツナ!一緒にやろーぜ」
「ええっ武ダメツナと一緒のチーム?!」
「いーじゃん、ツナはすげえんだぜ!な!ツナ」
「う・・・武がダメツナと組むなら俺たちも一緒にやる」
「よっしゃ、オッケやろーぜー!」
まあでも、やる以上は俺は手は抜かない。バスケットだろうがバレーだろうが、100%の力を出すのがスポーツに対する礼儀だと思うし。
だけど野球に対しては。



俺の持てる力、120%で。


―――――――――

六時間目





この授業が終われば、掃除して待ちに待った野球だ。
四時間目と同じく、山本の背中は伸びていた。

ああ、青空が呼んでいる。

マウンドが手招きしている。


あの空を突き抜けるくらいのホームランをいつか打てるようになるために、何本でも何十本でもバットを振りたい。
球がミットにきっちり収まったあの瞬間の震えるような痺れるような気持ちを、早く味わいたい。


つーか。


さっさとグランド行って、ガーンって打ってバシーンって投げてーーーっっ!!


黒板の上に掛かる、各教室に一つずつある統一された丸い時計を見れば、まだ授業が始まって10分と経っていない。
はあ。山本は心の中でため息をついた。
部活の最中は一時間なんてあっという間で、むしろ『えぇ?!もうそんなに時間たっちまったの?!ちょっと待ってくれよ!!』という感じなのに、目的に辿り着くまでの1日の長いこと長いこと・・・。
もしも学校が一時間目から六時間目までが部活で占められていて、放課後の二時間くらいが勉強だったなら、どれだけ幸せだろう。
教科書のすぐ下に開かれたノートは、ただ開かれているだけで真っ白だ。
字なんか書きたくない、ていうか鉛筆を持ってもマトモに書ける自信なんて全然ない。この手は今、白球を握りたくてウズウズしている。
山本は向かい側の校舎の上、一筋の雲すら浮いていない空を楽しそうに戯れ飛んでいる雀を、羨ましい思いで視線で追った。


早く外に出たいな。
走りたいな。


野球がしたいな。




その時俺は、誰より自由で幸せなんだ。


――――――――

部活に向かう階段



HRが終わり担任が出て行くと、クラスメイト達は一斉に帰り支度を始める。部活へ行く者達は皆同じような大きなビニールバックに机の中身も一緒に詰め込んで、ぎゅうぎゅうになって閉まり辛いファスナーを力任せに引き上げている。
そんな中、山本は一人さっさと鞄をかづいて教室の後ろのドアを開けた。
他のクラスはまだ教師の話が続いているらしく、廊下には誰の影も見えない。
(よっしゃ!ダーッシュ!)

キキュッ!

靴裏が鳴り、掃除後のきれいな廊下に山本は躍り出た。
A組の前を通り、トイレと水飲み場の間を駆け抜け、階段へ続く非常扉を左手で押さえ回り込めば、遠心力で肩から下がる鞄が宙に浮いた。
「廊下は走るなって、何度言ったら判るの!」
「おわ!?」
勢い付いて前のめりになる体をどうにか抑え山本は止まった。まるで警棒みたいに、鈍く光るトンファーが首筋に延びていた。
トンファーを境に、肩から下は階段を既に三段降りていた。首を仰け反らせるようにして急ブレーキを掛けなかったら、喉仏を強打するところだ。
「あ、あぶね〜っ!」
「走って来る方が悪いんだよ」
並盛の風紀を守る委員長は、いくら恋人でも甘やかしてばかりはくれない。
「うう・・!早く部活に行きたかっただけなんだけど」
「早歩きすれば良いでしょ」
「勝手に足が走り出すんだもん仕方ねえだろ〜?」
「うるさい」
こん!スチールの棒で軽く頭を小突かれ、けれどもうこの話は終わりにしてくれるらしい。甘やかしてばかりはくれないけれど、他人より随分譲歩はしてくれる。
山本はそれだけで許して貰えたことに感謝した。
「へへ、サンキュな、ひばり!」
「明日のすき焼きの肉は神戸牛で頼むよ」
「・・・わお、んな高級肉俺んちの食費じゃ一枚くらいしか買えねえよ」
「冗談だよ」
階段の窓から差し込む淡い光で、雲雀の笑顔が柔らかく見える。長い睫毛が白い肌に影を作り、とても綺麗だ。
何となく見とれていると、踊り場ですれ違うように折れ曲がる階段の、二段くらい上にある雲雀の顔が徐々に近付いて来て―――。


「バイバイ。・・もう走っちゃダメだよ」


涼しい顔をして隣をすれ違うように降りていく委員長の背中を見送り立ち尽くす山本の頬は、これでもかってくらい赤い。


(ひばりのばかばかばか!! いきなりキスなんかするから!!!)



こんな赤い顔のまま、どうすりゃ良いっての。走って部室に行って、もしも先に誰かいたりしたら何て誤魔化しゃいいんだよ。かといって、たらたら歩いてて理由を聞かれても答えようがないのに。



あーもうっ!ひばりのばかっ







チクショ・・・・大好き!!!


――――――――――

並盛中学の部室はプレハブ小屋だ。しかしプレハブを馬鹿にしてはいけない。不景気で経費は何でも削減な昨今、大掛かりな建設現場でも二階建てプレハブ小屋は大活躍なのだから。
結果的に一番乗りになってしまった部室は、窓は締め切られ、当然人の温もりがまるでなく、冷え冷えとしていた。
『山本 武』
自分のネームプレートが付けてあるロッカーに、肩に掛けていた鞄から練習用ユニフォームを取り出して押し込む。
入部したての頃は染み一つ無く白かったユニフォームは、今は漂白剤に浸けても薄く土の色が残ってしまう。


もう、一年を切ってしまった。


このチームでプレイするのも、あと数ヶ月。三年の夏の大会で、山本たち現二年生は引退する。
もっと――もっと一緒にやりたい。
高校生になったって野球を続けるのは数人で、もう部活は辞め、進学に備える者や、違う部活に入る者など進む道は様々だ。
きっと高校の野球部は、このチームとは比べものにならないくらい技術も高く、素晴らしいものかもしれない。けれど、今、このたった11人しかいない野球チームは、山本の中学生活において、かけがえのないものだから。


夕暮れ、ライトの点かないグランドで、必死になって球を探した


雨でぬかるんだマウンド、スポンジで一生懸命水分を吸い取ってエースの先輩に渡した


遠征のときは、誰がバットケース持つかで喧嘩になったよなあ


先輩たちの後ろに並んで水飲み場が空くのを、喉をカラカラにして待った夏、グランドを均すトンボに赤蜻蛉が止まっていた秋、窓の外を恨めしく眺めながら校内をランニングして、誰が一番になるか競った冬―――。
一年前の自分たちが甦る。あの頃、入部したてでまだ何も分からなくて、先輩に怒鳴られながら、『もう辞めようかな』そう洩らすチームメイトの肩を抱いて、あともう少し頑張ろうぜと励ましあって。
そんな自分たちも、気が付けば先輩を送り出し、春になれば最上級生。もう次の夏が終われば―――。
ユニフォームのボタンを止め、ズボンの中に裾を突っ込んでベルトを締める。
不思議と、腰をぎゅっと締めると気分まで引き締まるように感じる。
山本はロッカーの中に入れた鞄から、タオルとグローブを取り出した。丁寧に手入れされたグローブは、中学に入ってから二つ目。
部室の隅に置いてある籠から白球を手に取り、グローブに軽く叩きつける。
(いい音)


この音が好きだ。
バットで飛ばす快音も堪らない。
そして、そして勝った後の仲間の笑顔も。


わやわやと、外が一気に騒がしくなった。HRの終わりと共に、皆一斉に部室へ向かって来たらしい。
(俺が一番乗りだけどな)
安っぽいドアノブが捻られ、見知った顔がひょっこり室内を覗いた。
視線が合えばお互いニンマリ笑い合って。
「なーんだ、武が一番かよ〜、今日は俺だろーなーって思ってたのにな〜」
「残念だったな?というわけで今日の部室の掃除は俺抜け〜」
「う〜っ!くそ、明日は負けねえからな」
こんな風に軽口をたたきあったり、練習後労いあう時間も、きっと過ぎてしまえばあっという間なのだ。
「俺先にグランド行ってるぜ」
山本は部室に入って来る仲間達と入れ替わるようにプレハブ小屋を後にする。
「おー。あ、武柔軟俺と組もうぜー?」
「おう!今日こそ腹が付くくらい背中押してやっかんな!」
「ぐえ〜武体柔らけーから仕返しならねーしな〜」


空は青。仲間達の声も心持ち弾んでいるよう。
キャッチボール、遠投もグランドの金網まで越えられそう、そんな気分。


ああ早く、野球始めたいな



並盛野球部のみんなと、並盛中学の水捌けの悪いグランドで。


―――――――――




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あきゅろす。
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