それは幸福
映画撮影
「今日からついに京太の飯がしばらく食えなくなるのか。あー残念だなぁ」
「なんだいその棒読みは。まるで大根役者じゃないか。でもいいかい、僕の目の黒いうちは君に偏食なんてことは許さないんだからね」
「こんなとこに来てまで相変わらず厳しいの」
春臣は窓から見える雄大な青い海を見て口笛を吹く。
今日から映画撮影のため地方での長期ロケが始まった。千晶とはあの一件以来、一度も顔を合わせていない。なぜならこのロケまでの1週間の休暇は全て誠太の家に行ったっきり春臣のマンションには帰って来なかったからだ。
春臣としてもあんなことがあった後で顔も見たくはなかった為助かりはしたが...
−その間2人で何か企てていたらって思えば気も休まらないんだよな。
一体これから自身の身に何が起こるのか...考えるだけ無駄か、と春臣は気分転換に先程まで読んでいた台本を鞄から出して手にした。
「一時はどうなることかと思ったけど、やる気を出してくれて本当に良かったよ」
「次に繋げるためにやるだけ。みんな、俺の演技見て主役降板させたこと後悔すればいいんだ」
そういいフッと悪い笑みを浮かべれば京太はガシガシと春臣の頭を撫でて笑った。
「僕はどんな役でも関係ないよ。見たいのは春臣の演技だからね。今回の映画も楽しみにしてるよ」
「はいはい、そうですか」
ふい、と京太の視線から逃れるようにして春臣は再び海を見た。その頬は僅かに赤く染まっている。
京太はいつも春臣が欲しい言葉をくれた。今だってそうだ、損得を考えない素直な言葉が心地良かった。
「それじゃあ僕は一旦、千晶のところに顔出しに行ってくるね。千晶は地方での長期ロケも初めてだから色々と話もしておかないと」
「俺は慣れてるから京太は千晶のとこに居てやれば。父親としても心配なんだろ」
そういえば京太は照れたように頭を掻いた。なんだかんだで京太も父親としての自覚はあるのだろう、先程からなんとなくそわそわとしていたのはそれが原因に違いない。
「それじゃあ、何かあったらすぐに連絡してね」京太はもう一度春臣の頭を撫でると足早に部屋を出て行った。
ホテルの一室で1人、京太が出て行ったからかシン、と静寂が漂い始める。窓を開ければ波の音が僅かに聴こえ、潮の香りが鼻腔を擽った。
昼間になり暑さを感じ始めた春臣は持っていた台本で肌を仰いだ。
こんなところを京太に見られれば台本を粗末に扱うんじゃないと怒られてしまいそうだ。
−それにしても、嫌な役に充てられたもんだな。
台本に書かれている役柄、内容を思い出し大きなため息を吐き出した。
春臣の役は主役の男の親友役だった。そこまではいい、嫌なのはそこからだ。
「千晶のことが好きで堪らない役って...嫌味かって」
それは今の春臣にとって生理的嫌悪を感じずにはいられないものであった。
ミステリアスで男女共に惑わす主人公千晶と惑わされたうちの1人で親友役の春臣。台本を読み進めていけば、千晶と女性陣との濃い絡みはもちろんのこと、男性陣唯一の春臣との濃い絡みもあった。
−これは先が思いやられるな。
そう思う春臣だが、まだこの時は幸せだった。
自然と笑うことができたのだから。
「凪(ナギ)は相変わらずだな。来る者拒まず去る者追わず、だ。いつか恨まれて刺されるんじゃないか」
「それじゃあ奏多(カナタ)はいつでも救急車を呼べる準備をしておいてね」
そして目を合わせるとクスクスと笑う2人。それは凪役である千晶と奏多役である春臣の初めての共演シーンであった。こんな風に2人が笑い合うなんてことはプライベートでは最早ありえないことだ。
大学の講義室の一室で行われた映画撮影1日目。2人はこの日久しぶりの再会を果たした。
あの一件で痴態を見せて顔を合わせるなど撮影がなければ言語道断だ、と思っていたが会ってみれば意外に平気な自分に感心した。
「でも本当、少しは気をつけないと男でも女でもほいほいだから...」
「あれ、奏多は男同士に偏見ありかな」
「い、いや別に俺は...ってか顔近いし」
ぐい、と近づく千晶の顔。それに対して顔を赤くさせて恥じらう演技など春臣にとっては朝飯前だった。
−それにしても、こいつの演技なまで見るのは初めてだけど...
悪くはない。素直にそう思った。千晶自身のことは嫌いだが、演技はまた別だ。ここまで売れたのは顔だけが理由ではないのだな、と納得できた。
−だけど俺には及ばないな。
「凪、お前俺のことなめてるだろ。いつもそうやって揶揄って俺の反応見て楽しんでるもんな」
「だって、奏多の反応可愛いから。自覚ないの?たまには鏡で確認して−−−うぁっ、と」
「俺だってちゃんと“男”なんですけど」
春臣は千晶を教卓に押し倒し鼻と鼻が触れ合いそうなほど近くまで顔を近づけた。
セリフは台本通りだが行動はアドリブだ。千晶は予想外の動きだったからか目を大きく見開いて驚いていた。
周りのスタッフたちも息を飲んでこちらに釘付けになっているのがわかった。
−俺こそが主役に相応しい演技力があるんだよ
カメラやスタッフに見えない角度から、春臣は不敵な笑みを千晶に向けた。
「なーんてな。乱暴なことして悪かったな」
春臣は千晶から離れるとあとは台本通りに講義室を出るため扉の方へと歩いていく。
「カ、カーット!一旦カメラ止めて」
そこで監督の一声が響いた。
「藤堂君!今の演技すごくよかった!よかったんだけど...少し強過ぎる。これじゃあ主人公が変わってきちゃうからもう少し演技を抑えて」
「...はい、わかりました!気をつけます」
監督のその言葉に春臣は内心舌打ちをして悪態をついた。
−言われると思った。でもそうなら最初から俺を主役にしておけっての。
苛々とする春臣であったがその時、傍で無表情で歯噛みしている千晶が視界に入った。
「天宮君、俺のせいで止めちゃってごめんね。俺も気をつけるから一緒に頑張ろう」
他人行儀にそう言えば感情の読めない瞳でじっと見られた。
「嘘くさい演技」
それだけ言うと笑顔のまま固まる春臣を置いて千晶はその場を後にした。
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