稽古〜通し〜
目の前に広がる夢のような光景に、俺はぱちくりと瞬きを一つして、
この状況を作り出した仙蔵に抱き付き、神に出会いを感謝した。
「放せ、鬱陶しいっ!!」
そんな、仙蔵の声なんか…聞こえないもん♪
******
それは出掛ける直前の事。
俺は銀行の通帳に視線を落としては、深いため息を吐いていた。
やっぱり、一人でもギリギリな予算だもんなぁ。
二人分の食費なんかまかなえる訳がない、か…。
ぼやきつつ、何度も通帳を確認する俺は往生際が悪いだろうか。
だが、何度確認しても預金残高は十三円。
生活費を入れてある封筒の中身も、残りわずかとなっていた。
…親に頼るしかないかなぁ。
できれば使いたくない手段だったが…。
ウチの親は、厳しくはない。
頼れば金も振り込んでくれるし、食材だって送ってくれるだろう。
でも、だからこそ頼りたくはないんだ。
芝居をやっているのは、俺の勝手。
親に迷惑を掛けるのは筋違いというものだ。
しかも母さんは極度の心配性で、金がない、なんて言った日にはどれだけ大騒ぎをするかわからない。
下手したら遠い田舎からウチまで様子を見に来てしまいそうで、それは本気で勘弁して欲しい。
本番前のこの時期はバタバタしているし、
何よりこの生活を見たら『帰ってこい』とか『結婚しろ』とか『孫の顔が見たい』とか『家業を継げ』とか、いろいろ言われるに決まってる。
それに仙蔵の事だって説明しなきゃならなくなるけど、説明しようがない訳だし…とかなんとか。
いろんな不都合が頭に浮かぶが、金がないという事実には逆らえそうにない。
背に腹は変えられない…か。
はぁ、とまた深いため息を一つ吐き、俺はのろのろと立ち上がった。
今日は稽古とバイトがある日だ。
頭を無理矢理切り替えて、とりあえずは今日やるべき事を考えよう。
うん、俺ってポジティブだね!
「仙蔵、今日はどうする?」
日によって稽古に来たり来なかったりする仙蔵は、朝の気分でそれを決める。
それでも圧倒的について来る事が多いのだけど、この日は珍しく首を横に振った。
どうやら留守番な気分のようだ。
「じゃ、これな」
言って、俺は仙蔵の食費として千円札をテーブルに置いた。
仙蔵はもう慣れたもので、一人での外出も買い物もこなすようになっていた。
…順応するのが早すぎて、ちょっとつまんない…と思ったのは仙蔵には内緒だ。
「慶太殿」
出掛けようと背を向けた俺に、仙蔵が声を掛けてきた。
「ん? なんだ?」
「今日はアルバイトの日だろう?」
夕飯はどうする?
新婚夫婦のような、このやり取りに少し笑った。
たまに仙蔵が留守番をする時には、夕飯を買っておいてもらう事があるのだけど。
「いや、今日はいいや」
「そうか、わかった」
でも…実際は新婚夫婦じゃないから、会話は簡潔だ。
そろそろ節約しないとヤバいからな。
うまく行けばバイト先のコンビニで、店長が売れ残りの弁当をくれるだろう。
そんな事を考えて、俺はいつもより低いテンションで自宅を後にしたのだった。
******
…と、これが今朝の出来事。
だが、家に帰って来てみれば…なんということでしょう!
テーブルの上に、手作りと思われる料理がずらりと並んでいた。
「え…なにこれ…」
呆然と、信じられないものを見るようにその料理達を眺めると、仙蔵が呆れたように息を吐いた。
「私のせいで、金がないのだろう?」
聞けば仙蔵は、テレビやご近所の奥さんからいろいろな情報を仕入れていたらしい。
そして弁当よりも自炊の方が遥かに食費が安く済むという事を知り、それを実践してくれたのだ。
「仙蔵って…料理できたの?」
「多少はな」
そう言って笑う仙蔵は、台所を眺めて言った。
「水も火も、簡単に使えるのだな。これなら料理も苦ではないと思うが…」
むしろ、何故今までやらなかったのかが不思議だ。
そう呟いた仙蔵に、俺は思わず抱き付いた。
「仙蔵っ! 愛してるっ! 嫁に来てくれーっ!」
「阿呆! 私は男だっ!」
「それでもいいっ!」
「良くない! 放せ!!」
ウチの居候はなんて出来たコなんでしょう!!
仙蔵の手料理は、素朴な和食。
久しぶりの優しい味付けは、涙が出るほど美味かった。
「…何故、泣く?」
「美味くて感動した…」
呆れた様子の仙蔵は、それでも少し嬉しそうで。
美味い料理についつい箸が進んでしまい、俺はいつの間にか酒を取り出していた。
実家の両親は、酒屋を営んでいる。
その為、俺の所には定期的に酒が送られてきていた。
これだけは親の負担も少ないし、ありがたく頂戴することにしているが一人ではあまり減らなくて。
だから酒だけは、いつも我が家に溢れていた。
そして、どうやら仙蔵もイケる口らしい。
という訳で、仙蔵の手料理をつまみに俺達は飲み始めていた。
仙蔵はまだ未成年だけど、コイツの時代では十五歳で成人らしいからギリでオッケーだろ。
「…美味いな」
「だろ?」
「ああ、雑味がなくて飲みやすい」
俺のとっておきは、人に勧めても評判が良いのが自慢だ。
…が。
「仙蔵って、十五歳だよね?」
つい確認してしまった。
「そうだが…なんだ、今更?」
「いや、なんでもナイヨ」
十五歳が日本酒を飲んで『雑味がない』って…。
どんだけ違いの分かる男なんだよ、お前は。
ちびちびと飲みながら、他愛のない話をして。
ふと、俺は仙蔵にずっと気になっていたことを聞いてみようと思った。
「仙蔵の住んでたトコってさ、どんな感じだったんだ?」
たまに垣間見える、仙蔵の世界の厳しい一面。
そこに踏み込んではいけないような気がして、ずっと聞けずにいたけれど。
俺と仙蔵の仲も深くなったし、酒の力もある事だし。
思い切って、聞いてみた。
「そうだな…」
ほんのりと朱くなった頬と、柔らかくなった瞳で。
仙蔵は懐かしむように、ぼんやりとどこかを見ていた。
「戦が多くて、皆が必死だ。平和な世になればいいと思うが…」
そう言ってから俺を見た仙蔵の、次の言葉に俺は驚いた。
『平和な世も、大変なのだな』
そう言った仙蔵の表情は、どこか憐れむような感じがした。
「…大変そうに見えるか?」
きっと仙蔵の時代よりも、現代の方が平和で気楽だ。
羨ましいとか、呑気でいいなとか、そんな言葉が出てくるものだとばかり思っていたのに。
「大変…とも違うな。だが、たまに哀れに思う」
ぼんやりと、死んだような表情で歩くサラリーマンや、狂ったように笑う夜の繁華街で見た若者。
彼らに対して、仙蔵は言った。
私の時代であればとうに生きていない、と。
戦の中では、生きたいと思っていてすら命を落としてしまうから。
積極的に『生きたい』と思っていなければ、簡単に死んでしまえるのだと。
「生きる意味や目標など、迷ったこともない。皆の望みは『戦のない平和な世』、ただそれだけだ」
だが、それが手に入った時に人はどうなるのか?
平和に感謝するのは、ほんの一瞬なのかもしれない。
すぐに平和を『当然の事』とみなし、人は次の欲を満たそうとする。
平和な世の中で生まれる欲は…限りなく自己中心的なものが多いのではないだろうか?
生きるのに必死で、戦のない世の中を皆が夢見る時代と、
平和で簡単に生きられるけど、生きる目標を見失いがちな時代、
果たしてどちらが幸せなのか…?
「まぁ、漠然とした考えだがな。一人一人を見れば、この平和な世の方が『幸せ』と感じている者は多いだろう」
だが…私の居場所はここにはない。
それは、仙蔵がウチに来てから初めて漏らした弱音だったのかもしれない。
『帰りたい』
そんな感情がひしひしと伝わってきて…俺は少し泣きたくなった。
この平和な世の中で…。
少し骨休めをしてくれればいい。
ちょっとでも楽しんでくれればいい。
そう思っていたけれど、
そんな休息を、
コイツは望んではいなかった。
くしゃくしゃと、仙蔵の頭を掻き混ぜて。
俺は微笑んだ。
「きっと帰れるよ。それまでは、俺が責任もって居場所を提供するから安心しろ」
そう言うと、仙蔵は一瞬驚いた顔をして…いつもの笑みを浮かべた。
「そういう台詞は、もう少し稼いでから言ってくれ」
ひどい!!
せっかく真面目な気分だったのに!
「ウチの嫁さん、厳しいわぁ…」
「誰が嫁さんだ!!」
どうして仙蔵がウチに来たのか、
どうしたら帰れるのかはわからないけど…。
舞台が終わったら、調べてやるからな。
それまでもう少し待ってくれ。
俺は、心の中で、
仙蔵に頭を下げていた。
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