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鬱な桜のお話

桜に埋もれて死んでしまえばいいと思いました。私の身体も心もつまらない意地も情けない魂も。きっと死んでしまった後には息を呑むくらい美しくて儚くて鳥肌が立つような、そんな魅力的な世界が待っていると信じて疑いませんでした。何故なら現に私の冷え切った肢体に纏わりつく花びらは、この世のものとは思えないくらい綺麗なのですから。
何かあるたびに私が心の支えとしている馴染み深いこの桜の木は、私が物心ついた頃にはすでに咲き誇り、辺りに不安定ながらもまごうことなき美しさを散らしていました。この桜が枯れているところを私は一度も見たことがありません。季節などには左右されない絶対的な強さに私はいつも心を癒されるのです。そして季節どころか明瞭に示す言葉すらない、他人の言葉や気持ちといったものに簡単に左右されてしまう自分の愚かさに、私はいつも消えてしまいたいと切望するのです。
誰とも仲良くせずとも自分は十分強い生き物であると思い込んで生きてきました。耳を塞いで自分に不利な言葉を全く聞きいれようとしない私を、周りの人は笑いました。強情な引きこもり、と。ただし私は強情でもなければ引きこもっていたつもりもありません。私の世界は私を中心に成り立ちそこには誰も干渉してこれませんから、私の性格は常に私のみによって価値判断を施されます。比べる相手などとうの昔にいなくなってしまったというのに、どうして強情だの引きこもりだのと言い切れるものでしょうか。
もちろん私を笑う彼らが全て悪者だと言っているわけではありません。このくだらない考え事をしている瞬間にさえがらりと様を変える時間のうねりは私だって分かっているつもりでしたし、それを承知で私は独りきりで自室の隅に寄り膝を抱えていたのです。世界の基準が私であれば辺りを気にしなくて済むではありませんか。些細なことですぐに折れてしまう弱い意志などは、最初から誰にも見せなければいい。それは私の駄目な部分に蓋をしてしまうような考えでしたが、当時の私にはとても魅力的に思えたのです。そうすれば、傷付かず傷付けず済むと。
私は桜の下に寝そべりながら空を見上げます。私がここで仰ぐ空はいつでも無色透明です。たまに私の目線と色の無い空との間に花びらが舞い込んで私の網膜を淡く色付かせます。私の意志とは関係なく色付いた世界はやがて空の色までも鮮やかに変え、私は言い表しようのない焦燥感に苛まれてしまうのです。このままでは何も解決しない。そんなことは誰にだって分かるでしょう。鮮やかな世界に憧れてしまうのも無色透明の世界に留まりたいと願うのもどちらも私の心なのであって、誰かから言われて結論を出せるようなものではありません。そんな葛藤を私は陳腐な胸に閉じ込めて、何も見たくない、何も聞きたくないと耳を塞ぎます。
漆黒と耳鳴りの空間に自ら閉じこもって、初めて私は自分は死体であると認識するのです。はらはらと私の身体に絶えず降り積もる花びらに埋められ、ぴくりとも動かずただ息だけは繰り返す私は死体以外の何物でもありません。このまま消えてしまいたい。疑似死人である私はやはり微動だにせずに切望するのですが、私の弱さを隅から隅まで知っているこの桜は全く返事などしてくれません。ただひたすら私に向けて自らの優雅さを見せ付けながら優しい薄桃色を散らばらせます。
ここで一旦生者へと戻った私は自分の死体を薄桃色に埋めてしまいます。私の醜い死体を吸い取って養分としてくれる桜は段々色彩を増してきました。ここぞとばかり咲き誇り、見守る私を物悲しい気分にさせます。私はこの心の中の墓地にて生死の境をさまようのです。
ある日、カッターナイフを片手に見た桜は真っ赤に染まっていました。ぽたぽたと手首から肘を伝い足元に流れて行った私の血さえも吸い取ったのだろうかとぼんやり思いました。そして何気なく目線を落とし、私の死体を隠す花びらがないことに気付いたのです。私は言葉を失いました。あんな何の意志もない、人形のように動かず閉じこもっていたいと呟いていた私はどこへ行ってしまったのだろう。辺りの環境は混乱する私を誘うように高速で移り変わっていきました。持っていたカッターナイフも自殺願望も全て桜に押し付けて、私は空に色を付ける道を選びました。慣れないことをするのは気疲れしましたが、塞いでいた耳を周囲に向けるだけでこんなに色が変わるのか、と昔では考えられないくらい一喜一憂しました。
それでも私はたまに桜を訪れます。桜は今は全盛期の勢いを失い、咲いたり枯れたりを頻繁に繰り返すようになりました。私はきっとあの死体が消えてしまったときに一度死んでしまったのだと思います。私を取り巻く息を呑むくらい美しくて儚くて鳥肌が立つような魅力的な世界へは、死ななければ足を踏み入れられないからです。
不断の努力により鮮やかに色付いた私の空は私を虜にして放しません。周囲から差し伸べられる手に誘われるまま私は桜のもとを離れました。桜は何もかもお見通しとでもいうようにさわさわと枝を揺らすのみです。ひらひらと舞い散る花びらは私の死体を隠すほどの量はありません。私はもうこの儚い墓地に死体を野晒しにはしないでしょう。桜は散りゆくところこそが最も美しい、とは良く言ったものだと、私はそこで桜に向け薄く微笑むのです。


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