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積年の情




 鷹野家に仕えるようになり、早三十数年。私も齢四十を過ぎ、今や若い頃のように身体の融通がきかない。主のすべてを網羅し担う一翼とあらば、機転や瞬時の対応も求められる。だが、年若き者でなければなかなかに務まらぬことでも、この歳に不相応ながら必死にしがみつきこなす。そうでもして、主の傍らにありたいと願うのには理由があるのだ。
 鷹野家当主、辰敏様は御歳五十を召される。先代の千之助様は若くして病に倒れ、当時幼かった学生の辰敏様がその席をお継ぎになられた。千之助様の生前より辰敏様の身近に仕えてあった私は、千之助様の亡き後も、辰敏様の傍らに仕え続けた。本来であれば、千之助様に仕えてあった中野義孝が継続し辰敏様の右腕となるはずであったが、辰敏様の強い要望により私がおそばに置かれることとなったのだ。中野家は代々鷹野家に仕えてあったために、私が辰敏様のおそばにあることは極めて異例であった。
 辰敏様は色恋に疎く、自ずから女性へと近づくことは好まなかった。幾度と縁談を持ちかけたこともあったが、当人は興味にすら至らず、むしろ、避けるように断り続けた。だが、人生の過半を越えては焦らねばならない。跡継ぎの問題が生じてくるのだ。未だに女性の影すら見せない辰敏様に懸念するのは、何も私だけではない。皆が辰敏様のことを思っているのだ。

 職務を終え、帰宅された辰敏様を出迎えれば、いつになくその表情には疲労の色が見えた。お脱ぎになられたコートを受け取り、自室へと行かれる辰敏様の背中を見送る。心なしか、重ねた歳により丸くなった背中が、小さく見えた。
 私はコートを所定の場所へと掛けると、すぐさま辰敏様のもとへと馳せ参じた。お部屋の前に到着し、ドアを二度ほど叩く。そうすれば、中からは辰敏様のお声が聞こえた。静かにドアを開けると、椅子に座り寛ぐ辰敏様が背中ごしに見えた。


「辰敏様、そろそろ身を固められては」
 しばし雑談を交わしたのちに、私は本題に入った。辰敏様は急に目を伏せ、小さくため息をはかれる。そして、首を横に振られた。
「辰敏様の跡を継がれる方がなくては、由緒ある鷹野家が途絶えてしまわれます」
「甥が継ぐだろう。何も、私である必要はあるまい」
「しかし……」
「私はお前にとって、鷹野家の主というだけの存在なのか」
 私が聞けば、決まって私の困る問いを投げかけてくる。私にとって、辰敏様は特別な存在だ。それは辰敏様が、鷹野家当主にお着きになられる以前より変わらない。そこに敬愛の念はもとより、辰敏様には口が裂けても言えぬ思いも含めて。だが私に、それを口にする権利はない。抱いては、もってはならぬ感情に相違ないからだ。その感情を抱いてから、墓場まで持っていく覚悟はとうに決めている。
 辰敏様の、何かを求められるその表情に、私はいつも戸惑う。ああ、いったい何を求め期待してあらせられるのだろうか。私は、辰敏様の望まれる答えなど持ちはしないのに。
「また、かようにお前は押し黙る。沈黙は肯定と同義だ」
「いえ、そのようなことは」
「お前は知らないふりをしているだけだろう。私が望む答えは知っているはずだ。私が幾十年も待ち続けた答えを」
 ああ、本当は。本当は知っている。辰敏様の欲する答えは何であるかなど。私と同じ思いであることなど。だが、言ってはならぬのだ。分を誤った、その言葉を。
「惣一郎」
「辰敏様もご存知なのでしょう。私があなたの望まれる答えをもちながら、決してそれを口にはできないことなど」
 辰敏様は、眉を八の字に下げ、まるで私を責めるかのような表情で見つめてくる。
「不相応な感情などあってはならないのです」
 私がそう発した瞬間、突如として私の目の前は景色を変えた。驚きながらも、瞬時に状況を理解する。天井と、私を見下ろす辰敏様の重み。私は、辰敏様をただ見つめた。
「お前が私の欲する言葉をくれないのであれば、私は今にでも命を絶ってしまいそうだ」
 この、御歳に不相応の強靭な肉体。未だ衰えることを知らぬ眼光。威厳のある風格。そのような彼が、肩を、身体を震わせ、悲しげに表情を歪ませている。見捨てないでと母親にこいねがう、愛の不足した幼子のように。
 彼をどれほど欲し、望んだか。他人である私を何の疑いもなく信じ続ける彼が、滑稽に思えたと同時に、ひどく愛しかった。私に何もかもさらけ出し、委ねる彼の手を、生涯をかけて離さぬつもりだった。身の丈に合わぬ情は、心の内にしまっておくつもりだった。だが、歳を重ねるにつれ、思いはいっそう増すばかりだった。――いずれ、互いの感情が耐えきれなくなることなど、分かりきっていただろうに。
「お前はいつもずるい」
「……お分かりですか。もう後には戻れないのですよ」
「分かりきっていたことだろう」
 ただまっすぐに私を見つめる彼の手を引き、押し倒す。一気に形勢が逆転したというのに、彼は動じなかった。まるでこうなることを予期していたかのように。

 どれほど切望しただろう。その誰をも許さぬ肌に触れることを。指先がひどく熱い。火傷しそうなほど、彼の肌は私をこがす。鋭い眼光が弱々しくも失われずに、私を貫く。屈強な肉体が小刻みに震える様は、私の男としてのよろこびを奥底から呼び起こした。誰の手にも止まらぬ孤高の鷹が、私を選び自ら捕らえられたかのようだと、私は密かに笑んだ。




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