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溺れる魚




 大きな門のその下で、彼女は小さく震えていた。凍てつくような雨が傘をざあざあと打ちつけては、滑り落ちていく。目の前の彼女がまるで浮き世離れしているかのように儚げに見えるのは、おそらく耳に煩い雨のせいだろう。私はしばし彼女を眺め、やがて少しずつ歩きだす。平時であれば響き鳴る吾妻下駄の音でさえ、雨の前にはかき消されるのだった。
「寒いでしょう。何故ここに佇まれるのです」
 彼女は私に気づくと、ぱ、と顔をあげた。吐息は白く染まり、彼女の唇は血の色を失っていた。ふるふると小刻みに震える彼女の肩に手をやれば、彼女はいっそう大きく身体を揺らし、目を丸くして私を見つめる。それは怯えた猫のようだと、私は彼女に同情した。
「私の屋敷へおいでなさい」
 彼女はぎこちなくかぶりを振り、小さくか細い声で私の差し出した手を拒んだ。私は彼女を連れ去りたくなった。ざあざあとやむことを知らない雨は、私と彼女を二人だけの世界にいざなうかのようだった。
 拒む彼女を説き伏せ、戸惑いの色が見えるその手をしかと握り、私たちは歩きだした。一人では十分な大きさの傘でも、二人が入れば急に狭くなる。彼女の肩が濡れていることに気づいた私は、彼女の細い肩を抱き寄せた。彼女はびくりと揺れたが、それだけだった。ひやりと冷たい身体。それはまるで生きるものではないかのようにすら思えた。

「服をお脱ぎになって。私は後ろを向いているから。脱いだらこれを着てちょうだい」
 屋敷へ着くやいなや、私はすぐに彼女を着替えさせた。濡れた着物では風邪を引いてしまう。彼女はやはりおずおずと服を受け取り、遠慮がちに着替えだした。布の擦れる音が、やけに生々しい。
 彼女をストーブのきいた部屋に通し、火鉢を近くに置いてやれば、彼女の唇は次第に色を取り戻していった。彼女は、人形のように口を開かず、ただ、憂いを帯びた目で、火鉢をじっと見つめていた。
「あなたのお名前を教えていただけるかしら」
「……ゆきと申します」
「私ははつ。あなた、どうしてあの門の下にいらしたの」
 ゆきは私をじ、と見つめ、また口を閉ざした。
「男性のことかしら」
 ゆきは目を伏せ、俯いた。否定をしないということは、おそらくそれが原因なのだろう。
「ゆきは学校へ行っていらっしゃるの」
「はい」
「そう。それなら恋で悩むことにも頷けましょう」
 ぱちぱちと、火鉢の中で音がはじける。ほの暗い部屋の中で、ゆきは、とても小さく見える。この小さな女の子は、きっと己の見てきた世界の中で、漂い、迷い、行き場を失っている。差し伸べる手すら見つけられないほどに。
 ゆきの伏せたまぶたの奥にのぞく、小さくもつぶらできれいな瞳が、私の中の何かを駆り立てていた。同じ空間にいながら、まるで見えない何かが隔たり、私たちの間に明瞭な線を引いていた。まったく異なるとでも、いいたげに。
「消えてしまいたかったのです」
 ふいに、ゆきの小さな唇から、言葉が漏れる。
「どうして」
「私の恋仲にあった者は、知らずのうちにほかの女をつくり、無理心中に走りました」
「無理心中を……」
「――笑えることに、登場人物は皆、女なのです」
「だから」
「ええ、そうです」
 ゆきはそれだけ言うと、静かにうなだれた。希望も何もないと、ゆきの目には何をも映し出されてはいなかった。深く暗い、地の底を這う罪人のように。
 私はゆきを抱き寄せた。ゆきはだらりと、まるで死人のように動かない。泣くことすらも忘れているのか、ゆきの目は虚ろに空をさまよう。よほどの愛を以て、かの手を握り離さなかった相手を思うゆきの、ただ純粋であるそれだけのことが、痛ましく愛おしく悲しい。
「泣いてもよろしいのですよ」
「本当に悲しいときには涙が出ないものなのですね」
 ゆきは、私の手を弱々しくつかみ、小さな手でしがみついた。助けを求め乞う、泳げぬ魚。溺れまいと必死に命綱を離さない。それでも、諦めたかのように、時おり、ゆきは自ら力を弱め、離そうとする。嗚呼――ゆきは怖いのだ。再び泳げなくなることが。
「いつか泣けるときがきましょう。それまでは、私がきっとあなたの手を離さずに、引きつづけます」
「――ただ、偶然に出会っただけの汚い女に、何故あなたはそこまでしてくれるのです」
「偶然などではありません。必然とも運命なのです。私はたまたま会ったあなたに、惹かれ、そして愛すべきひとだと感じえました。ゆき……あなたの手を離してしまえば私が今度は溺れてしまいましょう」
 ゆきは俯いていた顔をあげ、綺麗な瞳で私を見つめる。ゆきの手をしかと握れば、ゆきは、その美しく儚い瞳を大きく揺らした。
「きっと、きっと私の手を離さずにいただけますか……」
「あなたの悲しみも喜びは、この手にたくし、あなたが信じるかぎり」
 ほろりと、ゆきの目からは一筋の悲しみが流れた。小さく儚い、まるでうたかたのようなこの存在を、だれが見放せるものだろう。ぎゅう、と握り返すゆきの手は、小さく震えていた。




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