今日も雨が降っていた。
歌舞伎町は梅雨に突入して、太陽の姿もめっきり見かけなくなった。
母の形見の番傘を差して、あてもなく私は裏路地に座り込む。
私の母は最近亡くなってしまった。持病を患っていたらしく、ひっそりと私と医師に看取られた。
仕事もしていない私がお金を持っているハズもなく、母の貯金もゼロに等しかった。私は泣く泣く家を売り払ったのだ。
裏路地に座りながら、このままだと死ねるだろうか、母に会えるだろうか。と思考した。
「お前…」
雨音に紛れて声が聞こえた。視線を持ち上げる。そこには男の人が私と似たような番傘を差しながら立っていた。傘で風貌は分からないが、体格からして男だろう。
「…何?」
ぎろりと睨むようにその男を見ると、男は傘を傾けた。顔がはっきりと見えた。
その顔は酷く疲れているように思えた。
「お前の名前はなんてーんだ」
「あんたこそ誰」
「こりゃ失敬。俺は阿伏兎ってんだ」
「…名前」
「名前ね、良い名前じゃないか」
その男―阿伏兎はあろうことか私に手を差し伸べてきたのだ。怪訝に思い穴が空いてしまうのではないかという程、手をじっと見る。
阿伏兎のごつごつとした手に違和感を覚えた。
私はずっと母に育てられてきたのだ。物心つくまえから私の世界は母だけだった。男、というのに関わるのがこれが初めてだった。
「何?」
「そーだな、名前は一人なんだろ。良かったら俺たちと一緒に来ないか?」
阿伏兎は優しく微笑んだ。
私の返答は雨音にかき消されて、口唇だけが微かに動いた。
「何だって?」と阿伏兎が聞き返す。
「何で私に構うの?」
「手を差し伸べるのに理由がいるか?」
私がこくりと縦に頷くと、彼は困ったように頬を掻いた。
「じゃあ理由はな。名前が俺たちと同族なんだから助けてんだ」
「同族?」
「…。まぁいい、名前が俺の手を取れば助かるんだ、死ぬのはそれからでもいいだろう?」
私の答えは、少し阿伏兎の声を奪ったみたいだ。
“死ぬのはもう少ししてからでもいい”
私は阿伏兎の言葉に心打たれた。
もう少しだけ生きてもいいのだろうか。いや、母は最期私に“生きろ”と伝えてくれたのだった。母が死んだショックで忘れていたのだろう。
意を決して私は冷たい手を重ねた。
阿伏兎の手は雨に打たれているというのに温かかった。
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