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 高くも低くもない階段を、あたしは一段飛ばしに昇って行った。平均より少し身長の小さいあたしの足は、やっぱり周りよりも短い。おまけに運動神経だってそんなに良くない方。むしろ、周りからは鈍臭いって良く言われるくらい。だから、男の子とか、運動神経の良い女の子とかが走るのは軽やかに見えてたのに、実際やってみたら結構きつかった。
 ツルツルしたタイルとあたしの履いたスリッパが摩擦して高い音を立てる。濃い緑色のスリッパは何回も脱げそうになりながら必死にあたしの足にしがみついて来た。狭くも広くもない踊り場に出る。相変わらず壁には、あたしの目線よりちょっと高い所に4/5という数字が並んでいる。後、もうちょっと。弾む心。気持ちが高ぶってるからか運動してるからかは分からないけれど、頬が熱い。張り裂けそうなくらい心臓が鳴って、肺がぎゅうぎゅう音を立てる。それでもあたしは足を動かした。上へ、上へ、がむしゃらに駈け登る。
 そしてもう一つ、今までとは違って一回りも二回りも――酷ければ半分くらいの――小さな踊り場で身体を振り回す。壁にかけられた埃の被った鏡にあたしの姿が白んで写るのが横目で見えた。見上げれば、銀色の、所々錆び付いた重たそうな扉が目に入った。『立ち入り禁止』なんて赤い字が見えて、余計、立ち入りたい衝動に駆られる。むしろ、入りに来たんだけどね、なんてちょっと笑っちゃった。
 取っ手を握ると、ざらついた冷たい感触が手のひらに伝わる。これは埃じゃない。錆たせいで肌触りが悪くなったもの。何度か経験したそれを思い切り握って、見掛けより何倍も軽い扉を押し開けた。
 突風があたしのスカートをさらう。急いで押さえたら今度は扉が閉まりそうになって、癖が悪いけれど片足を突っ込んだ。スリッパなのを忘れてた。柔らかいそれは、やっぱりちょっとは重たいそれに挟まれて変形する。それほど痛くはなかったけれど、慌てて足を引き抜いたからスリッパだけが間に残る。今度はきちんと手で、スカートを残った手で押さえながら扉を開けた。
 風は、やっぱり強かった。
 でも、頬を撫でる、程よく冷えた空気は気持ちが良い。躍り出たそこには一面青空が広がっていて、まるで空中に放り出されたみたいに意識が遠くなった。あたしなんてちっぽけなただ一人の人間が、もうこの世界には存在しないなんて言うような、ちょっと清々しい何処か寂しい気持ちになる。
 屋上。
 それは素晴らしい場所だ。
「おーい」
 両手を限界一杯まで伸ばして空を仰いでいたあたしの耳に、ちょっと間抜けな声が聞こえた。やっぱり先を越されてたみたい。つい最近知り合った友人があたしを向いて手を振っていた。胸までしかない錆た柵に手をかけて、ワンピースの裾が捲れそうになることも気にせずに屋上の端っこに佇んでいる。もう後二、三歩踏み出せば床がなくなるそんな場所に立っていられる彼女はちょっとした勇者だとあたしは思う。昔、餓鬼大将にブランコから引きずり落とされたあたしは高所恐怖症なのだ。
「ごめん、遅くなった」
 心の底からは謝ってないけどそう言って、柵の近くまでは寄って行った。そこにはあたしの訪れを待っていたかの様にパイプ椅子があって、彼女に構うことなしにどかりと腰を下ろした。
 大きく息を吐くあたしを見て、立っている彼女は嫌な顔一つしないで尋ねてくる。
「別に気にしてないけどさ。汗、走ってきたの?」
「うん。疲れちゃったよ」
「だったら許してあげる」
「ありがとう。さすがトモダチ」
 ふざけてみれば、彼女は静かに笑った。
 友人と言ってもあたしは彼女の名前も知らない。いつも真っ白のワンピースを着ていて、長い黒髪を風に靡かせている色白美人。話せば気さくで冗談も通じる。大声をあげて笑うあたしと違って、彼女はすごく穏やかに静かに笑う。まさに清楚で可憐、それでいて何処か人の目を引く輝きみたいなものを持ち合わせている。あたしが知ってる彼女のことは、それくらいだった。名前を知らないことで不便なことは結構あると思う。彼女が何処に住んでるか分からないし、遠くから「おーい」なんて呼んだら皆が振り返っちゃうから。まあ、彼女と会うのはこの屋上だけで、此処には全然人がいないから問題はないんだけど。
 そういえば、彼女より先に屋上に来れたことないな、なんて今さら思った。此処に来ることは約束したりしない。知らせたりもしない。けれど彼女がいる時に必ずあたしは訪れる。虫の報せで突然来たくなるのだ。初めて出会った時は偶然だったかも知れないけれど、今ではずっとそう。
 あたしよりずっと大人っぽくて綺麗な彼女が、すごく羨ましく感じるのはちょっとやそっとじゃない。少しでもその高みに届きたくて、あたしは意を決して彼女に近寄った。
 スリッパがひび割れたタイルの感触を直に伝えてくる。手で柵をしっかりと握れば、ドアノブとは比べ物にならない程ざらついた感触に触れた。雨ざらしだとこうなるのか、なんて、下に広がるアスファルトを眺めて思った。豆粒みたいな人がぽつぽつ歩いてる。ちょっと外れた所には駐車場なんかもあって、色とりどりの車がびっしりと収まっていた。それを覆い隠す様に生える木々も、今のあたしから見たらいつもの半分以下の大きさになってる。
 背中がぞくぞくする。思わずトイレに駆け込みたくなるような、そんな感覚に襲われる。高い場所から飛び下りをした人は途中で気絶しちゃうらしいけど、あたしの場合はこの場で既に気を失っちゃいそうだった。こんな場所に立ってられる彼女を思うと、彼女が実は片手で林檎を握り潰せるって聞いても驚かないくらいにはすごいんだと再確認できた。――嘘、びっくりするよ。
 おーいってあたしを呼んだきり何も喋らなくなった彼女に、あたしはふと思い付いた話題をふった。
「死後の世界ってあるのかなぁ」
「え?」
 彼女はぱちぱちと目を瞬く。
 そんな話題を突然切り出した自分にもびっくりしたけど、きっと飛び下り自殺のことを考えたからだよなんて納得してみた。
「いやさ。昨日、テレビでオバケの話、してたからさ。死後の世界があるなら、ずばり本当の『第二の人生』ってやつだよね」
「ふーん…、かも知れないね」
 彼女は興味あり気に呟いて、細い指を顎に添えた。そんな姿も様になる。
「オバケにオバケって見えるのかな?」
 そうやってあたしが尋ねると、
「見えるんじゃない?だって、人間には人間が見えてるんだから」
「でも、人間に猫は見えるのに、オバケは見えないんだよね」
「それは実体があるからよ」
「だったらオバケ同士も見えないんじゃないの?」
「あ、そうか…」
 彼女が妙に真面目な顔で納得するのがおかしくて、あたしは小さく笑った。押し殺したつもりだったけど彼女に聞こえるには十分な距離と大きさだったみたいで、気付いた彼女は指を顎から離した。そして眉を下げて、困った様なおかしい様な表情を作る。
「相変わらず、不思議なこと考えてるのね」
「我ながらこの想像力は恐ろしいと思うよ」
「良く言うよ」
「それほどでも」
 それからほんのちょっとだけ、沈黙が流れた。だからあたしがまた口を開く。
「ねえ」
「ん?」
「死後の世界でも、生きたいと思う?」
「死後なのに?」
「取り敢えずは、第二の人生的な考え方で」
「…どうかなぁ。あなたは?」
「あたし?」
「もし、誰にも見てもらえないとして、死後の世界があれば良いと思う?」
「誰にも、見てもらえない?」
「そう。オバケは人には見えないから、誰にも気付いてもらえないの」
「それは、…淋しいなぁ…。せめて、オバケ同士のトモダチが欲しいなぁ」
 すると彼女が、今度は悲しそうに微笑んだ。それが今にも泣き出しそうに見えて、あたしは慌てておどけてみせる。
「でもあたしは、オバケにならない自信、あるよ」
「そうなの?」
「あたしは、毎日精一杯生きてるから」
「…そうなの」
 けれど、彼女はやっぱり俯いたまま。だからあたしもつられて下を向いた。
「…………、嘘」
「え?」
「毎日後悔だらけだよ」
「………」
「あたしも、きみみたいになれたら良かったな」
 長い黒髪も、白いワンピースも、真っ白い肌も、全部持って生まれたかった。
 けれど彼女は、あたしの短いくりくりの髪と、あたしのダサいスカートと、あたしの血色の悪い肌を見つめて言う。
 それでも彼女は首を振った。
「私も、あなたみたいになれたら良かったって、いつも思ってる」
 ただ自分がどれだけ幸せか分かっていない彼女の傲慢だと、ちょっと憎らしく思った。




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