[携帯モード] [URL送信]

Marijuana




『この世界は平等ではない。
 だからこそ神に誓う、神な
 どいないと信じる事を』

 その荒野に咲いたたった一輪の花を厚い靴底でなじった時、言い知れぬ嫌悪感に陥ったのは偽善からだったのだろうか。

   ***

 視界を四角くくりぬく窓。
 その向こうで行き交う人間の頭上を埋め尽くす、灰色の雲。
 恐らく世界中の空を埋め尽くしているそれは、記憶にもない小さな頃の事、断片的に思い出す謳い聞いた青い空とは程遠くくすんだ、綺麗などという表現は似合わない、そんな汚い色だった。誰から聞いたかなど、そんなことは覚えていない。それが現実だったのか、夢で見たのかすら。ただ、それでも真っ黒な記憶にその詩だけは残っていた。
 物心がついた時にはすでに牢獄に閉じ込められていた少女は、一度も本当の『青』を見た事はなかった。外へ出る機会が無かったのも理由だろう。しかし、少女が生まれた瞬間から、世界は灰色に呑まれたのだ。そして周囲の景色ですら、この狭い灰色の『牢獄』しか見えなかった。故に、彼女の世界には全てに色が無かった。そして、灰色が少女の世界の全てだった。
 世界を彩るための誰かすら、少女の周りにはいない。誰かを望もうとも、それを許されない身体だということも理解はしていた。
 何故なら、少女が『死を呼ぶ烙印』を持つからだ。ある古い書物にはその烙印が近付く人間に様々な災厄を呼び寄せ、死にいたらしめると示されている。伝説にも等しい話であるが、確かに烙印は世界を闇に陥れ、人々を不幸にするのだ。もし少女を彩る人間が現われたとすれば、その人間すらも不幸に飲み込まれるのだろう。そして現に、珍しいその刻印を手に入れたがる者も少なくはなく、それらは全て、その刻印にのまれて死んでいった。
 刻印と共に育った少女は、幸せを感じたこともなければ温かさを感じたこともなかった。彼女を産んだ母親も、いたと言えばいたのだろう。父親も。時々夢に見る優しい微笑みを思い返しては、あるいは兄弟もいたのかも知れないと少女は考えた。だが、はっきりとは覚えてはいない。幼い頃に何があったかすら、もし父母兄弟がいたとして、何故今は独りなのか。思いだそうとしても、神経が焼き切れる様な痛みに襲われて、思考がままならなくなる。全てが、真っ黒な影に埋め尽くされてしまう。思い出したくない、思い出さない方が良い記憶なのだろうか。
 牢屋の中では、黒い影たちに、ただ呪われた刻印を身体に持ちそのせいで親をなくしたのだと教わった。そのせいで両親は死に、彼らが身よりのない飢えた少女を引き取ったのだ、古い文献を見せながら言う。
 全て、自らの持つ『刻印』のせいで死んだのだろうか。愛すべき家族を、自らの手で殺してしまったのだろうか。
 与えられた知識のせいで、少女は悩んだ。
 しかし、それでも彼らは両親として十分な対応をしてくれた。少女の刻印に恐れることなく接し、綺麗な衣服や美味しい食事、温かい寝床を与えてくれた。唯一この『世界』で知り、頼れる存在である彼らの行為を、少女は黙って受け入れた。働く力のない少女には、生きて行く力もない。だが、この黒の中にいれば衣食住には困らないと分かったからだ。何の不自由もない生活に、疑いを持つことなく生きていた。牢屋に閉じ込められているという意識もなく。
 娯楽も無ければ地獄もないそこは、ただいるだけで退屈になる。ただそれでも、黒い影たちに『副作用』と称された首の痣部分の痛みを薬で軽減されるだけで、そこにいて良かったと思えた。頭の割れる様な痛みよりも、何か月何年と変わらない風景の方がましだと思ったのだ。そこにいれば困らない。抜け出せば飢えて死ぬかも知れない。そうすれば、美味しい食べ物も綺麗な衣服も着れない、両親の様にこの世界にいない存在になってしまう。
 それは嫌だった。
 貪欲な人間の本能だけが、何も教わっていない少女の自我に芽生えていた。
 しかし、そんな胡座をかいた状態を良しとする考えがいけなかったのだ。
 相変わらず変わらない毎日を送っていた少女はある日、善良そうなある人間に出会う。黒い影は口を揃えて、彼を新しい父だと言った。生き物に囲まれていながらぬくもりを感じてはいなかった少女は、なくした家族をもう一度手に入れられると思い喜んだ。
「儂が新しい家族だ」
 豊満な腹を揺らして立派な口髭を蓄えた彼は、優しい顔で笑っていた。太く膨らんだ手が、少女の細い手をまるで割れ物であるかの様に触れる。初めて見る黒い影以外の生き物に戸惑いの表情を浮かべた少女に、男は再び笑ってみせた。
「儂はお前の様な可哀相な子を探していた」
 少女の呪いの刻印も恐れないと言った。
「不幸は恐れるものではない。誰にだってついてくる物さ」
 呪いの刻印から引き起こされる悲劇すらも受け入れると言った。
「さあ、これからは儂がお前の家族だ」
 幸せだった。
「儂に幸せを与えておくれよ?」
 だが、それに『引き取られ』てから、少女の世界は灰色で塗りつぶされた。
 少女を手に入れた途端に善良そうな人間は豹変し、少女をただの金儲けの道具として扱い始めた。日常は少女を狭い牢屋に押し込め、時には商売仲間へとひけらかし、見物料を取り、いざ悪い事が起きれば少女に当たり散らす。目が覚めようと覚めまいと、まるで悪夢の様な毎日だった。
 引き取られようとも変わらない牢屋。引き取られる前より悪くなった環境。痛み止めの薬もない。満足いく食事もない。綺麗な衣服すらない。あるのは痛みだけだ。
 引き取りに来た時以来、男は必要な時にだけしか少女の前に現われることはなくなった。時々現われたとしても、あの時の様な笑顔を向けることはない。下卑た思惑を抱いた目で、成長を始めた少女の身体を舐める様に見ていった。
 気味の悪さを感じながらも、逃げ出すことは不可能だった。四角い窓は、まだ年端もいかない少女すら通ることが難しいほどに小さい。両側は堅い石壁に囲まれ、正面には鉄格子がはめられている。
 牢屋に独りきりの少女は寂しさのあまり、よく自分の考えに浸った。自分の世界に、陶酔した。行った事もない街を想像しては、着た事もない服を着てみたり。見た事もない花を想像しては、その匂いを嗅いでみた。
 現実と空想の間を行き来し、ただ、その後には必ずと言って良い程、身体に触れる冷たい床に落胆するのだ。
 両親のいない、退屈な生活を疑問に思わなかった自分を少女は呪った。刻印は他人を不幸にするだけではない。自身も不幸にするのだと気付く。無性に嫌になって首を強くかいてみたが、少し血が出ただけで終わった。痛みが怖かった。死ぬ覚悟も出来ない自分の弱さに、少女は落胆した。
 鎖で繋がれた自由のきかない両足を見つめ、自らを囲う格子に手を触れて、灰色の世界を呪う様に涙を流す。彼女は世界を羨ましく思い、同時に恨めしく感じていた。
 幸せなど、空想にしかない。
 むしろ、幸せとは何なのか分からない。
 円を巡る様にそんなことばかりを考えて、無駄に月日を浪費した。
 しかしそんな少女にも、周囲の事を教えてくれる優しい世話係りがいた。彼女を引き取った人間とは違い、彼らは少女に知識を与えてくれる。牢屋の掃除に来た時には本を読ませ、食事の時には短いながらも外の話を聞かせてくれるのだ。
 だが、毎日が毎日同じ顔ぶれではない。少女と親しくしていることが主人に知れれば、次の日にその人はこなくなった。それが何度も繰り返され、少女は次第に他人と関わることすら怖くなってしまう。今まで良くしてくれた顔を見なくなった世話係りも、きっと少女のことを恨んでいるだろう。
 他人を傷付けることが怖かった。
 そして何より、自分が傷付くことが怖かった。
 次第に少女の顔から表情は消え、口数も減った。主人は性格破綻者であったが、世話係りたちは気さくに話し掛けてくる。それでも、少女は冷たく接した。いつも暗がりに身を置き、息を顰めていた。
 そんな少女の姿を見て、世話係りたちは、皆が口を揃えて少女はまさに籠の中にいる鳥の様だと言った。周囲を鉄格子で囲まれ、窓など人一人通ることですら到底無理だと思われる程の大きさしかない。せめて格子の中だけ飛ぼうにも、羽が手折られてしまっていては、それすらも叶わない。それを見た彼らは彼女を可哀相だと言い、彼女がいざ口を開いてどうして此処から出られないのかを聞くと、しかし、皆が皆口を噤んでしまう。
 少女はそれがとても悲しかった。
 まるで、羽根を折られた蝶々のような気分と共に、緋と白を混ぜる様に、夢も希望も無い日々にただ涙を流し続けた。




[次へ#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!