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Marijuana




 後ろに控えていた、小さな少女を振り返る。今までひっそりと佇んでいたファナは、強い眼差しでナズナを見ていた。怯えた表情など一切消えている。そこにあるのは使命感のような、ただただ直線的な意志だった。
「トキさんを迎えに行ってあげないと」
 再び紡がれた力強い声音を発する少女を目の前に、大の大人は呆然と目をしばたくしか無かった。立ちすくむゼンに向けて、俯くナズナにむけて、小さな身体のどこから出ているのかと思う程の強さでファナ言葉を紡いだ。
「ゼンまで不安がらないで。ナズナさんも。きっと、大丈夫ですから」
 その音に、全身が電撃を受けた様にうち震えた。すっかり消沈してしまっていた意気が再び浮上する。小刻みに震える手を握り込むと、冷え切っていたことに今更気が付いた。嫌な夢から覚めた時のようなかんかくを振り払い、力も入らずに円を保っていた唇を引き結ぶ。
「そ、う…だな、…そうだ…。ああ、悪い…」
 確信などないというのに。ありもしない言葉に、こんなにも考えが変わるなど。それが言葉の魔力と言うのか、ファナ自身の力だと言うのか。
 繰り返し頷くゼンの横で、ナズナが小さく嗚咽を上げた。
「ごめ、ん、なさいっ…私、酷いこと、言った、のにっ…。ごめんなさい…ごめんなさい…っ」
「ナズナさん…」
 その時初めてナズナが涙を零した。今まで気丈に耐えていた身体が崩れる。声を出して泣き、すがりつくナズナの背をファナはその細い腕で力強く抱き締めた。「ごめんなさい」という懺悔の言葉はやがて泣き声に溶けて消えた。
 力の限り泣くナズナは、ゼンが彼女と暮らした数年の間で一度も見たことはなかった。今となって初めて理解する。意識的にではなかったとしても、他人の全てを知ることは、一生かかっても無理なのだと。
 しかしその片鱗を見せたナズナを、ゼンは慰められなかった。子どものように泣きじゃくる彼女に触れることが躊躇われた。それに、手を差し出すべきは自分ではないと分かっていた。彼女を支えるのは自分ではない。そして、自分が支えれるのも彼女ではない。
 ただじっと、肩を震わせる姿を見つめていた。向こうの方で少しずつ音が減っていく。そのせいか、嗚咽の音が大きく聞こえる。時間が経ってゆっくりと深く息をつけるようになったころには、はじめの半分くらいの騒がしさになっていた。
 ファナは、ナズナの髪を優しい手つきで梳きながら言葉を発する。
「きっと、きっと大丈夫です。トキさんは、…生きてます」
 この空間に、ファナの声はまるで水面を揺らす波紋のようにしんと広まった。決して大きくはないそれでも、かなりの影響力がある。
 その言葉に、ナズナは小さく頷いた。「うん、うん…」と何度も頷き、身体を震わせた。
 その様子を見て、ゼンは安堵する。最悪の方向に傾き始めていた考えを軌道修正するのに、ファナの言葉は最適だった。下しか向いていなかった顔を、真正面に向けさせている。少なからず余裕の生まれた表情で、決意した様に深呼吸をした。
 冷静になった頭で考えれば考えるほどに様々な推測が溢れてくる。先ほどまで感じていた焦りの中に、一種の違和感を探し出した。それはじわじわとゼンの意識を浸食し、また違った焦燥を与えはじめる。
 だが極めて平静を保ちながら、ゼンは切り出した。
「一つ、聞いて良いか?」
 ファナの身体から離れても未だ鼻をすするナズナに問うと、それでも彼女は力強く頷いた。
 ナズナたちが襲われた時の状況を今聞くにはあまりに酷だと思ったが、尋ねずにはいられなかったのだ。あの時――図書館を訪れた時から気になっていた、あの謎を解き明かすために。
「お前は、何処から逃げたんだ」
「……え、……何処って、……」
「窓からか?玄関からか?何処でも良い。襲われた時に、家を出た場所だ」
「私は……裏口から、逃げたけれど……」
「そうか。悪かったな」
「ううん……。でも、それが…?」
「特に、何てことはない」
 まだ理解していない表情をしていたナズナだったが、そうゼンに言われしぶしぶ頷いたようだった。大分落ち着いた様子で、今はもう、ファナの支えが無くても座っていられるだろう。
「取り敢えずお前は此処にいろ。俺たちはトキを捜す」
 そう判断したゼンがそう言うと、しかしナズナは強く首を振る。いつもの彼女に戻ったのか、まっすぐな瞳だった。
「私もついて行く」
「駄目だ」
 その行動から予想出来た言葉を、ゼンは厳しい表情で制止した。
「どうして?私もトキを捜したい…!」
「俺たちは敵に追われてるんだ。それはお前たちを襲った奴らでもある」
「だったら何なの」
「危険だ」
「そんなの、ゼンたちも一緒じゃない!」
「お前だけは顔がバレてないはずなんだ。自分から進んで危険に身を置く必要はない」
「でもっ!」
「トキさんは…」
 ナズナの声に、継いでファナの声が被さる。
「トキさんは、ナズナさんに生きていて欲しいから、貴女を一番に逃がしたんだと思います」
「…っ!」
 ファナのまっすぐな瞳を受けて、ナズナはハッとした表情で言葉をのんだ。それから悔しそうに唇を噛んで、小さく頷いた。
「……気、を、……付けて……ね」
 潤んだ、それでいて何か決意の含まれた瞳に、ゼンとファナは音もなく頷いた。

   ***

 遠くで風が鳴る。
 路地に吹き抜けるそれは、ナズナの髪を静かにさらって行く。
 見送った背中が小さくなった後、ナズナは疲れた身体を労う様にかさついた壁に背を凭れさせた。話し込んでいた場所から少し外れた路地だった。人の喧騒や熱が遠ざかり、自然の流れを良く感じることが出来る。
 瞼を閉じた瞬間に押し寄せた疲労感に、深い睡眠が襲いかかった。ふわふわとした感覚は、今自身の置かれている状況とはかけ離れていて、そちらに身を任せてしまいたくなる。それでも頭を振ることで、必死に眠気を追いやった。
 それを何度繰り返しただろう。人の気配がやっと落ち着きだし、空の向こうに月が消えかけた頃だ。
「ナズナ……」
 不意に、自らを呼ぶ声がした。
「ナズナ、……」
 瞼を閉じてから少しも経っていないと思っていたが、それは他人の接近に気付かない程の時間だったらしい。傷付いた身体を遠慮した様に揺する手の感触が、ナズナの意識を現実に引き戻した。
「……、ん……ゼン?」
 堅くなった身体がギシリと軋んだ気がする。ぼやけた視界で自らの肩を揺する人物を見つめると、次第にはっきりとしてきた視界と思考で、ナズナの唇は驚きに開かれた。
「……ト、キ……?トキなの!?」
「ああ、……」
 顔は泥で汚れて切り傷などが目立つが、それは見慣れた古くからの友人――トキのものだった。はぐれた時となんら変わりのない姿――傷を除いては――でこちらを見つめてうた。弱々しく笑みを作るトキを、ナズナは喜びと心配が入り交じった表情で抱き締める。
「良かった、トキ…!怪我は?怪我はもう大丈夫なの?」
「うん」
「ゼンとファナちゃんが貴方を探しに行ったの。すぐに追いかけないと大変なことになるかも、――」
「それよりナズナ」
「?」
 ナズナの声を遮り、そしてその回された腕を身体から放させたトキは、静かに問う。
「ゼンは無事だった?」
 その声音に、ぞくりと背筋に寒気が走った。昼間にも感じた違和感に、それよりも強い恐怖に、ナズナは身体を硬くする。何故だかトキの顔を見ることが出来なくて俯いたままになってしまう。
「え、ええ…」
「そっか。それなら良かった」
「トキ…?」
 トキがくすりと笑ったのに気付き、ナズナは顔を上げた。そこには笑顔のトキがいた。今までと同じ無邪気で人懐っこい笑顔に、自然とナズナの肩の力も抜けた。身構えていた自分が恥ずかしくなって、取り繕うように微笑みを返す。
「オレはさ、間違って無かったと思ったよ」
 不意に、トキの指先がナズナの頬に残る涙の跡をなぞった。それがくすぐったくて、少しだけ身を捩った。
「だけど、ナズナが泣くんだったら、やっぱり間違ってたのかも知れない」
「ファナちゃんの、こと…?」
「泣かないで」
 今度はトキの方から抱き締められ、ナズナは気恥ずかしそうに身じろぐ。あまりの力に苦しそうにすると、トキは小さく笑って離れる。自由になったナズナは、少し赤く染めた頬ではにかんだ。そしてその目尻に、トキはそっと唇を落とす。
「ごめんな」
 再び優しく抱き締められ、ナズナは瞳を閉じた。
 消えてしまいそうな月が、ぼんやりと空に浮かんでいる。




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