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Marijuana




 不規則に跳ねる身体の動きが、内部から直に伝わってきた。
 男は一瞬の出来事に声を出す間もなく絶命する。正しくは、声など出せなかっただけなのかも知れないが。急所を狙われ、立っている力のなくなった身体はまるで糸の切れた人形の様に易々と倒れてしまった。
 頽れる男の体重に任せてナイフが引き抜かれ、傷口からは血が噴水の様に溢れ出る。もはや生命活動など不必要なその身体から、命の根源が溢れ出るのだ。
 ぴくりとも動かない、身体。
「……っぅ…」
 見覚えのある光景に吐き気さえ覚えてしまったファナは、無意識に目を逸らし口を覆った。
 しかし、そんなファナの様子にも気付かずゼンは先へ先へと足を動かす。
 男から得た情報は、たった一言、呻き声だけだった。気にする必要のないことは、特に引け目を与える要素になりはしない。誰が、見知らぬ人間が道端で野垂れ死んでいくのに胸を痛めて泣きすらするだろうか。或いは、胸を痛めるくらいはする人間もいるかも知れない。ただ、それは嫌悪にも似た感情だと考える。周囲のあらゆる物へと向けられたらどうしようもない憤り。だから誰も泣きはしない。誰もその人間の親しい人ではないのだから。
 この男に対しても、それくらいの感情しか芽生えなかった。自らが手を下していると言う罪悪感はあったが。殺してしまった人間のために泣いてやるほどこちらに余裕はないのだ。
 とにかく後ろから追っているはずの足音から遠ざかるために足を早めた。後ろから、覚束ない足取りながらも必死についてくるファナの気配を確認しながら。
「………しっ」
 その時、路地の向こうで何か音が聞こえた。明確に耳に入った訳ではないが、どうやら足音のようだ。一定の間隔で硬いものが地面を叩く音がする。しかもその音はこちらに向かって来ているらしい。次第に大きく、明瞭になっていく。
 口元に指を添えたまま、後ろ手でファナへと後退するよう合図を送る。それを瞬時に理解し、ファナは路地の更に入り組んだ暗がりの方へ身を押し込んだ。続いてゼンも隠れる。ただ、こちらに向かっているはずの人間を確認するために、低い位置から顔を半分だけ出しておいた。
 そんな不用心なことをしたのは、ルミーユの手先ではない気がしたからだった。
 先ほどから徐々に大きくなりつつある音は、女が履くヒール特有のものだ。男はもちろん女だとしても、戦線に立つ敵がそんなものをはくはずはない。一般人の可能性が高い。
 どこまで逃げてきたか忘れたものの、建物の外装から考えて隠れ家からは相当離れたらしい。ならば、ただの一般人が紛れて走っていてもおかしくはないのだ。
 一呼吸置いてから、じっくりと暗闇に目を光らせる。やがて路地の隙間から、足音の犯人が現れた。先ほどよりも迷いの見える足跡で進んでいるようだ。時折足早になっては、立ち止まってを繰り返している。薄ぼんやりとした月明かりが建物の隙間から差し、人影を照らした。
 流れるような、金色の髪がキラキラと輝く。
「ナズナ…!」
 無意識の内に、声が漏れていた。闇に潜めていた身体を月明かりの下へ移動させれば、人影は驚いたように一、二歩後ろへ下がる。しかしゼンの姿を確認した時には、安堵の表情を浮かべていた。
「っ、ゼン!」
 薄暗い中、声音でもナズナであると確信する。その声に、隠れていたファナも出てきた。
 再会は喜ばしいことだったが、関わるなと釘を刺していたことはナズナに対していくら偶然だったのだとしても再び呆れてしまう。複雑な表情が顔に現れたことに、ゼン自身は気付いていなかった。
 しかしナズナの身を案じては、注意の言葉が先に出る。溜め息混じりに言葉を吐き出そうとした。
「ナズナ…、お前――」
 そこでゼンは一度口を噤むことになった。
 目の前に佇むナズナの身体が、服が、薄汚れていたからだ。何処かしらは擦り切れて破れ、皮膚からは血がにじんでいる。
「ごめんなさい、会うつもりはなかったのよ。――ええ――でも、会えた方が良かったんだけど」
 肩を激しく上下させながら答えるナズナは、確かに、ゼンたちの出現に驚いているようだった。額に浮いた汗は、必死で走っていたことを物語っていた。瞳には明らかな動揺と焦燥が滲んでいる。ふとした拍子に涙がこぼれてしまいそうな潤んだ瞳は、月明かりを反射してキラキラと光っていた。
 だがそれを綺麗だと思うほどナズナは悠長にしていられないようだ。そしてそれはゼンたちにも言える。背後で木霊する、極限まで抑えられた足音が小波のように押し寄せてきた。
「此処は危険だ。場所を変えた方が良い。俺たちは今、追われてる」
「…っ!」
 落ち着かせるためにナズナの肩を掴んだ瞬間、やっとゼンの身体にまとわりつく返り血に気が付いたのか、一瞬表情を強ばらせた。唇だけを動かして疑惑の念を伝える。ただ、音にまで出せなかっただけかも知れない。恐る恐る見上げてくるナズナに、ゼンは何も言えずにただ退却を促すしか道が見出だせなかった。
「とにかく、場所を変えよう」


 移動した先は賑やかな街道の一角だった。月明かりよりも通りのネオンの方が明るく光っている。この場所にとってゼンたちが異質なのは明白だったが、他人への関心が薄いせいで特に気に止められることはない。人は多いのだが、身を隠すには好都合なのだ。
 俯くナズナを植え込みに座らせ、その震える肩をそっと撫でる。その際、返り血で汚れた右手は使わなかった。
「どうしたんだ?」
 優しい声で問いかければ、ナズナの瞳がこちらを向く。顔色や唇は、瞳とそっくりなほど青ざめていた。
「…、キが…」
 か細い声が喉に詰まっている。一度嗚咽を抑えるために息を飲んだ。視線がゆっくりと下がって行く。
「――家に、知らない人たちが沢山来たの……いきなり、窓ガラスが割れたと思ったら、何か爆発して…」
 ぽつりぽつりと吐き出される言葉に、その間ゼンは何も言うことが出来なかった。手口が全く同じだったのだ。ゼンたちを襲った男たちと。
「どう言うことだ……」
「…分からない。分からない、けどっ…トキが、怪我してっ…」
 その時の光景を思い出したのか、ナズナは膝の上に乗せた両手を握りしめた。。力の限りなのか、徐々に白んでいく。
「トキと離れてしまって…私、どうしたら良いか分からなくてっ…」
「どうしてはぐれたんだ?」
「男たちが中に入ってきたのを見て、すぐにトキが逃がしてくれたんだけど、…気が付いたら、はぐれててっ…。私、トキをっ…!」
 泣きそうな声で言ったナズナの表情は、後悔の念に囚われていた。
「大体は、分かった。…トキが今、何処にいるか分からないんだな?」
「…ええ」
「それから、怪我をしている…」
「おなか…、おなかを刺されたのっ…」
 涙がこぼれても良いくらいなのに、ナズナは気丈にも唇を噛んで耐えている。
 それが、ゼンにとって唯一の救いだった。これほどまで怯えて悲しんでいるナズナは見たことがない。いつも笑顔でいた彼女の強さを、こうなってから漸く目の当たりにしたようだった。泣かれればどう接して良いか分からない。それに、こうやって話すら出来なかったはずだ。
「トキやお前を襲ったのは…、多分ルミーユだ」
 残酷かとも思いながらそうやって切り出しても、一度大きく肩を震わせたきり、「私もそう思うわ」と小さく呟いた。
「ねえ、…トキは、トキはどうなるの…?あんな怪我、やっぱり私一人で逃げてくるべきじゃなかったのよ…っ」
 ナズナの問いに沈痛な面持ちでゼンは俯くしかなかった。
「トキは、ルミーユに連れて行かれたか、…もしかしたら――」
「ゼン――」
「……」
「私は、そんなもしかしたらは、嫌よ…」
 自らが言ったことではあったが、あまりに悔しい事実だった。襲撃したのがルミーユであるならば、先ほどの手口からしてみても生きている確率は少ない。しかし敢えてそれを口に出すことは躊躇われた。ナズナが制止しなければ、その言葉を口にしていただろうか。今となっては想像もつかないことだが、意味が脳内に浸透した時には、その考えの恐ろしさに寒気が襲った。
 俯いたまま、何も言うことが出来ずにいる。こうして時間を浪費している間に、全てが最悪の結果に転がりだしていることには気付いてはいた。だが焦燥ばかりが勝って整理がつかない。外界の喧騒や光が遠いもののように思える。
「探しに行かないと」
 その時だった。
 凜と響いた声に、呆然と立ち尽くしていたゼンの身体が震えた。




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あきゅろす。
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