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Marijuana




 男たちから逃げる途中に入り込んだ『アイ・エフ』で、さらにゼンは驚くべき事実を突き付けられる。
「この名義が使えないって、どう言うことだ…!?」
 机を叩き付ける音と怒鳴り声が、静かなフロント内を駆けた。突然のことに周りにいた人間たちがざわつくが、ゼンは気にも止めなかった。ただ、目の前にいる呆気にとられた表情の女を睨み付け、唇を噛む。
 ゼンの憤りの原因は、店の実質である裏のパソコンルームを使用するに必要な『資格者』の名義が使えないらしい、ということだった。
 『資格者』とは、情報屋やハッカーなど、それ自体の行為は不正であるが政府に認められたある一部の人間だけに与えられた総称である。いわゆる『有害』的、『個人』的にではなく、あくまでも『社会』的に貢献する様な人間たちが集められている集団のことだ。
 しかし、認められるには何か月、長いと十年とかかる人間もいるとトキから聞いていた。あらゆる情報網を把握し、浮かず、溺れず、正体をつかまれず、正しく行動しなければならない。トキですら資格を得るのに数年かかったと言っていたので、何年もの間何もすることなくフラフラと彷徨していたゼンには到底無理だと断念せざるを得なかった。そのために、一番手っ取り早く出来る方法――トキに成り済ます手段を使っていたのだが、つい数時間前に使えていたものが使えなくなっているのだ。
 トキの名義を一時的に借りることでこの『アイ・エフ』を利用していたのだが、使えないとなった今、ゼンに情報を得る手立てがなくなってしまう。せっかく思い付いた考えも、全てが水の泡になるのだ。
「どうして使えない」
 腹の底から唸る様に出した声に、女は本来の業務を思い出したのか、戸惑いの表情から一転する。冷静な言葉で、応答した。
「ご本人様から停止宣言をされていますが?」
「何…?」
「ですから、お客様ご本人から、『使わない』と通知がきているのです」
「…」
「お客様?」
「何時頃に」
「二時間程前ですが。…失礼ですがお客様、身分証明書か何かは――」
「いや、分かった。忘れてた。悪かった…」
 そう言いながらフラフラと力無く立ち去るゼンに、訝しげに小首を傾げたフロントの女は目に入らなかった。
 フロントの脇を擦り抜け、トイレに入る。個室に落ち着いて壁に額を付けた瞬間、ガンッ――と、壁が鈍い音を立てた。ゼンの握り固めた拳が、タイル状のそこをズルリと滑る。
「…後、少しなのにっ…」
 絶望の縁に追いやられた気分だった。
 たった二時間。空腹を満たすためにくつろいでいた無駄な時間を、労働に回せば良かったと思った。それから早くに図書館へ行き、可能性を迅速に導き出していれば。
 噛み締められた口元からは、苦しげな声が漏れる。
 多大な勢力の前に、逃げることしか出来ない自分に嫌気がさす。
「逃げる、ことしか…」
 憎々しげに言った後、ゼンの刺す様な目付きが壁の一点を睨み付けた。穴が開くほど壁を見つめ、歯ぎしりをする。
「……ファナ、…すまない」
 小さく呟いたゼンの声は、暗く低く響いた。


 家に帰ってきたゼンはブーツのまま中へ入った。汚れた靴底を拭うこともなく、平気で床を汚していく。
「ファナ。出る支度をしろ」
 帰宅の挨拶をするでもなく単調な口調でそう告げたゼンは、きょとんとして振り返るファナの隣りを無表情で通り過ぎた。そして荷物を手提げに詰め始めたゼンに、ファナは一瞬で不安げな表情になる。
「何か、あったの…?」
 そう尋ねるファナに、ゼンは言った。
「帰り道、ずっとつけられてたんだ。俺たちの隠れてる場所が分かれば、仲間を呼んで奴等は強行してくるだろう」
「そんなっ…」
「だから、わざとついて来させた」
「っ!…どうして…」
「決着をつけるためだ」
「え、…」
 ファナの怪訝そうな瞳にも淡々と回答したゼンはその時、外で複数の足音を聞いた。そして、妙な風切り音と。
「伏せろっ!!」
「きゃ―――!」
 さっと身を翻しファナに覆い被さったその瞬間、窓の外で何かが炸裂した。ガラスが激しい音を立てて割れるが、爆音にのまれてかき消されてしまうほどだ。全身を襲う衝撃に、ファナは腕の中で苦鳴を上げた。しかし、それはゼンの耳には届かない。
 あまりの爆音に、一瞬、二人を静寂とはまた違った音の無い世界が包み込んだ。まるで水の中に入った様な感覚に、しかし身体を揺さぶる激しい痛みにくらくらと目眩がする。
「そ、こに、いろ…っ」
「っ、…ゼ、ン!?」
 しかし、頭に降り落ちた瓦礫を払う間もなくゼンは走り出した。襲われたのはリビングの裏側からだ。粉々に砕け散った硝子の破片をブーツで踏みつぶし、駆ける。尖った部分が指に刺さり血が流れようとも、そのまま窓を越えた。
「ゼン!」
 窓の外にゼンが消えた直後、続く銃声にファナは息を飲む。激しい罵声に、絶え間なく続く銃声と硝煙の匂い。
 やがて、何秒、何分と固まっていたのだろうか。シンと静まり返った世界は、ファナを独りになったと感じさせるのに十分な静けさだった。
「…ゼ、ン、…ゼンッ…!」
 震える足で窓際まで駆け寄ると、そこには屍体の山が広がっていた。一、二、三、四――到底数え切れない程の人間の数だ。余程彼らは、自分を捉えに――或いは殺しに来たと見えて、背中が粟立つ。しかしそれらは統一された黒のスーツ姿ばかりで、そこにゼンの姿は見受けられなかった。
 安堵の息を吐く暇もなく再び銃声が鳴って、向こうで人影が倒れる。
 角から現われる、一つ、唯一残った影は、ゆらゆらとした足取りで窓際に歩んで来た。薄暗い路地から、やがて夕日に差された場所まで来ると、その影の顔が確認出来る。
「ゼン――!」
 夕焼けに包まれ佇むゼンの頬には一筋の血が流れ、両手や身体にはべったりとついていた。怪我はないかと探るように触れるファナに、ゼンは首を振る。
「大丈夫だ。…全部、返り血だから…」
 しかし、心なしかその声は弱々しかった。
 当たり前だ、と、ファナは一瞬で悔やんだ。人を殺してしまったのだから。
「…ごめん、なさい」
「ファナのせいじゃない」
 それは、いつかの会話の様に。
「お前を守るためなら、俺は人を殺したって悔いはない…」
 あの時ゼンは、人を殺めてでもファナを守る覚悟があると言った。そしてそれにファナは、ゼンを人殺しには出来ないと言った。自らを犠牲にしてでも守ってくれようと言う人間に、保身の言葉を返してしまったのだ。
 ここで責めるような顔をするのは筋違いだ。悲しむ顔も、ゼンはきっと望んでいない。
 涙を拭ったファナは、しっかりとゼンを見据えて頷いた。彼が行動で示したなら、受け入れなければいけない。原因そのものになったのは、自らなのだ。
 見返すその目は、遠い過去に向けられたものなのか。ふわりと場違いな程に柔らかく微笑んだゼンは、ファナの緋の髪を指で梳く。そうして、ふ、と目を瞑り、再び開けた時には既にいつもの厳しい表情に戻っていた。
「行こう」
「…うん」
 荒れ出した空気を肌で感じ、ゼンが先に窓を降りる。その際窓硝子を踏み割って行くことは忘れなかった。そして振り返ってファナに手を伸ばす。その時ファナは少し迷った様に立ち止まったが、すぐに背で聞こえた足音に、ゼンに身をゆだねた。扉が開き、男の怒号が耳に届く。
「走るぞ」
「うんっ…」
 力強く走り出すゼンに手を引かれ、ファナも足を動かす。
 初めて外へ踏み出した時と同じ状況にありながら、違ったことと言えば、独りではないと言うことだった。だがそれだけでも心強かった。
 その途端、
「待てェ!」
「っ!」
 何処に隠れていたのか突如現われた黒いスーツの男が、叫びながらゼンに躍りかかった。手には黒光りするナイフが握られている。精練された無駄の無い動きに、ゼンは弾かれる様に身を引き一瞬で背のサバイバルナイフを引き抜いた。手元でバチンと音が鳴って白刃が月明かりを跳ね返す。帰り際に購入したそれがすでに先程の戦闘で使われたため、光を受ける銀色の刀身は赤く血に濡れて残酷に光っていた。
 耳元で唸った風切り音に、ゼンは身体を地面近くにまで折り曲げた。ぞくりと背中の毛が逆立つ。垣間見えた一瞬の死への恐怖が、ゼンの全神経を闘争へと駆り立てた。サバイバルナイフを逆手に持ち替え、擦り抜けた相手の背後から逆に襲いかかる。そして振り向くその喉元に、容赦なくナイフを突き立てた。力一杯に捩じ込むと、肉を突破る生々しい感触が手を虫の様に這う。しかし、離してしまいそうになった手を、それでもゼンは歯を食いしばって握り込んだ。




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