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Marijuana




   ***

 帰宅したナズナは、肌についた雨粒を払いながら玄関に立った。それでも濡れてしまった長い髪が肌に張り付く不快感に眉を顰めるが、それだけでは解決しないと息を吐く。ポケットから小さなマスコットのついた鍵を出して、流れる様な動作で鍵を回した。所々色のはげたマスコットが、カツンと音を立てる。今となっては呼吸と同じくらい、目を瞑ってでもやれるような慣れた作業だ。
「ただいまー」
 少し控え目に声を出せば、返事はない。しかし玄関に脱ぎ散らかされた服を見つけ、その見慣れた物にトキが家に居ることは一瞬で理解した。手に取ってみるとずっしりと重みが伝わって来て、冷えた感触が肌を這う。ナズナより早く出掛けた彼は、どうやらひどく雨に打たれたらしい。だから早く帰って来たのか、違う理由だとしても、まずいと思った。
「寝てるのかしら…」
 家の中に明かりはなく、シンと静まり返っている様に感じる。トキが疲れきって寝ているのなら良い。ナズナの不在に気付かず、ソファに寝転がっていれば何もかもが波風立たずにすむ。
 だが、忍び足で奥へ進むと、静かな廊下の向こうから小さく声が漏れて聞こえてきた。テレビの点けっ放しでなければ起きているだろう。そう思ってナズナは、半ば緊張しながらドアノブを握った。
 そして、開けた視界を覆う仕切りのさらに向こうに、トキの姿を見つけた。と言っても壁に隠れ後頭部しか見えず、暗さも相俟って全体は確認出来ない。しかしそこには電話が置いてある。きっと、何か話しているのだろう。
「だから、……を、―――で」
 邪魔をしてはいけないと黙ったままでいると、小声で話しているのか途切れてしか聞こえないが、何か緊迫した雰囲気が感じ取れた。暫くして、何か承諾する声。やがて、大きな溜息と共に、回線が終わりを告げる音を受話器が立てた。
 慌てて踵を返したナズナの背に、
「―――ナズナ?」
 そう声がかかる。
 もうごまかしは利かないと、逃げる素振りを――それでも逃げようとしたことをごまかすように――電気のスイッチを点ける動作へと移行した。明るくなった視界の真ん中には、壁の向こうから出て来たトキが、何とも言えない表情で佇んでいた。顔色はひどく青ざめていて、驚きと悲しみがないまぜになったような感じだ。雨のせいで風邪をひいた訳では、きっと、ない。
 ここ数日ですっかりトキの顔付きが変わってしまったのだ。表情どころか態度すらも、前の面影が全くない。それが、ナズナにとって都合の悪いことになっている。
 名前を呼ばれてからの沈黙に、何か話さなければとナズナの視線はトキの向こうに止まる。
「電話、仕事の話?」
「…ああ。そんなもんかな。いたなら声かけてくれれば良かったのに」
「邪魔しちゃいけないかなと思って…」
「そんなことないさ」
 トキがテレビの電源を落とした。また降り積もる沈黙に、外の雨音だけが聞こえてくる。その時、電気を点けてしまったことを後悔した。
 濡れたナズナを見て、トキの表情が固まる。上から下までゆっくりと眺め、壊れた人形のようにぎこちなく首を捻る。
「ナズナ、…濡れてるのか…?」
「あ、うん。少し、外に行って来たから」
「なんで?」
「…買い物に、出かけたのよ」
「それだけ?」
「トキ、…」
 次から次へと質問してくるトキに、ナズナは辟易とした表情で溜息を吐く。それは、一種の哀れみにも似た表情だった。それが明らかに嫌な態度であったのに、トキは大して気にしていないようだった。それよりもナズナの姿の理由が知りたいらしく、じっと目を見据えてくる。
「本当に、それだけか?」
 深く、暗い瞳だった。
「…………」
 ふらりと近寄るトキは、必死とも言える気を纏っている。
 彼は、最近こういったことに異常な程に敏感になった。ナズナが何も言わずにいなくなってしまえば、小一時間と言わず何時間も何度も問いただされる。何処へ、何をしにいったのか、誰にあったのか、事細かく聞いてくるのだ。
 何が彼をそうさせるのか自問自答してみれば易々と答えは出るが、それでも、やはり『異常』だと感じる。
 今の状況も、まさにそれだった。
 おぼつかない足取りで近付くトキに、ナズナは観念した様に軽く息を吐いた。
「買い物に出掛けたのは本当よ。でも行き道で、ゼンを見かけたのよ」
「ゼンに…会った、の?」
「………ええ」
「話したの?」
「…ええ」
「危ないって言ってたのに?」
「ごめんなさい」
「………」
 瞳を伏せたナズナを、トキは無言で見つめた。それはあまりに虚ろで、何かを映しているのかと問われれば万人が首を捻るかの様に。ただ、ナズナの姿を、じっとりと眺めていた。
 重苦しい沈黙に、ナズナは瞼を瞑った。
 しかし、まだ続くと思っていた声が、
「もう…良いよ」
 その言葉でぶつりと切れたのだ。
「え、?」
 きょとんとした顔で視線を上げたナズナに、トキはいつかの笑顔で再び同じ言葉を紡ぐ。
「もう、良いから」
「トキ…?」
 やけに明るく優しく微笑むトキの姿が、ナズナにとって、その時だけは何故か恐ろしいものの様に感じた。

   ***

 空腹も満たし、ゼンは再び家を出た。今度は、雨は上がっていた。
 足を運んだのは公共の大きな図書館だ。データで調べられないのなら、書物で調べてみようと考えたのだ。
 またファナを一人にしてしまうのは気が引けたが、それでもこの絡み合った不愉快な混乱を一刻も早く解いてしまいたかったのだ。
「はぁ…」
 しかし、ゼンにとっての悩みの種はそれだけではなかった。静かな図書館の中、無意識に吐いた溜息はあまりに大きく響いてしまう。それだけで、更に気分が滅入る。
 不意に、以前はよく口に含んでいたあの香りが鼻に届いた。窓が開いていて、どうやらそこかららしい。止めた煙草と同じ香りに、ファナと被せて思い出したのはやはりリリィのことだった。
 あまりにも似た境遇の彼女たち。
 救えなかったあの日。
 どうしても、今度は救ってやりたい。
 幸せにしてやりたい。
 そんな思いが、ただゼンを動かすのだ。
 しかし、現実はそう上手くはいかない。
「どうして載ってないんだ…」
 片隅でくしゃりと髪をかきむしるゼンは、貸し出し禁止と書かれた古ぼけた書物を捲りながらまた大きな溜息を吐いた。なかなか目的の物が見つからない故に徐々に募る焦燥感は精神を摩耗させていく。開いた本は数十にも及んだが、ゼンが探している内容には到底届かない代物ばかりだった。種類は、生態、科学、医学と沢山あるが、その中の何一つにも詳細は書かれてはいない。口頭では言い習わされて来たそれは、あまりに実態が掴めなさ過ぎる。深い溜息が漏れることを止められない。
 まるで蜃気楼の様なものだと感じざるを得ない。
「…しん、き、ろう…?」
 そこまで考えて、ゼンはページを繰る手を止めた。
「まさか、いや、…でも、それなら…」
 ブツブツと呟きながら適当に手にした本を開き、ゼンは思考する。それは生態学の研究書のコピーであったが、何かしら書かれていることはやはり無かったのだ。ただの、一文ですら。
 しかしゼンは、何か閃いた様に音を鳴らして立ち上がる。後ろで倒れかけた椅子を無理矢理に机へ押し込んで、本を側に控えていた――慌ただしい騒音に何事かと駆け付けた係りの者へ返すのもそこそこに駆け出した。
「そうか、そうだったのか…。…ファナがそうでさえあればっ…!」
 急く様に口早に呟けばさらに思考は深くなる。それならば納得出来ると、ゼンは拳を握った。ファナの『刻印』の真実は、きっと―――
「…!」
 と、その時、反射的にゼンの身体が跳ねた。アスファルトを叩いていたブーツの音は一瞬で消え、街道に置いていた身体も物陰に移動する。瞬間――ただ、それだけの短い間であったのに、ゼンの身体中の毛穴からは大量の汗が吹き出ていた。
 自らの足音に紛れていた異物が、僅かな静寂の間に明らかに聞こえたのだから。
「どうしてあいつらがっ…」
 悔しげに呟いたゼンの視線の先にちらと見えたのは、忘れもしない、あの黒いスーツにあわせた黒光りするサングラスが目に付く、ルミーユの男たちだったのだ。どうやらゼンを見失ったらしく、辺りを厳重に警戒して視線を巡らせ、複数ですれ違っては二言三言と話している。
 ゼンは見慣れたビルの合間を抜け、狭い道を通って相手を撹乱した。
 やがて、男たちの姿を見掛けなくなった頃には、空に藍が滲んでいた。




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