[携帯モード] [URL送信]

Marijuana




 ゼンが自宅に着いた頃には、既に空は黒く重厚な雲が覆い尽くしていた。そこから無数に降り続く雨は、容赦なく外界を歩く人間に無慈悲な雫を叩きつける。偶然にもその餌食になったゼンは、ビルに囲まれた狭い路上の隙間に佇む一件の家の前でその足を止めた。
 町外れと言うにはあまりに寂れた人気のない一角だ。浮浪者すら溜まり場にしないほど、生活感の欠片もない。ここで食料を求めても、小さな動物の死骸しか見つからず、飢えて死ぬのが目に見えているからだ。トキやナズナと住んでいた家も外れに位置していたが、これほどまでにはいかなかっただろう。
 家は綺麗に残っているが、人だけがすっかりといなくなっている。十年前となんら代わり映えしない風景。そんな場所に、今ゼンとファナが身を寄せる隠れ家があった。
 中でも、あまり目立たない外見に加え路上の入り組んだ場所にある家だ。そのため余計に、そこは外界から遠ざかるにはうってつけの場所だった。ただ、やはりたどり着くには相当の時間がかかるため、帰る頃にはすっかり濡れてしまったのだ。ぼうっとしていれば、ゼンですら迷子になりかねない。
 後ほんの少しで濡れきってしまいそうな軒下の石畳には、ブーツから流れた雨水が黒い染みを作っている。前髪から垂れ落ちる水も気にせずに、ゼンはドアを開けた。
「ただいま…」
 一歩踏み出すと、靴底が濡れた音を立てる。訪問者のため、或いは侵入者対策のために付けられた鈴が小さく音を鳴らした。
 外から見た通りにあまり広くない室内は、玄関から廊下に続いてリビングとも言えない部屋が奥にある。それまでの脇にある二つの部屋は片方はファナの寝室として使われ、片方はバスルームだ。昔ならばもしや使うとも想像していなかったため、物置と化していたそこは雑然とした場所だった―筈だが、今は何故か綺麗に整頓されている。
 此処に移動して三日と経っていない。そしてつい昨日までには、踏み出した途端に砂埃が舞うのが常だったはずだ。
 その様子に首を傾げた時、
「おかえりなさい」
 そう奥から顔を出した少女――ファナが、未だ玄関口に佇んでいたゼンの姿を目に止めて、急いで駆け寄って来た。
「ゼン!…どうしたの?すごく濡れてる…」
 ファナの温かい手が触れてやっと彼女が近付いていたことに気付いたのか、ゼンの瞳が瞬いた。
「あ、…フードを、忘れてた」
「そんなことっ…。とにかく、上がって」
「…ああ」
 勢いにおされたゼンがコートを脱ぎマットの上に上がって靴の泥を落としている間、ファナはバスルームからタオルを取って来た。上出来とは言いがたいもののきちんと洗われているらしいそれを頭に被せられ、自分よりも遥か身長の低いファナに合わせて自然と前屈みになる。他人に頭を拭いてもらうなど経験したことが無かったために、少し照れ臭くなったゼンは急いで身を引くが、
「自分で、…」
「良いからっ」
「………」
 そうファナに押されて、されるがままになってしまう。目の前で揺れる濡れた黒髪が目に刺さるのを防ぐため、瞼を閉じた。
 二人で暮らし始めてから、彼女は少し押しが強くなった気がする。元よりあまり物に頓着しないゼンの性格が後押ししたのか、出会ったばかりの頃に警戒していただけなのか。それは今となっては定かではないが、彼女はよく自分の意見を言う様になった。口調も程よく砕け、距離も縮まった気がする。
 それは確かにプラスではあるが、ゼンは一つ、気になって仕方が無いことがあった。
「ありがとう。もう、自分で出来るから」
「………うん」
 タオルの上からくしゃくしゃと髪を撫でるファナの手を押さえて再び言うと、彼女はシュンとした表情で俯いてしまう。まるで叱られた子どもの様な反応に、ゼンは急いで付け足した。
「温かい飲み物でも飲みたいな」
「!ココアがあったわ。ゼン、甘い物は好き?」
「…あまり」
「えっと、それなら…どうしよう」
「戸棚にコーヒーがあったはずだ」
「なら、コーヒーを入れてくる」
「あ、高い位置にあるから、って……」
 ゼンの言葉を最後まで聞かずに走っていったファナの足音だけが、フローリングの廊下に木霊した。
「………」
 ファナは、確かに明るくなった。しかしそう思うと同時に、ゼンに対して献身的すぎるその対応に時折、ゼンも共に出て来たことを彼女自身が後悔しているのではないかと、そんな風に感じるのだ。
 カミユとの一件以来、そんな考えが拭えない。言わなくて言いことを言った気もするし、短い戦闘の最後には記憶すら飛んでしまったのだ。あの後ファナがどうやってカミユの手から逃れたのかが不思議でならない。そして、それっきり現れなくなったカミユも。
「……はあ…」
 奥には聞こえないくらいの小さな溜息を吐いて、ブーツを脱ぐ。泥まみれの靴底で、せっかく綺麗にされたフローリングを踏む気にはなれなかったからだ。この現象の理由に、だいたいの予想は付く。玄関の戸棚の横からスリッパを取り出し、それを履いて掛けてあったコートをバスルームに放り込んだ。タオルを新しい物に変えて奥まで行けば、忙しなく動き回るファナの姿が一望出来た。
 人間だけがすっかりといなくなってしまった。そう思うのは、このせいもあった。一般的に家庭で良く使われるであろう道具が一式、中に残っているのだ。理由は知らないが、衣食住に困ることがないことは何よりもの利点だったので気にしないことにした。
 明らかに、空き家を転々としていた頃よりずっと豊かな暮らしぶりになっていた。ここだけまるで結界のような見えない壁が立てられているのではないかと、そんな考えすら浮かんでしまう。だがそれは有り得ないことで、しかし有り得ない存在が目の前にあることを思い出す。何も、理屈で説明の付かないことがある。理屈が見えてしまえばそれはただの詐欺だ。
 鍋の水がふつふつと泡を出し始めたのを見て、火を止めたファナは慣れた手つきでメーカーに湯を注ぐ。その間一滴も零すことはなく、はらはらと見守っていたゼンは安堵の息を無意識の内に吐いていた。そうやって下にこされて出てきた黒い液体は、芳醇で苦味のある香りを鼻に届けた。
「はい」
「ありがとう」
 それを更にカップへ移したものを受け取り、ゼンは二つあるソファの一つへ腰掛ける。その間にも、ファナは片付けを始めていた。
「お前は飲まないのか?」
「私は、コーヒーは…」
「ならココアを飲めば良い。今日は冷えるから」
「じゃあ…」
「良い。俺がやる」
「あ、…ええ」
 ソファの脇にあるテーブルにコーヒーを置いて、ゼンは鍋に水を注いだ。それから火を点けようとするが、なかなか点かない。何度か苦戦している内に、後ろで苦笑をかみ殺したファナに、そっと手伝ってもらってやっと点いたのだった。
 随分、手慣れたものだと思った。出会った当初など、監禁されていたせいで料理の作り方などまったく知らなかったと言うのに。
 ファナが美味しそうにココアに口をつけるのを見てから、ゼンは再びソファに腰をおろす。そしてコーヒーに口を付けると、身体の芯からドッと疲れが押し寄せてくるように溢れ出た。ソファに身体が沈み、視線はぼんやりと天井を漂う。
「ファナ」
 ゼンは息を吐くと同時に、その名を呼んだ。
「お前は、淋しくないか?」
 そうして続く沈黙の後に、控え目な声が返ってきた。
「ゼンは、淋しいの?」
「………分からない」
 閉じかけた瞼をうっすらと開けて返せば、ファナの哀しげな表情が目に入る。
「…私は、大丈夫」
 そう、彼女は答えた。
 家を出てからある程度が経って。何かが解決する事もなく時間だけが過ぎている。平和と言えばそれで終わりだったが、次第に気分が落ち込んで行くファナの姿はありありと解った。
「ごめんな」
「ゼンのせいじゃないよ」
 しかし、そうやって口では大丈夫だと言い表情は笑顔を作るが、嘘なのはすぐに解ってしまう。
「ゼン、ご飯にする?」
「…ああ」
「今日はね、お掃除しててレシピの本を見つけたから、それに載ってたのを試してみるね」
「そうか。楽しみにしてる」
「うん」
 にっこりと笑みを作ったファナに応えたゼンは、しかしぼんやりと違うことを考えていた。
 やはり、整頓された室内はファナの仕業だったのかと納得する。きっと、何かしていないと落ち着かないのだろう。何かに傾倒しなければ、先も知れない不安に飲まれてしまう程に。
 エプロンを身に着け支度をしだしたファナの小さな身体を、その時だけは視界から追いやる様にゼンは目を閉じた。




[*前へ][次へ#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!