Marijuana 2 カタカタと、耳に不馴れな音だけがこの空間の全てだった。普段扱いもしなかったパソコンのキーボードを、ここ最近で数段上がったタイピングの速さで押し付ける。電気も点けないこの暗さで急激に悪くなる視力も、拘泥するには至らない問題だった。唯唯、目の前に繰り出される多大な文字と情報を取り入れるために視線を動かした。 「…、違う………これも、…、これもだ…。どうして……、……」 ブツブツと呟く声に誰かが応えを返すことは無かったが、自らの思考をまとめるために小さく声を発する。そしてあるページを開いた時、カチリと何かが鳴った。 ピ、ピ、ピ。 続いて小さな機械音が耳に届く。 退室の合図だった。 鳴っているのは横に設置された壁掛け型の電話機だ。それに手をかざし、応答する。 「はい」 電話に出る時には決まりになった愛想の無い声に、雑音の中から声が返ってきた。女の声だった。あちらも良く分かり切っているようで、事務的な口調だ。 『お時間になりました。延長されますか?』 「いや、出る」 『それでは、フロントでお待ちしております』 ブツリ。 雑音が消えた。 耳に当てる訳でも受話器を取る訳でも無い現代の技術は進歩したと思う。だが、雑音が混じってしまうのはどうにかしてもらいたい。 「ふう…」 疲れ切った目頭を揉んで、痺れた足を伸ばす。パキリと、小気味良い音が鼓膜を叩いた。 店を出れば、すぐに道は大通りだった。時間は昼過ぎだろうか。長く続く灰色の空は、今にも雨粒を落としそうな程渦巻いて太陽を隠してしまっている。ジットリと肌に纏わりつく湿った嫌な空気に、自然と外出の足は減っているのだろう。大通りであるのに、時間の割りにはあまり人影が無かった。 振り返れば、『アイ・エフ』と、カモフラージュに使われた看板が大きく掲げられている。一見すれば小洒落た入り口に店内の雰囲気はカフェテリアのそれだ。しかし奥に進めば、裏社会と通ずる情報を媒介するコンピュータが幾台も置かれた暗室が続く、情報屋という名が実態なの組織。トキから預かっていたカードを役立てる時が来るとは思ってもみなかった。 トキの認証コードを借りて調べものをする。それが、最近の日課の様なものになっていた。カミユと対峙して以来、自らに情報が無さ過ぎると悟ったのだ。殺し屋でさえ情報を駆使しているのに、何も知らない素人が勝てるわけがない。 まず調べたものは、ファナの首筋にある『烙印』についてだった。しかし、何日通い詰め何時間とあらゆる場所を調べても、ただの文献資料しか出てこない。いわゆる、煙の様な、おとぎ話の様な、伝説の様な話なのだ。決定的な事例は数少ない。書かれていることは同じなのだが、表記の何もかもがぼかされている。 今日も朝から詰めてはいたが、腹が空腹を訴えた今となっても、決定的な資料は見つけ出せないでいた。 ゼンが知っていた話、資料に残る話――全てを取ってみても辻褄が合わない。現に、ゼンは生きているのだ。 「…」 店から出たばかりのゼンは、丸一日あの個室に入っていた様に感じ、曇り空ですら眩しく感じ目を細めた。そして、光から逃げる様に茶色いロングコートのフードを目深まで被る。これは、ファナといる時は勿論、一人で行動する時には原則としている格好だった。顔を晒したままの方が見つかる確率が低いと考えた結果だった。故に、浮浪者がよく纏う薄汚れたコートに身を包んだのだ。 ポケットに手を入れ、ゼンは歩き出す。いつしかナズナに注意されていた煙草は、今は形も無かった。ライターは念の為に残してあるが、落ち着きなく開閉することもなくなっている。 「………」 慣れてしまったことは、その一つではないかも知れないが。 ゼンは、自然な動きで大通りから路地裏に滑り込む。そのずっと先に、ゼンが昔作った隠れ家があるからだ。誰にも、トキやナズナにさえも教えなかった秘密の場所。まさかそれが役に立つ日が来るとは思っても見なかったと、ある意味苦笑するしかない。自らでも、つい数日前まですっかり忘れていた程だった。ただ、忘れたかっただけなのかも知れないが。 しかし、ゼンの足は一旦帰路に入ったにも関わらず、そこから逸れた。一つ、蜘蛛の糸の様な分かれ道を曲がり、また曲がる。やがてたどり着いた吹き抜けの場所で、ゼンは声を発した。 「誰だ」 凛々しい声が、大きく出した訳でもないのに明瞭に響く。 「そこにいるのは誰だ」 しかし、応答は無い。 それは確信のない相手に向けられたものではなく、ずっと背後を付けていた人間に向けた声だったのだ。一つも動かずじっとしていれば、空を横切る鳥の羽音と鳴き声しかしない。 焦れたゼンは、コートの中に手を入れる。 「出て来い。さもないと…」 そして背に隠し持っていたナイフを引き抜きかけた時、カツン、とヒールがアスファルトを叩く音が鳴った。 「ま、待って!私よ、ゼン…」 「…っ!ナズナ!?」 途切れた視界から出てきたのは、ナズナだった。今は長い髪を上で纏めてあり、動きやすい服装に身を包んでいる。ゼンの鋭い目付きに睨み付けられても、嬉しそうに彼女はゆっくりと近付いてきた。 「やっと、会えた…」 「…、……」 しかしあまりに予想しなかった人間が目の前に現れて、ゼンは戸惑いを隠せない。フードを外し数度口を開閉させると、掠れる声で小さく問うた。 「どうして、後なんかを」 「さっき大通りを歩いていたら、見掛けて…」 「俺たちには、もう関わるなって、――」 「ごめんなさい、ゼン。…でも、私、心配で…」 「………」 問い詰めれば俯くナズナに、ゼンは口を閉じた。昔から知っている彼女の性格を考えれば、想定出来ない範囲ではない。自らの危険をかえりみずに、大切な相手を助けようとする。しかしそこしか知らないと、彼女たちの位置に違い場所へ何日も出掛けてしまったのは大きな失敗だった。 だが悔やむと同時に、長い間経った今も変わっていないそのことに、ゼンは小さく口端を上げた。笑うという行為にも等しく、しかし笑うと定義してしまうのならば、それはあまりに寂しげなものだったが。 「俺たちは大丈夫だ」 「…、そう」 ゼンの言葉に、ナズナはただ頷いた。彼女の顔にも、ゼンと同じような表情が浮かんでいた。 そうして、二人の間に沈黙が降り積もる。しかしそれは気まずいものではなく、ただ、何かを惜しむ様な沈黙だったのだ。久しく会っていなかった友人に、まるで永遠の別れを告げる様な。 「ゼン…」 「何だ?」 ナズナの小さな声に、ゼンは優しく応える。ナズナの瞳は地面をさまよっていた。行き着く場所もなく、不安げに揺れている。 「ファナちゃんに…ごめんなさい、って…」 「アイツはもう、気にしてない」 「…優しいものね。会う勇気が無いのは、私の方…」 「………」 俯いたナズナが次に顔を上げた時には、既に笑顔に変わっていた。これも、昔から変わらない癖だと、場違いにも考えた。誰にでも、直せと言われても直らない習慣はあるものだ。 「帰る、ね」 「…そうか」 「うん、…じゃあ…」 踵を返したナズナの金色の髪が閃いた時、ゼンはいたたまれなくなってその名を呼んだ。 「ぁ、ナ、…ナズナ…」 「何?」 しかし、何故呼び止めたのか分からずに、一度閉口した後、小さく声にする。 「…煙草、…やめたんだ」 その時のゼンは、あまりに情けない表情で笑っていた。そんな彼の表情を見て、ナズナは困った様に笑みを作る。形の良い唇を開いて、頷いた。 「そう。良かった」 「………」 「…じゃあ、………さよなら、ゼン」 「………、ああ」 カツン、カツンとヒールが叩くアスファルトの音は、静かな空間に空しく響く。彼女の姿が消えるまで、どれほど引き止めるために言葉を紡ごうかと迷ったことか。ナズナの姿が消えるまで、ヒールの音が消えるまで、ゼンは少しも動けなかった。 やがて、ぽつりと雨が頬を叩き、目が覚めたように指先が揺れる。 「………………、はっ…」 痛いくらいに締め付けられた自らの胸を嘲笑うかの様に声を出せば、それは震えていた。 「慣れて…無かった」 ずっと、独りだと思っていたのに。大切なものは無くしてから気付くと、人はよく言ったものだと思った。離れてしまってから、どうしようもなくあの空間が恋しくて仕様がないのだ。 情けなくも歪んでしまう顔に、きつく瞼を瞑る。震える手を、握り込む。 息をつけば、降り出した雨とは対照的に、それはとても熱かった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |