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Marijuana




『夢であれば良いと願いさえした。それが現実だとして幸福な者など誰一人いなかったのだから』

 誰も彼もが黙秘を貫き通し、口を噤むことが美徳とされるこの世界で。これ以上の真実を望むことはただの笑い種でしかない。
 俯き口を噛みしめるように見せかけて、絶え間なくお喋りを続ける考えなしをあざ笑うために唇を歪める。
 それこそが必死な沈黙を求める行為であり、歪みきった会話だと知ることもなしに。
 世界は虚偽に満ちている。

   ***

 それは、伝説やおとぎ話では収まらなかった話なのかも知れない。いつから生まれたのか分からない伝承は、それでも人間の心に巣くって平穏を脅かす。事実それを見た者が例え少人数だとしても、見もしない人間ですらまるで見たように、まことしやかにうそぶいてみせる。
 どれだけの人間が、それを尾鰭の付いていない事実だと思い込むだろうか。どれだけの人間が、それをただの虚言だと見破れるだろうか。何も知らない人間に、見もしなかった人間の嘘を見抜く力はないのだから。
 自らの身体に証を受けた彼女ですら、疑ったのだ。全て嘘、幻であれば良いと。周囲の意識が存在すれば良いと思う反面、実在する彼女はその実態が虚像であれば良いと願う。人の願って止まない伝説を、自ら望んで手放してやろうと叫びたかった。
 首筋に意図せず与えられた真っ赤な痣は、人の好奇な目だけでなく死までをも寄せ集める。それが伝説の内容であり、彼女に降りかかった不幸だ。
 彼女に関わった人間は必ず死ぬ。
 人間のなし得る技を遥かに超越した計り知れない作用の原因を、誰も知りはしない。だからこそ、それが輝くダイヤモンドの大きな欠片のように――或いはそれ以上に、求められてやまない。謎が深まれば深まるほど、人々の目には奇跡としてとらえられていった。
 しかし求める人間は肝心のことを忘れている。彼女に関わった者は例外なく死んでいると言うことだ。事故にしろ、病気にしろ、命を落とす間隔は長くない。
 それは実際にあり得たのだと言う。
 いくら証が虚言であると誰かが言い張ろうとも、死に逝く者はいくらでもいた。冗談だろうと鼻で笑い飛ばしてみる者がいても、次にはその嘲りが凍りつくことになった。
 誰もが、事実、目の前に死を見ると、それを口々に畏怖する。
 まさに麻薬の様だと。
 伝染し、いつの間にか死が蔓延している。
 そして、彼女は泣く。
 毎日の様にその生を怨んだ。目を覆いたくなるようなことがいくら周囲で起ころうとも、全てを夢だと思おうとした。思い込もうとした。自らに触れる手は、向けられる熱い好奇に満ちた目とは違い、ひどく冷たいものだったのだから。
 死にたくなることもあった。何故、他にばかり死者が出るのか。証に一番近しい当人がまず初めに死ぬべきではなかったのか。しかし、自ら命を絶つ勇気もなければ理由も見つからない。自分がこんな目にあっている理由を考えずにはいられなかった。
 どうしてか、ぷつりと切れた過去は忘れてしまっていたけれど。牢獄の中で目を覚ました日には愕然とするしか無かった。冷たくて無機質な床が肌に触れる。死を畏れてか周りには誰もいないのに、彼女を逃すことだけはしないように格子で遮ってあるのだ。初めの日は訳が分からずに涙を流し、次の日には焦燥に駆られ、また次の日には発狂していた。薄暗い空間は、そこまで至るのに十分なのだ。
 いくら待てどもこの牢獄に慣れることはなかった。
 まず何よりも、他者の目が嫌だった。新しい主人はまるで彼女を物のように扱う。それでいて冷たい瞳の奥では異種の感情が隠れているように見えた。見られる度にぞわぞわと肌を這う怖気が、慣れると言う行為を彼女の身体から遠ざけていく。
 そして一定の期間で顔ぶれの変わる世話係だ。大抵が恐れを含んだ眼差しで彼女を見た。ほとんどが三日に一回――それより酷い時は五日に一回くらいの間隔でしか世話をしにこない。それが主人の言いつけなのか、世話係の怠惰なのかは知る術もなかったが。
 飢えは毎日押し寄せた。何に対しての飢えかは想像もつかない程多すぎる。今まで普通にあったはずのものが突然なくなってしまった感覚に、言葉に出来ない不安が溢れた。唯一覚えているような誰かの声に、じっと耳を貸すことしか出来ない。壁の高くに位置する小さな窓の向こうに見える空だけが、何の感情もなしに触れてくることに小さな安堵を覚える。
 何かを欲して、はじめの頃は騒ぎもした。しかし解放されることはなく、逆に体罰を与えられる。そして身体に触れる冷たく堅い床だけが馴染んできた頃、それが、度々主人が口にするその首の『烙印』の償いだと考える様になった。今まで散々に受けてきた仕打ちに洗脳されたのか、些細なことでも、自らの持つ『烙印』が原因なのだと思う様になった。
 やがて少女は静かになった。
 床に伏せることが多くなり、しかし時には反抗し、殴られ、静かに涙を流す。開いた瞳孔に暗闇を写し、不安定に揺れる眼に生気はなかった。世話係が腕を取るのにも大人しく従い、牢獄の隅にまるで人形のように座っていた。
 しかし。
 ある日、世話係がいつになく若い女になった。彼女よりずっと若い、年端もいかない少女だった。甘ったるさを含んだ少女の声は、暗がりの中でも光る少女の瞳は、彼女を拒絶していなかった。かといって変な好奇心を抱いている訳ではなく、ただ、新しく触れる人間に対しての興味のようなものだった。
 少女は毎日来た。光の中から現れ、光の世界の話を、こちらから聞くこともないのに話した。それに対して彼女がどんな気持ちを抱くかは、少女には思いつきもしなかったのだろう。少女は、ずっと笑顔だった。
 少女が世話係になって七日が経った頃――時間は夕方だった。少女が話を終えて去ってから、ぼんやりと松明の灯りを見つめていた時だった。不意に炎が揺れた。冷たい風が頬を撫でる。
 牢獄への扉が開いたままだった。
 相変わらず格子には鍵がかかっているが、柵に捕まって光の漏れる方向を眺める。キィ、と小さな音がした。格子の出口が開いている。まさかと思って駆け寄ってみると、扉が開いた。そこで、少女が慌てて出て行ったのを思い出した。錠を合わせ忘れたらしい。
 この七日間、嫌と言うほど食事を取った身体には、筋力はなくとも活力は溢れていた。格子に手をかけ、大きく開く。いつもは他人が降りてくるばかりだった階段を、扉に向かって歩いた。
 扉に触れる。見かけは重たそうな扉だったが、とんと押すだけで開いた。音を立てて、光が舞い込んだ。それはとても遠慮がちな音で、何かに見つかることに怯える様にゆっくりと扉が開く。始めは薄く細かった線が、次第に濃く太くなっていく。ぱっくりと開いた口は、何度開閉しても言葉を忘れてしまった様に、喘ぎに似た声しか漏れ無かった。それで良かったのだ。
 暫く光を感じていなかった網膜が刺激され、悲鳴をあげたが、それ以上に少女の心には今まで感じたことのない大きな希望が溢れていた。光に紛れた見えない手に導かれるかの様に、朦朧とした意識が覚醒しふらついていた四肢がしっかりとする。
 彼女に光を差してくれた少女がどうなったのか、彼女は知らない。ただ拓けた世界に向けて、背後で聞こえた罵声と悲鳴と銃声に耳を塞いで走り抜けたのだ。走ることを長い間していなかったため、足が重い。呼吸の仕方も分からない。そのせいで暫くして肺が痛み出したが、気にせず走った。
 不意に視界を人影が過ぎる。牢獄の管理を任せられていた男だった。男が驚いた表情で少女を見つめる。始めは理解出来ていない風だったが、直進してくる少女の姿がはっきりするにつれて、何を危惧してか顔は蒼白に変わっていった。男が口を開く。その口はきっと、誰かを呼ぼうとしていたのだろう。しかし、喉が声を絞り出す前に、その顔を力の限り殴り付けた。壁に頭を打ち付ける鈍い音が聞こえて、呆気なくも倒れた男はそれからピクリとも動かなくなる。
 そうしてまた、少女は走り出した。
 あの男が、死んだか気絶しただけかは、確かめなかったので分からない。ただ、とにかく走り続けたのだ。
 やがてさらに強い光が差し込んでいる扉を見つける。鍵などかかっていなかったというのに、少女は体当たりでもするかの勢いで扉にぶつかった。
 そうして目の前に広がる光景に、無意識の内に少女は息を漏らす。
 ドキドキと脈打つ心臓の音が、耳鳴りを起こした。

 ああ、神様。
 いもしない神様。
 私はそんなアナタに赦しを乞います。
 まだ死にたくなかったの。




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