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Marijuana




 手提げの中からそれを探し出すのは簡単だった。一番最後に手提げの中に入れたはずのそれは、記憶に違うことない正確さで触れることが出来る。硬く冷たい感触が、指先には焼けるほど熱く伝わってきた。
「ゼン…!」
 それを取り出すと、横で驚きの声が上がる。
 使うことなどない、使う瞬間など来なければ良いと思いつつも入れてきたかいがあったと、不意にそんなことを思った。
 鞘に包まれたナイフは危なげに震え早くも白刃をちらつかせている。まさかとでも言いたげなファナの瞳が、咎めるようにゼンを捉えた。だがそれにゼンが気付くことはない。刃の輝きに魅入られたのか、じっと、手もとばかりを見ている。そしてゆっくりとした動作で緩んでいた紐を解き、刃を外気に晒す。手から離れた鞘は、数瞬後に地面とぶつかり乾いた音を立てて転がった。
 短い先端が、目の前に立ちはだかる男の胸に向く。その状況下にありながら、カミユの表情は、笑顔そのものだった。
「それが、アンタの覚悟?」
 歪んだ口元からは嘲るような声が漏れる。
 銃に対抗するのにナイフを使おうとする無謀な行為を笑ったのだろうか。
 それとも、逃げることを諦めて自ら死に向かうゼンが滑稽に移ったのだろうか。
 ゼンには、このまま大人しく殺されてやるつもりは毛頭ない。だが一方で、こちらが切りかかるよりも先に彼の銃口が火を吹く方が早いことは目に見えていた。そして、もしゼンが同じ武器を持っていたとしても適わないだろうことも。こちらが少しでも反抗の素振りを見せれば――例えば、少し視線を動かすだけでも、カミユは気付き、躊躇うことなく行動に起こす。それがプロであり、凡人との違いだ。気付くか気付かないかで全ては決まる。それまでは騙し合いだ。素直な人間と鈍感な人間は、生き残るなど不可能なのだ。
 殺すことに躊躇いを覚える人間に、この界隈で生きる力は備わらない。
 しかし、それでも良い、その方がいいと考える人間の方が多いだろう。自分の手を赤の他人の血に染めてまで生きるよりは死んでしまった方がいいと。清いまま死にたいと願う人間は少なくない。
 街道に、ネオンにまみれた陽の当たる場所に生きる人間がそうだ。無駄な争いは好まない。騙し合いと言う本質は逃さないものの、誰の血にも濡れることはないのだから。
 しかし、ゼンは幼い頃にもこれに似た状況に身を置いていた。幼ければ身体も小さく力も弱い。成人をとうに迎えた今となってはそんな心配はいらない。立ち向かう力は十分にある。逃げ惑うだけの過去から決別できるのだ。相手を酷い目に合わせたとしても生き残ってやると言う強い執念は大分と昔から持ち合わせていた。麻痺とも言えるかも知れないが、他人を殺してでも生きることが、それほど悪いことのようには思えなかった。殺意を向けてくる人間ならなおのことだ。植物や動物すら殺して生きる人間が、今更奇麗事など言っても偽善なのだから。
「絶対に生きてやる」
 カミユにも、傍にいたファナにすらも聞こえないほど小さく呟き、ゼンはナイフの柄を握る手に力を込める。
 失うことを恐れるばかりの、失って悲しみに暮れるばかりの生活には戻りたくなかった。
 特に、目の前で血に飢えた獣のように目を光らせる男に怯えるなど。
「……」
 佇むゼンの気迫に、一度口笛を吹いたカミユは引き金に伸びかけていた指を止めた。グリップに付いていた紐を掴み、銃本体をぶらりと空中に投げだす。
「アンタの心意気に免じて、俺もナイフで応戦してやろうか?」
 からかいの含まれた言葉を、ゼンは凛とした声で跳ね返す。
「余計な気は回さなくて良い」
「意地を張るなよ。早死にするぞ?」
「見栄を張るなよ。死ぬかも知れないぞ」
「すごい自信だな。意地を張り通さなきゃやってられないか」
「どうだって言えば良い」
 敵うはずのないことは冷静すぎる頭ですでに理解している。だが敢えて自信に満ちた言葉で敵本人からその真実を突き付けられると、もうどうしようもない気になってしまう。
 意地。
 確かにそうかも知れない。
 適わない相手にただ躍起になって噛みつこうとしているだけなのだろう。現にカミユはそう思っているはずだ。
 唇を噛んだゼンが黙っている間に、銃をホルダーに入れたカミユは代わりに脚に縛ってあったベルトからナイフを引き抜く。すらりとした刀身は、ゼンが持っているものより何倍も大きく見えた。
「ゼン…」
 ファナの怯えた声に、ゼンはその身体を後ろに隠すことで応えた。
 大丈夫だと、お前だけは守ってみせると、その思いを込めて押し返す。
 しかしファナはその応えを望んでいた訳ではなかったようで、遠ざかるゼンの手を掴み、振り向いた彼に首を振った。
「ゼン、やめて…」
 呟かれた言葉も、今から起こそうとするゼンの行動を拒絶する。
 その時ゼンは、あまりにも弱弱しい声に、身を案じてだと思ったのだ。
 しかし、
「大丈夫だ。俺は――」
「やめて!!」
 再び歩を進めようとしたゼンに投げかけられた、今度は大きな叫び声に、それは勘違いだったのだと気付かされた。
「ファナ…?」
 振り払おうとした手も、強く握られて動かすことが出来ない。
 今までファナに反論されることのなかったゼンは明らかに戸惑っていた。
 小さな身体を震わせて俯く姿は泣いているようで。
「大丈夫?何処が大丈夫なの?」
 責めるように吐きだされた問いに、根拠のない言葉の弁明は出来なかった。
 泣いてはいない。だが、瞳はうっすらと涙に濡れていた。ただ悲しい訳ではなく、押し寄せる感情の、どうにもならない憤りが溢れかえるのを堪えているようにも見える。
「刃物を振り回すことが、ゼンの覚悟なの?私たちを追う人たちと同じことを、ゼンもするつもりなの?」
「……」
 もしかすれば、ファナは潔く死を選ぶ側の人間なのかもしれない。
 そう思った。そしてそれは間違いでないと確信出来る。
 ナズナに拒絶を受けた時にも、気丈な態度で受け止めた。自らの安全を確保するよりも先に、相手の幸せを優先する。
 ゼンとは真逆の考えだ。しかし馬鹿にすることは出来ない、むしろ、地の底にいる彼にとっては眩しいまでの考えで、ファナを直視することすら彼女を汚してしまいそうな気にすらさせる。
 そう考える思考の根元がすでに違っているのだろうが。
 問に答えることなく黙り込んでしまったゼンの瞳を、ファナが真っ直ぐに見つめ返す。
 黒と交錯したエメラルドグリーンには、悲しみの色が浮かんでいた。むしろ、それしか見ることが出来ない。
 しかし、生き残るための道はこれしかないと思うゼンには、いくら否定されようとも他の考えを導き出すことは出来なかった。絞まる喉を無理矢理にこじ開けて、掠れた声を出す。
「…他人を殺しても、俺が死ぬことになっても、お前を守り抜く覚悟はある」
 頑なに自分の『覚悟』を繰り返すゼンに、ファナは今にも泣きそうに顔を歪め、
「私に覚悟がないのっ…!」
 最後には、大粒の涙が一粒、頬を伝った。
「貴方を人殺しにしてまで、…もし、貴方を失ったとして、そうしてまで強欲にも生きる覚悟が…」
 顎から伝う道を失い、宙に放り出された雫が霧散するのを眺めながら、ゼンはファナの言葉にじっと耳を傾けた。
 誰かに罵られようとも、危険な目に晒されようと、大きな声で自分の腹の内を叫ぶことのなかったファナの言葉に。
「貴方がそこまでする必要はないのっ…」
 それが生きる人間の本来の姿であるのに、静かすぎる彼女に慣れて忘れてしまっていた。抑圧された生活のせいで我儘を言うことを知らなかった彼女を、自分がいなければ何も出来ない人形だと勘違いしてしまっていたのだろう。ゼンが何かを言えば頷き大人しく着いてくるような、何かだと。
 ナイフを握る腕から力が抜け、気がついた時には横に垂れ下がるままになっていた。頭を鈍器で殴られたような感覚がする。揺さぶられた脳は、考えることを拒絶したのか働かない。
 不意に、拍手が聞こえた。
 視線をファナから逸らすと、手を叩くカミユの姿が見えた。
 一瞬後に、その姿が歪む。幾重にも重なった影の様なものが視界に残り、本人を見失う。
 そして、
「本当、赤の他人にどうしてそこまで命をかけられるのかね」
 すぐ傍で聞こえた低い声に、反射的に身体が動く。
「――!!」
 空を切る鋭い音に続き、鉄の擦れ合う音が鼓膜を震わせた。右手に重たい衝撃が伝わり身体が傾く。揺らぐ視界で垣間見たのは、嬉しそうに唇を釣り上げたカミユの姿だった。




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