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Marijuana




 異変を感じたのは、夜が明けて間もなくだった。
 うっすらと開けた瞳には、相変わらずの景色が見えていた。風化によってひび割れたコンクリートの隙間からは錆びた鉄棒が突き出ている。屋根代わりのトタン板の隙間から漏れた雨水は、時間が経つほどに床へ大きなシミを作っている。周囲は肌に感じる違和感を増幅させるばかりだ。
 ゼンはやはり、一晩中起きていた。瞼は閉じれどもなかなか寝付けなかったのだ。だが不思議と疲れはなく、むしろ神経が今までにないくらい研ぎ澄まされている。だからこそ感じ取れたのだろう。ピリピリとした緊張が、痛いくらいに肌を刺す感覚を。
「……」
 敵は近い。
 敵意を持った人間がすぐそばにいる。
 ゼンの横たわる場所から外を覗くことは出来なかったが、感覚的に悟っていた。
 考え無しに動けば、一瞬で首を持って行かれるほどに。
 相手の姿は簡単に予想がついた。複数選択肢があるにも関わらず、容易に答えを導き出せたのには、つい先日のことが鮮明に浮かんでくるからだろう。
 すぐ近くで眠るファナにこの危険を知らせる術がなく、焦燥の中で小さく、寝息に聞こえるように息を吐く。相手に聞こえてしまうような距離ではないと思っていたが、そうしなければすぐにでも行動が起きるのではないかと思えたからだった。
 あの男なら――カミユならやりかねないと思ってしまう。
『あんたたちには一晩猶予をやるよ。その内に考えれば良い』
 彼の言葉を反芻する。早いとは思ったが、確かに夜は明けた。彼に取っては待ち遠しいほどに長く、しかし考える行為においてはこれほど短い時間もないだろうが。
 待ち焦がれた楽しみの行動に対する喜びの感情がありありと伝わってくる。知らずの内に手のひらに汗が滲むほどだ。それでいて、潰れそうな圧迫感を与えながらも、一方では何処か逃げ道を作ってある気がしてならない。昨日の一件から垣間見たカミユの特殊な嗜好が、手に取るようにわかる。
 他人の慌てる姿が何よりも可笑しいのだ。そして、それを見るための下準備ならばいくら苦でも耐えることが出来る。例えば、殺す相手の下につくことなど、意にも介さないのだろう。
 反吐が出そうになるほど、ゼンにはカミユの嗜好が理解出来なかった。しかし、それを楽しみに返られるほどの実力者なのだろうと予想は出来る。餌を目の前にして、狩りを失敗しない自信があるのだ。先日見た身のこなしも裏付けしてくる。
 それならば、ゼンが眠っていない事実にも気づいていてもおかしくない。もしかすると、それすらも彼の楽しみの種の一つにされているのだろうか。
 案の定、愉快そうな声がした。
「寝たふりはそろそろ良いだろう?」
 どきりと心臓が跳ねる。動かなかった身体とは反対に、中身が突然反応したせいで全身に激痛が走ったようだった。
 明らかにカミユの声だ。少し離れた場所から声をかけているらしい。狭い通路に何度かくぐもった音が反響している。
 あまりに自信満々な声音に、ゼンは、眠っている瞬間を覗き見されたことに気づかず、不意に目覚めるた時に相手の去る姿が一瞬だけ見えるのと似た感覚に襲われた。妙な喪失感に、一瞬間、呆然とせざるをえない。
 だがそればかりを気にしていられる訳ではない。
 動けば始まる仕組みなのか。むしろ、動けば終わるに等しいかも知れない。
 身体には力を入れ、いざとなればファナを守る準備だけは整えた。だが身体は起こさない。何よりも警戒心が先に行く。ただのかまかけかも知れないとふんだのだ。だが、カミユの言葉は確信を持って続く。
「隣りでぐっすりお休みの彼女を起こしてあげな。大丈夫、いきなり殺したりなんかしないさ。楽しみがなくなるんだから」
 聞こえもしない笑い声が、耳元で聞こえた気がした。
 与えられた機会に素直に従うのは癪だった。優位な相手からならより一層、屈辱すら感じてしまう。だがここで動かなければ馬鹿にしかなりえないことにも気付いた。
 ゆっくりと、息を吐き出す。
「ファナ…」
 かすれた声で名前を呼ぶ。しかし彼女は深い眠りに落ちているのか、目覚める気配はない。それとも、人一人を起こすことも出来ない程度しか声が出ていなかったのだろうか。
 代わりに手を伸ばすがまるで二人の間に崖でもってあるのかと思うほど遠く感じ、やっと触れたのは指先だけだった。
「ファナ」
 先程よりもずっとましな声が出た。声に気付いてか、指に反応してか、ファナが小さく呻き声を漏らす。まだ眠たげな瞼がエメラルドグリーンを見せたのは、それから間もなくだった。
 どうしたの、ゼン。
 まだ寝ぼけ眼の彼女はそう言いたそうに唇を開閉する。しかしそれが形になる前に、突然すぎる覚醒が訪れた。
「おはよう、気分はどうだ、俺はすごくわくわくしてるんだけどね!」
 怒声にも似た叫び声に続き、立て続けに銃声が鳴った。響く声を銃声がかき消し、その余韻をまた銃声がかき消す。慢性的な騒音に、それが止んだ後でもまだ耳鳴りが止まない程だった。
 明らかに狂気を孕んだ声に、行動に、ぞくりと肌が粟立つ。
 隣にいるファナも、一瞬で事態を理解したようだった。毛布を、手から血の気が引くほど握りしめている。顔も同じように真っ青だ。唐突であり予期されていた悪魔の到来に怯えているような、一人眠りこけてしまったことを叱咤しているような、そんな思い詰めた表情だった。
「ゼンっ…」
 ファナが小さな声でゼンを呼ぶ。
 その時、彼女の中に、自分と似たものを感じた。
 否。
 自分の中に、彼女と似たものがある。
 それは怯え。
 諦めにも似た恐怖だ。
 狩られるのを待つ兎の様に、見つかっていることも知らずに穴蔵で身を潜めているような。潜在的には、既に自分が殺されてしまうことを悟っているような。
 だがゼンには、殺されるのを大人しく待つつもりはなかった。ここは弱肉強食の世界だが、イレギュラーもあり得る世界である。強肉弱食の摂理を作り出すことも可能なはずだった。
 隣で無念そうに眉を顰めているファナの頭を一度だけ撫で、ゼンは無言で手提げの紐を掴み立ち上がる。隣でファナが倣うのに、敢えて静止はいれなかった。
 少しずつ分かりだしたのだ。この威圧感に、緊張に飲まれて。与えられた課題に対して出すべき答えを。
「よお」
 通りのすぐ向こう側にカミユはいた。まだ薄暗い空を背負い、余裕の態度で構えている。顔には不適な笑みを浮かべ、片手には銃をぶら下げている。ゆらゆらと揺れるそれはまるで死神の鎌のように真っ黒で、死の底へ誘うにはあまりに小さく手軽なものだった。彼の手には小さすぎる。
 すでに硝煙は消えてしまった筒身がまだ暖かいのか、カミユがその暖かさを確かめるようにゆっくりと頬ずりする。その姿に嫌悪を感じて、ゼンは視線を逸らした。
 顔色の良くないゼンを見た途端に、カミユは嬉しそうに唇をつり上げた。
「よく眠れたみたいだな」
 悪意の満ちた皮肉に、つられてゼンも唇の端を上げる。開き直り、とでも言うのだろうか。カミユが言葉を吐き出す度に、胸のつっかえが取れていく気がするのだ。
「俺が与えた課題の答えには、ありつけたかな?」
 だからこそ、そう尋ねてきたことに対して、今までと違い余裕を持って答えることが出来た。
「ああ、分かった気がする」
「……」
 ゼンの答えや態度が予想外だったのか、カミユの表情が固まった。慌てふためくとでも思っていたのだろうか。嘲るでも、様子を眺めて楽しむでもなくなる。まるで表情を表しあぐねている様だ。だがそれも一瞬のことで、そんな顔はすぐに笑顔の下に隠れてしまった。
「彼女を守りきる自信があるのか?」
 揺れた銃口が、街灯の明かりを反射する。未だ太陽の満ちていない世界にとって、その輝きはあまりに異様だった。
 こちらを向いた銃口に、ファナが隣で震える。
 手にぶら下げた荷物の重みを確かめながら、ゼンはゆっくりと息を吐いた。
「お前から逃げ切れる自信は、正直、ない」
 カミユの口角が上がる。
「けど」
 そして何か言葉を紡ごうとした唇は、しかし後に続いたゼンの言葉によって遮られた。
「覚悟は…、出来たつもりだ」
「……へえ」
 カミユは鼻を鳴らした。
 ファナが不安げな表情を浮かべ、ゼンに無言で問いかける。
 何の覚悟か、と。
 昨日の話でも思い出しているのだろうか。カミユの脅威以外でも怯えている風に見える。
 だが心配する必要はないと、ゼンはファナへ笑いかけた。笑顔を作れていた自信はなかったが。




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