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Marijuana




 ぴちゃん、ぴちゃん。
 水の跳ねる音がする。
 薄く瞼を開けば眩しい光に網膜を焼かれ、ゼンは小さく呻き声をあげた。今までずっと同じ体勢でいたのか、少し動いただけで背骨が軋む。
 目覚めるほんの少し前まで夢を見ていたはずだった。だが、今はもう覚えていない。曖昧すぎる記憶の残り滓だけが脳裏にちらつく。目覚める瞬間と同じように水音を聞いていたはずだが、その正体も分からなかった。
 寝ぼけた眼にまず写ったのは、すっかり古びた木製の壁だった。雨漏りにでもあったのか所々色の変色したそこにはささくれが目立つ。次に移動した場所には、白とはお世辞にも言えない様なシーツがあった。それにはゼンも今まで世話になっていたため、真新しい皺の跡が伺える。
 寝ぼけた頭はすぐさま環境に順応し、今までの経緯を思い出す。熱のせいで意識がなくなったファナを近くの路地裏まで運び、空き家らしき家で休ませたのだ。そしてゼンは、必死に看病しているうちに眠ってしまっていたようだった。よくも椅子から落ちなかったものだと感心してしまう。
 口端に垂れた涎を袖で拭いながら、ゼンはあるべきぬくもりが冷めていることに気が付いた。そして、膨らみがないことにも。
「ファナ…?」
 何処に居ようとも、どんなに人込みの中に紛れようとも一瞬で見つけ出すことが出来ると確信の持てる、あの緋色の髪が見当たらないのだ。起きたばかりの心地良い感覚を無言で堪能していたゼンも、流石に飛び起きた。覚醒仕切ったなどとそう言う問題ではない。椅子が床とぶつかって立てた激しい音に驚きすらせずに、ゼンは辺りを見回した。狭く、隠れる程の物陰すらない部屋中を見回してもファナの姿は見付からない。ベッドの反対側も覗いてみたが、当たり前にいなかった。
 胸に、懐かしい焦躁が蘇る。握る手には、冷たい汗が滲んできた。
 不意に奥から物音がした。
 何かが落ちる音だ。それに続いて、何かを引きずる音までする。目覚める瞬間、ゼンは確かに水音を聞いていた。
 もしかすればここには家主がいたのかも知れない。
 不意にそんな思考が浮かび上がった。
 しかしそれならば何故、ファナだけいなくなっているのか。彼女の正体を知る者か、或いは女の売り方を知る者か。ゼンだけ残したのは何の考えがあってかは分からなかった。どちらにしろ、この家に他人がいては面倒なことに変わりはない。音を立てる主が同じであれば、そう手間はかからないだろう。だが、複数ならば戦況は変わってしまう。
 移動する足音は一つだった。それはこの部屋へ近付いてくる。
 むしろこの正体がファナであれば何も心配をする必要はないのだ。いくら筋書きを立てたとしても、それが一番有効だった。
 そして扉の開いた向こうに予想した人物が現れ、ゼンは肩の力を抜いた。
「どうしたの、ゼン。もう少し寝てても良かったのに」
 きょとんと首を捻るファナは、首に巻いた布を、濡れた髪に押し付けた。
 しかしよくよく見れば、その肌には布一枚しか纏われていない。ナズナよりも小さな、それでいてしっかりとした膨らみの形が二つ見て取れて、ゼンは急いで視線を逸らす。一方、ファナは気にした風もなくゼンの側を通り過ぎて行った。
「此処、お湯が出るみたいなの。ゼンも後で入ってきたらどう?」
 少しほてった頬は、どうやら風呂上がりらしいことを告げている。それならば彼女の格好にも説明がついた。
「そうか…」
 大きなため息を吐きながら未だ寝ぼけていたらしい頭を振り、ゼンははたと動きを止めた。
「ファナ…?」
「なぁに?」
 しかしそれは敢えて指摘するものなのかと、ゼンは唇を閉じた。言ってしまえば、彼女はまた元に戻してしまうかも知れない。
 一度閉じた唇で弧を描いたゼンは、
「…いや、………何でも、ない」
 そう言って小さく微笑みを返した。
「熱は大丈夫なのか?」
「ええ、もうすっかり。ゼンが看病してくれたお陰ね」
「俺は途中で寝たからな」
「それでも居るのと居ないのじゃ、大違いよ」
「そうか?」
「ええ」
 いつになく会話が弾むのは、口調のせいだろうか。それもまた悪くないと、ゼンは手近にあった布を一枚手にして立ち上がった。
「すぐに出て来るけど、…気を付けろよ」
「はい」
 そうやって頷くファナの表情の中に何か秘め事でもあるのかと思わせる様な哀愁が含まれている。そのことに通り過ぎ際に気付いたゼンは、薄く開いた唇を強く引き結んだ。


「…っ!」
 蛇口を捻れば凍える程冷たい水が肌を刺して、ゼンは一瞬全身の筋肉を強張らせた。反射的に蛇口を絞り、前髪から水が滴る様子をじっと見つめる。今度は、シャワーの出口を身体から逸らせて蛇口を捻る。身体は凍えて震え出したが、暫くすればファナが言った通りに湯が出た。
 一瞬だったかずっとだったか、冷えていた身体が温もっていく。何十日かぶりのしっかりとした風呂場には、目眩すら引き起こす熱さすら感じる様だった。溜まっていた汚れが流され身体が軽くなっていく感覚がする。やはり水溜まりや雨では疲労を養うには足りなかったのだ。
「ふう…」
 頭を洗い終えて満足した息を吐き出したゼンは、身体を洗うために石鹸を手に取った。どうやらこの家は空き家になって久しいらしい。夜逃げか、はたまた短期旅行か。後者ならば鍵をかけ忘れたのが最後だったなと思ったが、そのお陰で今自分たちが安らげていることを考えると、家主の心配をする必要はないのだと思い直した。
 手近にあった一枚のタオルに石鹸を押し付け擦り合わせる。見る間に泡立っていく様を見つめながら、それでも巡る思考にため息を漏らさずにはいられなかった。
 一通り丁寧に身体を洗った後、ゼンは熱いシャワーをたっぷりと浴びて浴室を出た。脱衣所で脱いだ服は綺麗さっぱり姿を消していて、傍らの台座に申し訳程度に置かれたタオルを腰に巻き付け廊下へ移動する。少し肌寒い空気も、温もった身体には気持ち良く感じるものになっていた。
「ファナ、俺の服を知らないか?」
 相変わらず布しか身体に纏っていないファナを直視出来ずに、元の部屋に戻ったゼンは近くにあった棚を眺めながら問う。しかしファナはと言えば相変わらずで、ゼンも際どい姿であるのにも全く気にもとめていない。
「それならさっき洗って干したわ」
「…洗濯したのか?」
「石鹸だし、手洗いだけど…匂いがちょっと気になってたから。…余計だった?」
「いや…。大変じゃなかったか?」
「ナズナさんのお手伝いしてたから大丈夫よ」
「…、そうか…」
 そしてやはり、敬語の抜けたファナの口調に慣れない。初めて二人きりで出掛けた時に言い出しはしたものの、流れてしまった話題。再び姿を見せることはないと思っていた。だが今となってそれが叶ったとして、前までの様に懐かしいと思うことはなくなっていた。
「それより、寒くないか?」
 慌てて話題を変えたゼンは、視線を落としていた棚へ手をかけた。どうやら洋服箪笥らしい。小さめの大きさで、ここの住人が一人だったことを物語っている。
 一人で住むには大きすぎる家。
 この家に住んでいた人間は、何を考え何を感じながら生活していたのだろうか。
「そうですね。少し…寒くなってきましたね」
 引き出しを一つ引くと、中には数枚の衣服が入っていた。全て―当たり前だが―男物だ。幸いにもゼンと同じ背格好の人間だったのか、大きなものが綺麗に折り畳まれ整頓されている。その中でも綺麗なものを二枚手に取って、一枚をファナへ放り投げた。慌てて受け取った彼女が訳も分からずきょとんとしている所へ、続いて下着、ズボンを放る。
「これ…」
 黙ったままゼンがシャツに腕を通す様子を見てファナが言外に問うと、ゼンは前のボタンを閉めながら端的に返した。
「ないよりはましだろう?」
 その言葉に、ファナは少しだけ考える素振りを見せてから、男物の下着を身に着けた。その際、ゼンがいることにも構わず纏っていた布を取ったために、またゼンは視線を棚へと戻すことになる。羞恥心とかそう言ったことに無頓着なのは、監禁されていたせいだろうかと今更になって理解する。
 そうこう考えている内にファナは渡された物を全て身に着けた。一方ゼンはまだボタン掛けの途中で、慌てて作業を開始する。
「服が乾いたら、また町に出ようか」
「また、アイ・エフに行くの?」
「ああ。金もいるけど、情報収集もしなくちゃならないからな」
「分かったわ」
 しっかりと頷いたファナは大きすぎるズボンを手繰りあげる。その時目が合い、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。




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