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Marijuana




「お兄ちゃん…私からも、お願い…。私、トキさんやナズナさんと一緒にいたいのっ」
 蝋燭の火がほんの些細な風で揺らぐ度に、その瞳に浮かんだ涙の粒も一緒に揺れた。
 ゼンは言葉を失った。
 それでも、誰もがゼンの次の言葉を待ち望んでいる。視線は一点に集中している。
 やがて、蝋燭の火が大きく瞬いた。
「どうなっても…知らないからな…」
 ため息に紛れた小さな声に、上がったのは歓声だった。
 向かいに腰かけていたナズナがトキやリリィを巻き込んで飛び跳ねる。トキは、跳ねる都度ゼンの頭を戯れる程度に叩いてきた。リリィは、喜びながらも涙を流している。
 そんな賑やかな風景をぼんやりと眺めながら、ゼンはふと思い出す。目の前の光景が、昔一度だけ見た、両親や近所の人間が酒に飲み交わし騒いでいた時と被って見えたのだ。それはリリィが売られそうになる前夜の話で、それが祝福だったのか悲しみの別れだったのかは、今となっては理解することすら難しいのだろう。
 リリィが言葉の最後を消してしまって良かったと思った。
 また、自らの弱い部分を見せてしまいそうになったと嘆息が漏れる。
『俺たちは、此処で一緒に住んでも良いのか?』
 零れそうになった気持ちを、小さく笑みを形作ることによって、ゼンは胸の奥にそっとしまった


 割り当てられた部屋で、ゼンとリリィは二人並んで月夜を眺めていた。本来ならば一人一部屋ずつ割り当てる余裕はあったのだが、今までの習慣から二人は一緒に寝ることにしたのだ。リリィはゼンが眠る時に居なくては安眠出来ず、ゼンはリリィが目覚めた時には不安に駆られる。それを話した時、トキとナズナは少し呆れた様な悲しい様な顔をして直に慣れると囁いた。
 それに、何週間振りかの食事に、風呂に毛布だった。温まった身体は、今まで溜まりに溜まった疲労を訴えて今にも楽に寝付けそうだ。屋根があり丸見えでない空間は、ゼンたちに多大な安心感を与えていた。緊張の揺るんだ身体では、余ったベッドを空き部屋に映す体力はさすがのゼンにも残っていなかった。
 月が傾きを変えるだけでさほど代わり映えのない風景に飽きたゼンがとろとろとまどろみ始めた時、リリィは毛布にくるまった身体を甘える様にゼンに擦り寄せた。
「お兄ちゃん」
「…ん?」
 小さな声も、こうも静かでは聞き漏らすはずがない。ぴくりと肩を震わせたゼンは、閉じかかっていた瞼を開き、リリィの顔を見た。ゼンを呼んだリリィは今もまだ月を眺めていて、視界に入るのは彼女の横顔だけだった。陰りの差した、寂しそうな顔だった。
「ねえ…。どうして私たちは逃げなきゃいけないの?」
「…」
「あの人たちは、お父さんやお母さんが、私たちを連れ戻すために呼んだ人たちじゃないの?二人は、私たちが帰るのを待ってるんじゃないの?」
 久し振りの他人の温度に、リリィもまた家族のことを思い出したのだろうか。
 ゼンが彼女に真実を話したことはなかった。それはあまりに残酷で、悲しい裏切りだったからだ。肉親に切り捨てられたと知れば、リリィは今までのリリィとは違ったものになってしまう。両親に裏切られ捨てられたと理解した時、ゼンですら酷く傷付いた。まるで凍り付いた心を鈍器で叩き付けられる様な衝撃が、その身を襲ったのだ。
 儚くも気丈な、だからこそ美しい彼女を変えたくはなかった。
 だから、ゼンはゆっくりと首を振る。
「………――、違う」
「え、?」
「違う。…あれは、――――……あの二人は、…関係ない」
「どういうこと?」
「家に帰るのが駄目なのは、…家にいちゃあ、すぐにあいつらに居場所が分かるからだ。そうしたら、…関係のない父さんや母さんに…迷惑がかかるだろ?」
 長く綺麗な黒髪を、ゼンは優しく梳いた。緩慢な動作に、静かな声音に、リリィの瞼は少しずつ重たさを増していく。やがては、少しも経たない内に寝息を立て始めた。
「………」
 毛布にくるまり広いベッドで小さくなって眠るリリィの姿を見て、ゼンは自分でも聞こえない程小さなため息を吐いた。
 家族だから妹だからと贔屓はあるかも知れないが、リリィは同年代のどんな子どもよりも賢い。そして誰よりも美しく、純粋だった。だからこそ、あの悪魔の様な存在に見初められたのかも知れない。
 奪われてはいけないと確信した。
 奪われると言うことは、彼女に真実を告げるよりも彼女を根本的に壊し変えてしまうことに繋がる。それだけは、どうしても許せなかった。
 気がつけば、窓の外にあったはずの欠けた月が姿を消していた。


 それから数日が経ったある日のことだった。大地に温かい風が駆け抜け庭に小さな花が咲き始めた穏やかな日。ナズナの提案で、ピクニックに行こうと言う話になった。料理の苦手なナズナの代わりにトキが朝から弁当の支度を始め、ナズナは道具を揃え始めた。始めは見ているだけだったゼンも、トキに習って弁当の支度を手伝う。ただ、そこにリリィの姿がないことに少なからず不安を覚えていた。
 三日四日と経てば、リリィも一人で眠ることに怯えることもなくなり、部屋を分けて二人は眠るようになった。部屋は違えど寝起きの悪いリリィを起こすのは、ゼンの役目である。しかし今朝もいつもの様にドアをノックしたが、中から声が返って来なかったのだ。まだ眠っているのだろうとその時は放っておいたが、あまりにも遅過ぎる。壁にかけられた奇妙な形をした時計の針は、もうすぐ正午を指そうとしていた。
 時刻を確認してゼンが五度目のため息を吐いた時、ダイニングのドアが開いた。キッチンから見晴らしの良いそこに、まだ寝間着姿のリリィが現われる。
 音を立てる鍋に野菜を手際良く入れて手を拭いたトキが、にこやかに声をかけた。
「リリィちゃん、おはよう」
「今日はやけにお寝坊さんなのね」
 続いて、食卓でリュックに荷物を詰め込んでいたナズナがリリィを迎える。
 しかし、ドアを開けたまま立ち尽くすリリィは、二人には何の返事も返さないまま天井をぼんやりと眺めていた。
「リリィ?」
 不思議に思ったゼンが近寄れば、異変はすぐに目に入ってきた。リリィの大きな目は少し潤み、焦点は曖昧だ。それに、頬も少し赤い。リリィの様子に、ゼンははっと息を飲んだ。頬に触れると、平均より少し熱い温度が伝わってくる。
 ゼンの冷たい手にほっと息を漏らしたリリィは、困った様に眉を下げた。
「ちょっと…風邪ひいちゃったみたいなの」
 話す声も、いつもの透き通った音色ではなかった。
 慌てて駆け寄って来たトキが、リリィをダイニングのソファに促しながら問う。
「起きてきても大丈夫なのか?」
「うーん…少しだるいだけ、かな…。寝てたらきっと治るわ」
「だったら寝室に戻らなくちゃ」
「皆が起きてるのに、私一人寝てられないもの」
 ナズナから差し出された冷たい水を一気に飲み干して、リリィはキッチンへと視線を向けた。そして、いつもより一層儚い笑みを浮かべる。
「それより、良い匂いね…。今日は朝からご馳走なの?」
「今日は良い天気だから、皆でピクニックに行こうって話をしてたのよ」
「そうだったの」
「でも、リリィちゃんがこんな調子じゃ、出かけられないわよね…」
 ナズナがそう呟いた瞬間、今まで黙っていたゼンが口を開いた。
「出かけるの、やめよう」
 すると、リリィが長い睫毛を伏せて首を振った。
「ううん、良いよお兄ちゃん。折角の天気なんだもの、三人で行って来て」
「けど、…」
「またいつこんな天気が見れるか分からないもの。外の景色を目一杯楽しんだら、帰ってから私に教えてよ。ね?」
「………」
 ゼンの手に触れたリリィの手はいつもより熱く、いつもより小さく見えた。弱った状態の彼女を、しかも一人で家に残して行くのは忍びない。しかし、リリィの言葉を無下にすることも、ゼンには出来なかった。
「じゃあ…、すぐ帰ってくるからな」
 リリィの長い黒髪を梳いてそう言ったゼンの手を、彼女は照れくさそうな笑みを浮かべて掴む。
「お兄ちゃんってば…こう言う時くらいゆっくりしてきて良いよ、もう」
 暫くして全ての準備が調った。
 トキが大きなリュックを背負い、三人揃って玄関に立った所をリリィが見送りに出る。
「リリィ…」
「お兄ちゃんってば、もっと楽しそうな顔してよ。二人共困っちゃうでしょ?」
「…そうだな…じゃあ、行ってくるから」
 そうして、リリィの目の前で扉は閉まる。
「…行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
 その時のリリィの瞳に強い覚悟の色が浮かんでいたことに、誰も気付くことはなかった。




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