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Marijuana




 そこへ辿り着いた時には、息が切れていた。
「…、おい…」
 肩で息をしながらのゼンの呼び掛けに、フードの人間はビクリと肩を揺らす。転んだせいで乱れたフードから覗く、短いパンツから伸びた白い足は、まるで象牙の様に白く綺麗だった。だが、よく見れば小さな傷がよく目立つ。新しいものから古いものまでだ。生々しい傷跡に、ゼンは息をのんだ。
 目深に被られたフードのせいで性別は解らないが、あどけない口元やその四肢からすると女だろう。しかも、かなり若い。
 親の虐待などで逃げて来た子どもならばこの区域には少なくない。薬を使っている者や、危険なことに手を出して追われている者など、他にも沢山予想は出来た。それが現実ならば、関わらない方が良い。しかしゼンは、そんなことは気にもとめずに手を差し延べていた。
「大丈夫か?」
「………」
 だが、フードの人間は手を掴もうとはせずに、むしろその大きな手を振り払う様に自力で立ち上がった。そして近くにいるゼンに対して、警戒する様にフードを更に目深に被ってしまう。足元も隠されてしまった。
 しかし、礼を言う事は常識にあったらしい。フードの人間は小さく「ありがとうございます」と呟き頭を下げた。強い風が吹けばさらわれてしまいそうな程に小さかったが、その声を耳にしてゼンははっと息をのんだ。戦慄は、予感だったのかも知れない。無意識に震える唇が、鮮やかに蘇る記憶を辿ってある名前を呼ぶ。
「リリィ、」
「っ…!?」
 何処か焦点の合わないゼンの目が、フードを捕らえた。そして、ためらうことなくそれに手が伸ばされた。乱暴な動作のせいで女が微かな悲鳴を上げるが、やはり何かに集中したゼンの耳には届いていない。そして、一瞬にして剥されたその下から現われたのは、誰もの目を奪う程の綺麗な、とても綺麗な緋い髪だった。燃える様な鮮やかな波。その奥には、まるで今にも零れそうな程大きい、宝石の様なエメラルドグリーンの瞳。
 それを見た途端、ゼンは呼吸も忘れて見入ってしまった。周りの雑音が全て遠のく。自らの血液を送り出す心臓の打つ音だけが、やけに近くで聞こえた。
「何をっ…」
 呆然として立ち尽くすゼンの手を払いのけ、少女は再びフードを被って離れようとした。しかし力強く腕を掴まれ、振り返らされる。必死な表情をしたゼンが、少女の腕を掴んでいたのだ。
 フワリと揺れる柔らかい髪の向こうに見える少女の表情が、苦しげに歪められた。或いは狼狽ともとれる。そして掴んでいるゼンの手を剥そうとするが、その力は強まるばかりで一行に離れようとはしない。
「痛、…離してっ、…!」
「………」
「止めてっ!私に近付いたらっ…」
 食い入る様に見つめてくるゼンに少女がそう叫んだ瞬間、頭上で何かが壊れる音がした。しかし今のゼンに外界の音は通じていないらしい。ただの人形になってしまったかの様に立ち尽くしている。
「ゼンっ――!!!」
 後ろで、追いついたらしいナズナの悲痛な叫び声が聞こえた。
 世界が、動く。



『おにいちゃん』
 くすくす。
 笑い声がした。
 柔らかい声だった。
 心の底から安らぎを与える。
 そんな、優しい音色だった。
『…、おにいっ…ちゃん…』
 それが、いつからだったろうか。
 泣き声に変わってしまったのは。
 頭を撫でてやりたかった。
 抱き締めてやりたかった。
 筈、だった。
 だがあの時伸ばした手の先には。
 真っ赤な血溜まりしか残ってはいなかったのだ。



 …………!



 ……、ン!



「ゼン!」
「……、っ…!」
 自分の名前を呼ぶ声に瞼を開くと、歪む視界の中には真っ黒な壁が浮かび上がった。額を地面に擦り付ける様にして倒れていたゼンは、アスファルトに手を付いて上半身を起き上がらせる。小さく呻きながら痛む頭に手を添え下を見ると、手のひらに付いた細かい砂の粒がパラパラと落ちた。身体中が鈍痛に見舞われ酷く重い。
 そして、慌てた様子のナズナが目に入った途端、動いた背中から何か重りが落ちる感覚がした。
「…?」
 それは、音となって直に耳に届く。
 音のした方向を見れば、その正体は苦しそうに眉を顰めている少女だった。緋色の髪が散らばった胸が、浅く上下している。こんな状況で目を開かないのは、どうやら気絶しているかららしい。
 一体何があったのか。
 どうして少女が倒れているのか。
 一瞬間意識の飛んでいたゼンには、何一つ理解出来なかった。
「なにが…」
 小さく呟いて、固く目を瞑ったままの少女に手を伸ばす。まだ幼い印象を受ける表情は、やはり遠い昔の記憶を呼び覚ますのに十分な程、似ている。
「ゼン!」
 小さく息を吐き出した瞬間、腕を強く掴まれ視界が揺れた。そして目に入ったのはナズナの心配そうな表情だった。
「ナズナっ…?」
「何処か打った?大丈夫?」
「あ、ああ…」
 あまりに不安げなナズナの様子に僅かにうろたえながらも、ゼンは頷いた。未だ状況を飲み込めていないゼンをおいて、彼女は頭に付いた砂や破片を払ってくる。
 今の騒ぎで、野次馬も去って行ってしまった様だ。周りに人間がいないからと言って、女に髪や服についた汚れを払ってもらうと言う状況が恥ずかしく感じたゼンは、急いで立ち上がろうとする。その時、手に何かが刺さった。
「っつ…」
 見てみれば、細かく割れたレンガが無数に落ちている。刺さった部分は薄く切れ、少量の血が出ていた。
 そしてやっと事の次第に気付いたのか、地面を見渡す様に視線を巡らせる。
「…これは、…?」
 ゼンの視線が捕らえていたのは、同じ様に地面に散らばった、粉々に砕けた無数の黒い破片だった。それも、一つや二つではない。
 言葉に出来ない程驚いていると、ナズナが説明のために口を開いた。
「…いきなり落ちてきたのよ。…なのにゼンったら全然動かないから。だから…」
 ナズナの視線につられて、ゼンは自らの横で気を失っている少女に目を移した。きっと彼女が自分を救ってくれたのだろうと、納得する。まさか、他人の上に落ちてきたレンガからかばって自分の身を投げ出すなど、到底考えられない事実だと思った。それに、彼女よりもゼンの方が何倍も大きいのにだ。
 そして、それと同時に起こった不安に、ゼンは急いで少女の後頭部に触れた。決して激しくは揺らさずに、そっと。指で目当てのものを探すが、濡れた感触は――ない。出血がないと言うことだ。それに、弱々しいがきちんと呼吸もしている。ローブから覗く肢体にも、レンガがぶつかった様な外傷はない。
「…、…」
 少女が死んでしまうことはないと気付き、安堵せずにはいられなかった。
「それにしても、この子…」
 ポツリと呟かれたナズナの声で、緊張が更に深まる。
 彼女がこの先に続ける言葉は、ゼンにとって簡単に予想出来る二択だった。
 予感。
 違和感。
 そのどちらかであり、どちらでもある様な気がする。
 その時、ゼンは不意に、不自然な耳鳴りに襲われた。まるで硝子を尖った何かで引っ掻いている様な背中の毛が逆立つ嫌な音だ。それは徐々に大きくなり、目眩まで引き起こす。あまりの大きさに、意識が飛びそうになった。
「…、ゼン…!?」
 しかし、ナズナに腕を掴まれ我に帰ったゼンは、無意識に頭を軽く振った。先程からやけに思考が停止してしまう。それも、今目の前で倒れている少女を見てからだ。理由は何となく分かっているが、それだけではない気がする。
「…」
 黙って考えていては同じ考えばかりがループするため、ゼンはこの状況となった原因を探すことにした。何故、突然レンガが落ちてきたのか。上を見上げれば、解体中でも建設中でもない建物ばかりが並んでいるのに、だ。誰かが故意に落としたのかも知れないが、そうまでして恨まれる様なことはしたことがないし覚えもない。
 謎だけが募り、不愉快な気分になっただけだった。
「…とにかく、この子を此処に放っておく訳にはいかないな」
 そうして、一番気になっていたことを切り出してみれば、ナズナが困った様に眉を下げた。
「連れて帰るの?」
「…それしか、ないな」
「トキは怒らないかな?」
「話したら、アイツだって解る筈さ…」
 何より、治安の悪いこの地区に気絶した少女を独り置いて行く訳にはいかない。そんなことをすればどうなるか――この少女の将来など、手に取るように分かってしまう。此処に住む彼らにしてみれば、環境の悪さにおいては身にしみていた。
 だからこその、早い決断だった。
「連れて帰ろう」
「ええ」
 今更一緒に暮らす人間が一人増えたくらいで何が変わる訳ではない。
 二人はその時、ただ曖昧にそう考えていただけだった。




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