[携帯モード] [URL送信]

Marijuana




「そういえば、リリィは?」
 同じことを思ったのか、トキがそう声を上げる。それに対して、ナズナは残念そうに眉を下げた。
「それがまだなの。何処に隠れたのかしら…」
 その言葉を聞いた瞬間、ゼンは背中に寒気が駆けるのを感じた。一気に目の前が真っ白になる。気が付けば、足は植え込みを蹴飛ばして、来た道を戻っていた。
 後ろで名前を呼ぶ戸惑った声が聞こえるが、それはゼンの足を止めるきっかけにはなりえない。
「リリィっ、リリィ!?……リリィ!!」
 不安に押し潰されそうに掠れた声で出来るだけ大きく叫ぶが、その声は壁に阻まれて一様に帰ってくる。もどかしさを感じてゼンは唇を噛んだ。頭には嫌な予感だけが駆け巡る。いくら振り払えども、それはまるで影の様にゼンに纏わりついた。
 元居た場所に戻ったが、そこに人影はない。ファナが消えた方向を睨んでみても、何も見つけることは出来なかった。向こうには影が続くばかりである。途端に、このまま進んでも大丈夫かと不意に足が止まった。進んで入れ違いになってしまっては大変だ。かと言って、本当にさらわれたのならば追いかけない訳にはいかない。『あちらの人間』に見付かっていて欲しくないと願うと同時に、やはり一人にしてはいけなかったのだと自分を責めずには居られなかった。
「リリィっ…」
 やがて自分の足元を見つめて息を吐いたゼンの背に、トキとナズナが追い付く。普通ではないゼンの様子に、二人は無言で視線を交わし合った。
「どうしたんだよ、いきなり走り出して」
「ゼンが走るから、私疲れちゃった」
 ゼンの心中を察しての敢えての対応だとは理解したが、それでも、そんな呑気な言葉にゼンは苛立った。唇を噛めば血の味が口内に広がる。
「リリィが、危険なんだ…」
 そして吐き出された低い声に、事情を知るトキの喉がこくりと動く。一人置いてけぼりを食らったナズナは、小さく首をひねった。ただ状況の深刻さを理解してか、笑顔が心なしか硬い。
「危険って…リリィちゃんは、何処かに隠れているだけでしょう?」
「……、違う…」
「きっとそうよっ。ゼンってば考え過ぎなんだから」
「違う…」
「今も、私にいつ見付かるかなってわくわくして待って――」
「違う!」
「っ!」
 ゼンに刺す様な瞳で睨まれ、ナズナは息を飲んだ。今にも泣きそうな表情に変わるが、気丈にも堪える。
「ま、まだ、さらわれたって決まったわけじゃ…」
「リリィはまだ九歳なのにっ…あいつは俺が守ってやらなきゃならないんだよ…!」
「…、そう…よね、…ごめんなさい、知った様な口きいて…」
 俯く寸前の彼女の表情を見たトキは、ゼンから庇う様にして間に割って入った。その時、一瞬その場の空気が凍り付いたことに、ゼンは気付けなかった。自責の念に駆られ、頭を抑え首を振りただ呻く。
「……俺のせいだ……俺が、こんな所で気を抜いたからっ…」
 初めて聞いた、弱り切った声だった。当人は無意識なのかも知れない。出会った時から警戒心を露にしていたはずが、今はもう、今までの透明な壁や深い溝が見当たらない。弱くつつくだけで容易く崩れてしまいそうな脆さが全面に出ている。
 ナズナが傷付いた顔をしたことに対してゼンに僅かな不満を感じたトキも、それに気付いて表情を緩めた。目の前には、肩を落としてうなだれる少年しかいない。ゼンは妹のことだけを思って混乱しているだけだ。ナズナを傷付け泣かせる人間はいないのだ。
「探そう」
 不意に空気を震撼させた言葉に、ゼンの頭が上がった。震える瞳は辛うじて理性を保ってはいるが、何処か遠くを見ているようにも見える。
「何…?」
 続いて弱々しく吐き出された声に、トキは再び、力強く言った。
「俺たちで、リリィを探そうよ」
 その言葉に、ゼンが息を飲むのが分かった。しかし表情が一瞬晴れた気もしたが苦渋の面が変わることなく、すぐに俯いてしまう。
「探すって言ったって…」
「無理だと思うか?ゼンは、リリィが悪い奴らに捕まってた方が良いと思ってるのか?」
「っ、そんなことない!」
「だったら、オレたちが力を合わせればなんだって出来るよ!ゼンだけじゃあ出来ないことを、オレたちも手伝うんだよ」
「そんなこと、簡単に言うけどな…―――」
「三人寄れば文殊の知恵って言うだろ?此処のことならオレたちの方が良く知ってるし!」
「…、…」
 トキの言葉が重ねられる度に、ゼンの顔には落ち着きが表われてきた。やがて大きく息を吐き、目の前に佇む二人をしっかりと見つめ、言った。
「手伝って、くれるのか?」
 その後に承諾の声が上がったのは言うまでもないだろう。頼もしいまでの高らかな声に、ゼンは不安に揺れていた心が平静になっていくのを感じた。


 リリィが見付かるのに、それほど時間はかからなかった。大通りから少し外れた道端にいるところを、トキが見つけたのだ。目立った外傷もなく、無事なことを確認したゼンの表情には大袈裟なほどの安堵の色が表われる。
「リリィ…」
「皆どうしたの、隠れんぼは終わっちゃったの?」
 ゼンの気持ちを知らないリリィの唇からは、穏やかな笑い声が漏れる。
「もしかして、皆が鬼になってて、私も見付かっちゃったの?」
 途端に、乾いた音が狭い路地に響いた。
 ゼンの後ろでは目の前で起こったことに、残された二人が息を飲む。
 リリィは、痛みで熱くなった頬を抑え、佇むゼンを見つめていた。
「お、兄ちゃん…?」
 リリィの声は震えていた。頬を叩かれた衝撃からか、瞳には涙まで浮かべている。今まで過酷な環境に堪えてきた気丈なはずの、リリィの初めての涙だった。
 声を発するのもためらわれる緊迫した空気に、トキやナズナは口をきけないでいる。一度はゼンの行動に対して抗議しようとは思ったが、次の瞬間には、ゼンはリリィを強く抱き締めていた。痛みを与えられても決して屈しないであろう青年が、妹のために膝を地面へつく格好は、また違った意味で彼らの言葉を奪ってしまう。
「馬鹿野郎っ…あまり遠くへ行くなって言っただろう…!何かあったらどうするんだ!」
 きつく抱き締める腕に、リリィの表情はくしゃくしゃと歪められた。
 ただ怒っている訳ではないのだ。今、彼女は兄に頬を張られ傷付いた。しかしそれは一瞬のことだ。こうやって抱き締められれば、すぐに跡形もなく傷跡は消えてしまう。だがゼンは違った。耳元で聞こえる微かに震える吐息に、彼の心中を察せずにはいられなかった。ずっとゼンは彼女のことを守り続けてきたのだ。居なくなれば、多大な不安を感じるのは当たり前だろう。それすらも考えずに軽率な行動を取った自分が情けなくなってしまった。
「ご、…ごめん、なさいっ…。ごめんなさい、お兄ちゃん…っ」
 嗚咽に紛れた謝罪の言葉を聞いて、ゼンを更に抱き寄せる。今度は、優しく。
「でもっ、…一人で、歩いてみたかったのっ…。お兄ちゃんと一緒に居られるのは嬉しい。けど、…自分の足で歩いて、自分の目で物を見たかったのっ…!」
 後は、リリィの泣き声で掻き消えた。しゃくり上げて泣く妹の幼い姿。それが本来あるべき彼女の姿だったのだと、ゼンはその長い黒髪を梳く。小さな身体を、ゼンはまだ守ってやらなければいけない。唇を引き結んだゼンの瞳には、再び強い光が称えられていた。
 暫くしてリリィの泣き声が収まった後、ゼンはその小さな手を引いて立ち上がる。闇を生き抜いてきたであろう力強さを感じ、そこにある種の神聖さを感じたトキとナズナは黙ったままその様子を見ている。ゼンがこちらを振り向けば、どきりと胸が脈を打つ。しかしそこには、初めて会った時とは違った、優しい色が浮かんでいた。
「…今日は、ありがとう…」
 儚さまでも垣間見えて、二人は強く首を振った。それに少しだけ微笑み、ゼンが踵を返す。一歩、また一歩。遠くなって行く背中を、引き止めて良いものかとトキは逡巡した。その間にも彼らは行ってしまう。
「トキ…」
 隣りでは、ナズナが寂しげに裾を引いてくる。
 ゼンが嫌ったことは、まさにこれだ。
 嫌われたくない。
 それが頭に過ぎった途端、頭の中で混雑を起こしていた考えなど全て真っ白になり、思い付いた言葉だけが口をついて出ていた。
「なあ!」
 始めは呼び掛けだった。
 ゼンが立ち止まる。
 振り返る時間があまりにも長く、もどかしく感じる。心臓が早鐘の様に険しい音を立てる。柄ではないと自分を笑うことは頭で出来たが、事実、笑顔は引きつっていたのではないだろうか。




[*前へ][次へ#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!