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Marijuana




 その様子に、ナズナは少しだけ少女に近寄った。
「…取り敢えず、自己紹介しようか。私はナズナ、こっちはゼン。それから、こっちがトキ」
 ナズナが指差すのは、一切視線を逸らさずに悲しげな瞳で見つめてくる黒髪の青年に、頑に視線を合わそうとしない茶髪の青年の姿。そして二人の間にいるナズナはもう一度口を開く。
 同時に、少しだけ小さな雷が鳴った。
「貴女の名前は?」
「……」
「そんなに警戒しないで、ね?呼ぶのに困るだけだから。…何なら、偽名でも良いわ」
 ナズナの必死な言葉に、少女は「ファナ」とだけ小さく零す。
「家は何処にあるの?」
「ない」
「え、?」
 ファナと名乗った少女の瞳がフローリングの木の目の上を滑り、ナズナを捕らえた。驚いているナズナを見つめるには、あまりにまっすぐな瞳だった。
「逃げて来たの」
「………」
 痛いくらいの沈黙が降り積もる。ただ、視線だけが交錯した。気まずさを伴った重たい空気に、それでもファナは口を開く。
「だから、貴方たちの側にいると、貴方たちを不幸にしてしまう…。私は、呪われているから…」
 そして、首筋の痣を、細い指でゆっくりとなぞった。
 その仕草に、ゼンはごくりと唾を飲み込んだ。決していやらしい意味ではない。己の宿命を受け止めた気高き女の影が、まだ年若いこの少女の横にちらついたからだ。一体どんな育て方をされれば、他人のために温かさを手放す様な人間になれるのだろうか。治らない重病を患っている病人ほど、気高いものだと思い知った。
「だったら、…この家にいたらどうだ?」
「え…?」
 宝石の様なエメラルドグリーンが揺れる。
「ゼン!?」
 次の瞬間には、トキの悲鳴にも似た声が上がった。
 雨音はファナが目覚めた時よりも随分激しくなっていた。時折ゴロゴロと唸る空も、いつもの灰色の顔を更に暗くしている。
「そんなことっ、…駄目に決まってるだろ!?」
 そんな音をものともせずに、突き放す様な言葉が空中を舞った。
 ファンがカラカラと回る音を背に言葉を発したのはやはり、茶髪の青年だった。眉をつり上げて明らかに焦燥している表情のトキに、困った様にナズナは視線を向ける。
「ど、…どうしてよ。ゼンの言う通り、おいてあげれば良いじゃない」
「どうしても何もないだろう?どこから逃げてきたかもわかんない、しかも呪いの刻印まで持ってるこんな危険な人間、オレたちの家においとける訳ないだろ!」
「そんな事っ…。この子が可哀相じゃない」
「ナズナは解ってないんだよ!!」
「っ!」
「こんな息苦しい社会の中で、他人になんか構ってらんないよ…」
 くしゃりと歪められたトキの顔が、茶髪に隠れる。言い返す事も出来ずに、ナズナは床を視線を落とした。
 キシキシと床の軋む音が遠ざかり、扉の蝶番が鳴る。
「トキ…」
「…なんだよ…」
 出て行こうとしたその背中を引き止める様に名前を呼んだゼンの声に、トキは振り返らずに小さく答えた。その声を聞き、背を向けたままのトキに、ゼンは頭を下げた。
「頼む」
 そうすると、苦虫を噛み潰した様な顔になって、トキは唸る。
「面倒な事にならなきゃオレは別に言いとはいった。けど、」
「面倒は俺が全部引き受ける」
「…オレはともかく、ナズナに災いが降りかからないとは限らないだろ」
「それでも、…」
 話す言葉はことごとく跳ね返されるが、しかしどうしてもゼンは食い下がった。後ろでは、ファナが俯いている。自己主張はないものの、彼女の思考が良く分かる程に落ち込んでいた。目の前で自分のことについて口論が起きれば、誰でもそうなるだろう。
 ここで無理矢理トキを頷かせても、わだかまりは残るかも知れない。だが、ファナを独りで逃げ出すほど嫌な場所に返してしまうよりずっとましだと思ったのだ。
「……」
 ゼンの真剣なまなざしによって意志を察したのか、トキが髪をグシャリとかきむしった。表情は見えないが、きっと呆れた顔をしているのだろう。大きく息を吐いて、降参した様に手をあげる。
「………わぁーかったよ、オレばっか反対して、嫌なヤツみたいじゃんか…」
「トキ…」
「その代わり!オレはどうなっても知らないからな」
 半ばヤケの様にそう言い残して、トキは扉の向こうに姿を消した。
「…ありがとう…」
 そしてただ、小さなゼンの呟きが、雨にのまれて消えていった。
 トキのいなくなった静かな部屋は、チカチカと瞬く電球のせいで余計に暗く見えた。ソファに座ったままのファナが、不安げにナズナを見上げる。
「…私、本当に良いんですか…?」
「…ええ。トキもああは言ってるけど、困ってる子は放っておけないタイプだから」
「でも、…」
「…私たちは皆、孤児なのよ。他人を易々と信用出来ないのはそのせい…」
 視線を下へと降ろし溜息と共に言葉を紡いだナズナを、ファナは不安げに見つめた。それに気付いたナズナが小さく笑う。まるで自らを嘲笑う様に。
「『ジャンク』」
「え、…?」
「言葉の通り、ゴミクズって意味よ。私たちみたいな人間に対する、いわゆる普通の人たちからの呼び名」
「……、…」
 この荒んだ地区には、よく扶養出来ない子どもが置いて行かれる事がある。荒んだのはこの地区だけではない。人間の心の内も随分と荒れてしまった。犯罪に塗れた世界では、平気で人を騙し貶め合う。そんな風に信用できる他人が少ないため、新しい人間を受け入れるのは渋る様になるのは必然的なことなのだ。捨てられたために人間不信になる人間も稀ではない。トキの態度も、ナズナは気にしないでと伝えた。
「トキは特に。いつもはもっと明るいんだけど…私たちの中でここの生活が一番長くて、……一番、ひどい目にあってたみたいだから」
「………」
「だからこそ、仲間を信頼するのは人一倍だけれどね」
 視線を下げたままのファナに、ナズナは手を叩き合わせて「さあっ」と声を上げた。
 場の空気を一転させる様な掛け声に、残された二人の視線がナズナに集中する。
「とにかく、しんみりしてても何も始まらないもの。これからよろしくね、ファナちゃん」
「………は、…はい…」
「…解らない事があれば俺に何か聞いてくれれば良い」
 前へと進み出て来たゼンの長身を見上げ、ファナは困った顔をする。
「貴方…」
「道で会った時は、悪かった」
「いえ、その…」
「呼び捨てで良い」
「ゼン…は、」
 しかし、ファナが何かを聞こうとした瞬間に、バタンと扉が開いて、何か吹っ切れた顔をしたトキが中に入ってきた。手には古臭い椅子を一脚持っている。そしてそれを、三脚しか無かったキッチンテーブルの脇に新たに添えた。
「おいナズナっ。飯にするぞ、飯」
「はいはい、解ったから子どもみたいな真似は止めてよね」
 くすくすと苦笑してトキの催促に立ち上がったナズナは、ファナを見てウインクした。柔らかい金髪がふわりとなびく。
「赤ちゃんが生まれて、世話をしてくれなくなった事にヤキモチを焼いた子どもみたい」
 ナズナの言葉に、一瞬ファナはキョトンと目を丸めた。
「今日はさ、とっておきの料理にするからな。ゼンも手伝えよ!」
「いやに乗り気だな」
「反対してたくせに」
「それはほら、やっぱり、家長としてしっかりしとかなくちゃ、だろ?」
 ゼンとナズナの茶茶に、トキは誤魔化す様にふわふわと揺れる茶髪をかきまぜた。フライパンを取り出して、冷蔵庫に収納してあるだけの食材全てを取り出す。
「あーあ。明日からひもじい生活になるなぁー」
「なら、ちょっとは加減しろよ」
「そこは、一流シェフの性が許さないね」
「なにが一流シェフだよ」
 そして、とりとめのない会話で二人は笑い合った。
 油のしかれたフライパンで、肉が音を立てて焼かれ出す。トキが適量のソースを慣れた手付きで流して行く。良い匂いが部屋に充満し、誰かの腹の音が鳴る。
「あ、…」
 赤くなって腹を押さえたのはファナだった。きゅうきゅうと未だ鳴り続ける腹を押さえていると、まずはナズナに気付かれた。彼女は小さく笑みを漏らし、ファナをキッチンへと連れて行く。そこで迎える男二人は、顔を見合って大きく笑った。
 つられて、少女も笑う。声を立てるまではいかなかったが、百年ぶりに笑ったと思えるほどに、本当に久々だった。今まで悲しい顔をしていた少女の、初めて笑みを漏らした瞬間だった。
 フライパンをゼンへと預けて寄って来たトキが言う。
「帰る場所がない者同士、仲良くしような」
 静かな場所にひっそりと佇むこの家にも、久し振りに笑い声が響いていた。
 雨は、いつの間にか止んでいた。
 ただ、曇った空からは太陽は差さなかったが。




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