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Marijuana




 しかしナズナは、トキと話す時とは違った、まだ不慣れな人間と相対するための優しい声音で問うて来た。
「ねぇ、あなたたちの名前は?」
 トキもゼンたちの答えを待つかの様に顔を上げる。
 そんな様子に、ゼンは口許が緩むのを感じた。
 ほんの少しのためらいがあった。薄く開いた唇を上下させ、ゼンは名前を口にして良いものかと逡巡する。何か言葉を発することも出来ずに、暫くの間黙って考える。このまま黙り続けていれば、彼らは自分たちに飽きて何処かへ去ってしまうだろうか。そう考えると、信じられないながらも少し淋しい気がした。だがそれで良いのだとも思う。ゼンたちが逃げ回る理由を知らないならば、無関係のままでいさせる方が得策なのだ。しかしその時のゼンは、素姓を明かしては駄目だと思う判明、親しく接してくる彼らに心を許したいと思う幼い気持ちも持ち合わせていたのだ。
 逃げ惑う時によく似た緊張感に、ゼンは手のひらに滲む汗を感じる。それを服に擦り付けた。
「あ、…」
 乾いた喉が張り付いて、意味の無い言葉を紡ぐのが酷く億劫に感じる。ゼンが小さな声を漏らすことによって二人の意識が集中したが、それ以降、再び口が開かれることはなかった。俯くゼンの視界の端で、二人が顔を見合わせている。
 もう、飽きてしまったかも知れない。
 そう思いきつく目を瞑った時、不意にリリィが口を開いた。
「私、リリィって言うの」
「!」
 ゼンは慌てて顔を上げ、リリィを振り向く。すると兄の思惑を悟ってか、妹はゆっくりと首を振った。
「お兄ちゃん、この人たち、きっと悪い人じゃないわ」
「…でも、」
「お兄ちゃんも、分かるでしょう?この人たちがあの人たちと全然違うって」
「………」
 もしかして――否、もしかしなくとも、リリィはゼンの思考を、葛藤を、全て気付いていたのではないだろうか。
「リリィって言うのか」
「名前もすっごく可愛いのね。羨ましいなぁ」
 口々に感想を述べて、二人は次にゼンを見た。隣りに佇むリリィも、衣服の裾を引っ張り、続くことを促してくる。
「けど、…」
 それでも体裁を捨てられずに口を固く結ぶゼンに、トキは呆れた様にわざとらしいため息を吐いた。
「妹ちゃんの方がお兄ちゃんより賢いみたいだな」
 その言葉に、きつく反論したくなった。見れば分かるなど、言われなくても分かっていた。ただそれまでに至る勇気と、無邪気さが足りなかったのだ。
「……ン」
「へ?」
「俺は、…ゼン」
「……」
「…なんだよ」
「え、あ、いや…」
 ぶっきらぼうに名乗ったゼンを、トキは信じられないとでも言いたげに見つめてきた。正直に名乗ったのにとねめつけるゼンに、彼は慌てて手を振る。
 安い挑発なのは分かっていた。だが、普通に名乗れる程自分は素直ではないとゼンは自覚していた。だからこそトキの言葉に反発したように見せて、自己主張の糸口を解いてみせた。それをきっと、出会ったばかりの彼らは気付いていない。気付いてしまったのは、きっとリリィだけだ。隣りで微笑んでいるであろう妹を見ることが出来ず、名乗ったこともなんとなく恥ずかしく感じてゼンはじっと真正面を睨み付ける。
 目の前には、やはり嬉しそうに笑う青年と少女が立っていた。何度見ようとも慣れない、向けられる対象が自分だと理解すると気恥ずかしくなるような、そんな優しい笑みだ。
「ゼンに、リリィか」
「ああ」
 呼び捨てなのは敢えて触れないでおいた。
「私たち、これでお友達ねっ」
「ともだち…?」
「ええ。お友達は、名前を知らなきゃなれないのよ?だから、ゼンとリリィちゃんとトキと私、みんな友達なの!」
「ナズナってオレと友達だったの?」
「当たり前じゃないの。今さら何言ってるのよ、トキってば」
「いや、何にも、ないけど…」
 トキとナズナの言い合いが再開された時、「友達」とまたゼンが呟いた。それは隣りにいるリリィにしか聞こえない程の小さな声で、兄の変化に気付いた彼女は、自身もまた小さな声でゼンに問う。
「お兄ちゃん、嬉しい?」
「…別に」
「久し振りだよね。他の人と話すの」
「そうだな」
「…今日だけなのかな」
「……」
「明日…ううん、夕方になれば、二人とも、帰っちゃうのかな」
「…分からない」
「それでも、嬉しいよ」
「そうか」
「お兄ちゃんも、嬉しい?」
「…多分、な」
 その時、リリィは敢えて「淋しい」という言葉を心の内にしまっていた。
 長く近くにいるせいか、この兄妹は知る必要のない互いの気持ちまで悟ってしまう。笑顔を作りながらも影の差すリリィの顔をわざと隠すために、ゼンはその長い黒髪を乱暴に掻き混ぜた。小さな悲鳴があがり、すぐに恨めしげな、それでいて嬉しそうなリリィの顔が見かえしてきた。
 柔らかい風が肌を撫でる。鳥が何処かで鳴いた気がした。これほどまでに晴れやかな気分になったのは本当に久し振りだった。泥水やゴミ屑に塗れ暗闇を駆けていた自身が、一気に明るい陽の光と緑に囲まれた場所に出て来たとも思える程に。そしてそれは、リリィも同じなのだろう。
 顔を見合わせて二人の空間を作っていると、不意に突風が駆け抜けた。煌めく金の糸――否、髪の毛が頬をくすぐる。鼻を掠めた太陽の匂いに、ゼンの胸がとくりと波打つ。
「ね、ね、隠れんぼしようよ!」
 気が付けばナズナに手を取られ、上下に振り回されていた。彼女の左手にはゼンの右手が、右手にはリリィの左手が握られている。
「隠れんぼ、ですか?」
「うん、そう。やったことある?」
「はい。小さい頃には、何度か」
「じゃあ大丈夫ねっ」
 女同士で賑やかにやるのは構わない。そしてそこにトキが混ざるのも違和感はない。だが、ゼンが加わるのも当たり前だと言う雰囲気に、困惑を隠せなかった。
「いや、俺は…」
 ナズナの細い手を強く振り切ることも出来ずに頭を振るゼンの言葉を、後ろから飛んできたトキが遮った。
「じゃんけーん、―――」
「わっ」
「あ、お兄ちゃん!」
「こら、トキ!」
「ぽん!」
 背中に衝撃を受けたゼンがアスファルトに手を付く。驚きながらもしっかりと手を出していたリリィとナズナに主犯者であるトキを、恨めしげに見上げた。
 すると広げた片手をひらひらと振るトキは、満足げに頷いた。
「よっしゃ、決まったな!ナズナが鬼〜」
 訳が分からずもう一度、今度はそれぞれの手を見ると、確かにナズナ以外が全員――ゼンがいくら不可抗力だったとしても――手を開いていたのだ。やや強引だと思いながらも、ナズナは了承したらしく、軽く唇を尖らせる。
「私が鬼かぁ」
「言い出した奴が鬼って…何かやるせないな」
「う、うるさいわね!」
「あ、二人に言っとくけど、ナズナに捕まったら、鈍臭い奴一号のレッテル貼るから」
「ちょっと、それどういう意味よ!」
「そのままの意味だろ」
「だったらトキのこと一番先に見つけてやるんだからっ、もう。早く隠れなさいよ。十秒しか待たないからね!」
「気が早いってーの!おい、早く逃げるぞっ。範囲はこったら半径十メートル以内な」
 そしてナズナが建物の壁に向かって目を瞑った。十、九、八…少しずつカウントが始まる。その後ろで、トキが急かす様に足踏みをする。
「おい、俺は参加したつもりは…」
「良いから良いから。見てるだけじゃつまんないだろ?」
「お兄ちゃん、行こ?」
「ほら、リリィちゃんだってやりたがってるしさ。保護者気取るんなら一緒に遊んであげないと」
「っ…」
 リリィに可愛くねだられて揺らいだ心も、トキにそう茶化されてはささくれ立った。どうして彼はこうもからかいたがるのだろうかと思ってしまう。
「だったら…リリィ、俺と一緒に」
 半ば自棄になってリリィへと手を伸ばした時、しかしそれは彼女の手によってやんわりと押し返された。
「良い」
「何?」
「良いよ、お兄ちゃん。私一人で大丈夫」
「けど、…」
「だってこれは遊びでしょ?」
「……」
 私は一人で大丈夫。
 再びそう言うリリィに、ゼンは唇を閉じた。納得したのかと言われればそうではなく、まだ不満げにしているゼンに、苦笑しながらリリィが続ける。
「それに、隠れるのは得意中の得意なんだから」
 その姿は何処か大人染みていて、兄離れをし始めた様にも見えて、少し寂しくなった。応えを得る前に背を向けて走りだそうとしたリリィを、それでもゼンは掠れた声で引き止める。
「リリィっ…」
「なぁに?」
「あまり、遠くへ行くなよ」
「…分かってる」
 それは、兄としての最小限の気遣いだった。




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