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Marijuana




「…………」
「……、…」
 音が耳に届いた。
 それは人の声だった。
 まるで薄い膜が張り付いているかの様に、不明瞭で聞き取りづらい。何を話しているかまで理解するには、頭が覚醒していなかった。それでも、声の高さから性別くらいは判断できた。まだ若さの抜けない、男と女のものだった。それは寝ぼけたままのゼンの頭をゆっくりと揺り起こす。
 隣りにリリィの体温があったせいか安心しきり、熟睡していたゼンは重たい瞼を開ける。次第に色の表われた世界には――
「…………、ん」
 青が二つと茶が二つ、合計四つの目玉が並んでいた。
「―――っ、だ、誰だ!!」
 その瞬間、ゼンの身体は翻り人間とは思えない程の跳躍を見せてリリィをかばった。固いアスファルトはゼンの靴底を打ち付けられ、二人分の体重を受けて渇いた音を立てる。そうしてリリィを抱き上げながら二つの影と向き合ったゼンの頭には、後悔の念が渦巻いていた。どうしてもっと早くに、人の接近に気付けなかったのか。それよりも何故、緊張を解いてしまったのか。いくら疲れていたとしてもしてはいけないことだった。そう自分を責める。
 しかし、いくら身構えようとも影は襲いかかっては来なかった。それどころか少し離れた位置で、動かない二つの影は感心する様に小さく声を上げている。
「死んでなかったな」
「当たり前でしょ。息もしてたじゃない」
「それに、今の、すっげぇな。ぴょんぴょんっ、て動いたぞ?」
「軽業師みたい。あんなのサーカスでしか見たことないわっ」
「オレとちょっとしか歳、変わんないみたいなのになぁ」
「アンタは鍛えてないもの、当たり前よ」
 間の抜けた会話のおかげか、ゼンは寝込んでいる間に接近してきた人影をしっかりと見定めることが出来た。警戒するゼンの瞳には、美しく長い金髪を持った少女と茶髪の細身な青年が写った。女と細身――これならば未だ腕の中で寝ぼけるリリィを抱えてでも邪魔をされても力で捩じ伏せることが出来る、とゼンは考えた。だが、それを実行に移すまでの緊張感が肌を打たない。筋肉が収縮しようとしない――恐怖を全く感じないのだ。
「おにいちゃん…?」
 寝起きで甘ったるい声を発するリリィを、ゼンは違和感を感じたまま腕で強く抱き寄せる。
 そして、低く唸った。
「誰だ、お前たち…」
「誰だって言われてもなぁ?」
「うん。自己紹介は自分からって、ねぇ?」
 見知らぬ顔は二人して、陽気に笑った。
 暫く笑った後、金髪の少女の方が、青く透き通った大きな瞳でこちらを見て来た。そのあまりに穏やかな瞳に、ゼンはうろたえる。長い間見なかった、無邪気な光だった。それを見たゼンは何も言えずに、ただ口を噤んだ。そして少女の形の良い小さな唇から紡がれた言葉は、
「ねえ。あなた、誰?」
 ゼンと全く同じ内容のものだった。この際、彼女が言った「自己紹介は自分から」という言葉は棚に上げなければいけないのだろう。それではいつまでも終わりのない内容になってしまう。
「俺たちを、知らないのか…?」
「…?当たり前じゃん」
「だって私たち、初対面でしょう?」
 二人は同じ表情をして、やはり穏やかに笑った。
 確かに、ゼンと少ししか歳の違わないであろう外見の二人が追っ手である確率は無いに等しいだろう。あどけない表情で問われれば、どんな人間でも緊張の糸を少しは解いてしまう。しかし、ゼンは違った。心の何処かは揺り動かされながらも、核心はしっかりと揺るがない。他人を寄せ付けない鋭いまなざしを目の前の二人に向けて距離をとる。
「………」
「………」
 頑固なゼンの様子を見て、目の前の二人は目配せをした。そして頷き合う。次の瞬間には、敵意はないと表すためか、数歩後ろに退がった。その様子を見て、じりじりと後退をしていたゼンが、ふ、と肩の力を抜く。そうしてからやっと、腕の中で困惑の表情を浮かべていたリリィは現状を掴めた。
 リリィも視認出来る角度で、青年の方が、やけに明るい口調でゼンに話し掛ける。
「オレたち、キミたちに危害を与えるつもりは全くないよ」
「……」
「信用、出来ない?」
「……」
「…あ!キミたち兄妹かな?」
「……」
 しかし幾度話し掛けようとも、返答がなしではその力も落ちていった。最終的に青年は頑なに口を開かないゼンを見て、困った様に眉尻を下げ頭をかく。
「うーん、…こんなとこで子ども二人は危ないんだけどなぁ…」
 その時だった。
「……、お前たちだって同じだ」
 青年の吐いた小さなため息に紛れ、不機嫌そうな声がした。それは隣りに佇む少女のものではない。ゼンによって抱えられている少女のものでもない。
 事態を理解すると、青年の顔にはみるみる内にきらきらとした笑顔が戻ってきた。
「あーっ!口きいてくれた!」
「っ…!」
 その表情を見て、ゼンはしまったと思ったが時既に遅し。青年と少女は先程よりずっと距離を縮めてきた。二人ともが満面の笑みを浮かべている。
 ゼンにとっては、口をきこうと思って返した訳ではなかった。ただ、青年の言葉が癪に障っただけだったのだ。それをこうも喜ばれてしまえば、どうして良いか分からなくなってしまう。
 伸びて来た手を振り払い、ゼンは子どもらしい強い行動力に気圧されながらも、なんとか退路は保持する。
「っ…、と、とにかく、何処かに行ってくれ」
「ま、確かにオレたちも子どもだけどさぁ。何処かに行ってくれって言われても、なぁ?」
「うん」
 良い加減この掛け合いも面倒になってきた。にこにこと笑い合う二人を、ゼンは眉間に皺を寄せて見る。そして彼らは、必ずこちらから口を開くのを待つのだ。
「なんだよ…」
 暫くの沈黙を息苦しく感じ、この言葉を紡いだのが間違いだった。
 次の瞬間には、その返答を「待ってました」とばかりに、青年は嬉しげに踏ん反り返った。
「ここ、オレたちのテリトリーだから!」
「……」
 目の錯覚か、青年の後ろに七色の後光が差しているようにも見えた。その様子に、ゼンは脱力する。慣れない緩んだ空気に、今回ばかりは全ての毒気を抜かれてしまったようだった。
「な、んだよ、それ…」
 自慢げに胸を張る青年に、その横で楽しげに手を叩き拍手を贈る少女。今まで一度も会ったことのない人間だった。どう対処すれば良いか分からずに、うなだれてしまう。
 その時、くすくすと笑う声が聞こえた。それは確かに胸の辺りからで、視線を下にずらす。すると、コートに包んでいたはずのリリィが顔を出していた。ブラウンの大きな瞳と目が合う。
「お兄ちゃん、さっきから、同じことばっかり言ってるよ?」
「あ、こら、出てくるなっ…」
 危険だと付け足してまたコートに押し込めようとしたが、遅かった。近くにいた彼らも、しっかりとリリィの長い黒髪とブラウンの大きな瞳と透き通るような白い肌を見てしまっていた。
「わ〜!かっわいい!」
 すぐさま少女の方から歓声が上がる。
「………」
 青年の方はと言えば、あまりの衝撃に言葉を紡げないでいた。
 黙っていれば人形の様な容姿をしているリリィは、動いても様になる。そして形の良い唇からは、鈴の音の様に綺麗な声が出るのだ。
「こんにちは」
 ゼンに抱かれたまま小首を傾げ微笑んだリリィに、青年は薄く頬を染める。
「こ、こんにちは!へへっ…、本当に可愛いなぁ」
 その様子が気に入らなかったが、ゼンは、リリィが動くままに手を離してやった。兄の手を離れた少女は、ゆっくりと立ち上がる。その動きに合わせて、太陽が昇っているにも関わらず薄暗い路地裏よりも漆黒の髪がふわりと揺れた。
 その動作だけでも、不慣れな彼らの間に緊張が走ったことに、ゼンは気が付いた。
「え、えーと、じゃあ、取り敢えず挨拶が先な!オレの名前はトキ。それから、こっちが――」
「わ、私はナズナ!」
「なんだよ、こいつの方がちょっと格好良いからって…!」
「アンタなんか、この子に赤くなってるじゃない。確かにすっごく可愛いけど」
「な、なってねぇよ!」
「なってたもんっ」
 それから繰り返された会話はまるで痴話喧嘩だった。トキと名乗った青年が、ナズナと名乗った少女に必死に弁解している。しかし暫く言い合ってもナズナの気を取り直させることが出来なかったのか、トキがしゅんとした表情で一歩後ろに下がった所で争いは終わった。ナズナが何処か清々しげな表情をしている所を見ると、いつもこうなのかも知れない。
 少し強気な一面を見て、彼女に振り向かれたゼンは一瞬身体を萎縮させた。




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