[携帯モード] [URL送信]

Marijuana




 荒れた路地の端に腰掛けた一人の男が、灰色の空を、煙草の先から昇り立つ紫煙の行方につられて眺めていた。視界をまばらに埋め尽くす長い間放置され随分と伸びた黒髪をかきあげては、また気怠そうに手をポケットに突っ込む。そんな鬱陶しい視界にも関わらず、男はまるで何かを探している様に更に上を見上げた。
 その先に何処までも続くのは、何も見つからない、ただの灰色の空であるのに。
 張り巡らされた電線が空を渡り、一つ一つの電信柱が大地に突き立つ塔の様に伸びている。しかしそれが電気を通すことは滅多にない。生きているものの気配など全くに感じない世界。それ程荒廃した地域が、まるで果てなく続いている様な感覚に陥ってしまう。いつからか、所々にある汚れた街灯は、その存在意義をなくした。煤に汚れた灰色の空間。
 空と同化する様なそんな汚い街を眺めて、男は足元のゴミを蹴った。
 昔の『空』は、もう少し綺麗ではなかっただろうか。
 子どもの声が聞こえない。
 大人の声すら聞こえない。
 人々が死に絶える街。
 これから死に逝く街。
 幸せとは何処にあるのかと、随分昔に誰かと話した。小さな小さな頃だった。今はもう、それすら考えることが出来ない。誰も考えてはいない。此所から動き出せば何かが変わるのだろうか。隣り街へ行けば、その幸せが見えるのだろうか。誰かの声が、聞こえるのだろうか。それでも誰も動かないし変わろうとしない。不満は抱えれども、居心地は良いのだ。
 だが耳を塞いでいる訳でもないのに何も聞こえない世界は、彼にとってはまるで海の底に佇んでいるのではと錯覚するほど息苦しかった。
 何処までも、暗雲が立ち込めて、行く先を照らさない。
「……」
 固く目を瞑った男は、珍しく深く思考した自分を嘲笑う様に息を吐き出した。紫煙が舞う。やがては大気に飲まれて消える。同じ様に、消えてしまえればどれだけ楽だろうか。
「ゼン!」
 と、その時、不意に女の顔が灰色の世界に映り込んだ。その場に似合わない明るい声音と表情に気おされていると、風に揺れた長い金色の髪が視界を埋め尽くす。やがて髪は、男―ゼンの顔へと降りかかり、頬をくすぐった。
 柔らかい生糸の様な髪は汚れた空を背負うにはあまりに綺麗過ぎる。その感触にむず痒さを感じたゼンはそれを優しく払い除けて、そして乱暴に言い返した。
「なんだ、ナズナ」
「ゼンってば、まーた煙草吸ってる。身体に悪いから止めなさいって言ってるのに…!」
 目の前で腕を組む女――ナズナは、ゼンの幼馴染みだ。と言っても出会った頃はもう十代を過ぎていたが、彼女の世話好きな性格は昔と一つも変わらない。普段は大人っぽく落ち着いた雰囲気を纏っているが、彼女が頬を膨らませてぷりぷりと怒ると、実年齢より幼い印象を与えて少し可笑しいと、ゼンはそんな事をぼんやり思って言葉を返した。
「早く死にたいんだ」
 半分本心で、半分冗談だった。
 しかし、ゼンが吸い込んだせいで火の大きくなった煙草の先を見つめて、ナズナは悲しそうに眉根を下げる。
「また縁起でもない事言って…」
「…」
 ゼンはゆっくりと煙を吐き出した。まだ吸い出して少ししか経っていない長いままの煙草を指の先で摘み、それをじっと見つめる。先からは紫煙が立ち上ぼり、いつまでもこうしていれば、全ては誰にも作用されることなく灰になるだろう。それを勿体なく思いながらもこれ以上煩くされては溜まらないと、それを地面へと落とし、せめてもの踏ん切りとして靴底で火を踏み付けた。灰になった部分がアスファルトに色濃く擦れたのを見届けて立ち上がる。そのまま踵を鳴らして歩き出すと、ナズナが急いで着いてくるのが気配でわかった。
 それから二人揃って大通りに出る。大通りと言っても車はもちろん、人すら通らない廃れ具合だ。しばらく無言の時間が過ぎた後、ナズナが恐る恐る口を開いた。
「………ねえ、ゼン?」
 そう控え目に呼ばれ、ゼンは足を止めて振り返る。
「なんだ」
「…生きてるのって、さ…。そんなにつまんない?」
「……、…」
 ナズナの問いに、ゼンは言葉を濁した。どうしてそんな話をするのだと思い返せば、そう言えば自分が原因だったかも知れないと気付く。まさか彼女にこんな風な質問をさせるとは思わず、ゼンは気まずそうに視線をずらすと、誤魔化す様に髪をぐしゃりとむしって溜息を吐いた。
「無条件につまらない訳じゃない…。お前や、トキと一緒にいる時はそれなりに楽しいし」
「それなり…?」
「ああ、それなりに」
 不安げに見つめてきたナズナに、ゼンはコクリと頷く。その様子にナズナは安心した表情を見せた。「それなりに」と言う中途半端な答えが、ゼンらしさだと思ったからだ。
 それから何か言葉に詰まり、視線を巡らせ、俯いて、また唇を動かす。
「あのね、ゼン…」
「?」
 うまく喋れないのは緊張のせいか、絡めた指を弄るナズナを、ゼンは辛抱強く見守った。彼女は時々、こう言った仕草をする。しかし、最後まで何を言おうとしたのか聞いたことがない。
「それなら、さっ…。私と、」
 しかしナズナが言葉を紡いだ途端、彼女の横を犬が吠えながら過ぎて行った。
「っ…、なに…?」
 会話を遮られたことに苛立つよりも、ゼンは異様な光景に目を見張る。いきなりの騒音にビクリと身体を震わせて犬の去った方向を見ると、途端に鈍い音がして『何か』が悲鳴を上げながら弧を描いた。びしゃり、と濡れた音がして、地面には赤色の液体がぶちまかれる。ころころと転がる物体が、赤の筋を際限無く引いている。その場からはほんの僅かにいた通行人のざわめきが起こった。ひいた――むしろ、突っ込まれたオンボロ車から出て来た男が、悪態を吐きながらもう動かないそれを蹴りつけた。さらに赤が伸びる。
「………」
 血だ。
 そう理解した時には、ゼンの手が異様に震え出した。全ては無意識である。ゼンの意識は別のことに向けられており、手の震えなどには気付かない。
 傍から見れば、突然の事故を呆気に取られて見つめているだけだと取れるだろう。しかし、ゼンは違う。不意に背後から聞こえた犬の鳴き声と男の罵声、そして悲鳴に、異常な程の速度で身構えた。
「あそこっ…」
 同じく警戒したナズナが反対側の歩道を指示した向こうでは、ゴミ箱の倒れる激しい音が響いて中身がぶち撒かれていた。そして自分へ向かって大量になだれ込んでくるゴミに驚いた野良犬が吠え、走り去って行く。
 フラフラと危ない足取りで起き上がったのは、フードを頭まですっぽりと被った人間だった。何か喋ったらしいが、この距離からではわからない。そしてすぐさま立ち去ろうとするが、踵を返した瞬間に後ろを歩いていた男にぶつかって転んでしまう。
 再び、騒音が生まれた。
「何、あれ…ドラッグ中毒者?」
 足元もおぼつかないフードの人間の様子に、ナズナは怪訝そうに首を捻った。しかしそれに対してゼンは一言も漏らさずに、ただ向こうで倒れている人間をひたと見据えている。
「ねえ、ゼン…もう行こう?」
 余計なことには巻き込まれたくない。
 そう言ってゼンの腕を掴もうとしたナズナだったが、その細い指が自分よりも何倍も逞しい腕を掴むことは出来なかった。
 擦り抜ける。
 ゼンが、駆け出したのだ。
「ゼン!?」
 後ろでナズナの引き止める声が聞こえたが、ゼンは振り向きはしなかった。ただ、目の前に映るフードの人間に引き寄せられるかの様に駆けて行く。
「ゼン…」
 徐々に小さくなっていくゼンの姿に、ナズナは小さく溜息を吐き、その背中を追った。


 その存在を確認した途端、戦慄が走った。脳天から爪先まで、余す所なく震えたのだ。
 目の前、遥か遠くにゆらゆらと揺れる影が現実に何者かは知らない。それでいて、直感的に感じるものが何かあった。それが良いものであるのか、はたまた反対であるのかは区別もつかない。不意に、嫌な予感が背筋をはい回っていることに気がついた。行かない方が良いのではないか。関わらない方が身のためだぞ。誰かが耳元で囁いている。だが、それも無視してひたすら足を動かした。
 あの存在は、深海に溺れた魂をすくいあげるかも知れない。道に迷った者たちに行く道を差すかも知れない。ただただ、そんな気にさせられた。迷いはない。まさか、自分に予知能力があったなどと豪語する気はないが。
 未だあの身体は地を踏まない。伏したまま、誰の救いをも拒絶している。後どれだけ近付けば離れられるのだろうか。
 ただ灰色で何の面白みもないこの世界に鮮やかな色を見つけるために、必死に足を動かした。




[*前へ][次へ#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!