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Marijuana




『愛する人が悲しもうともただ
 その人の幸せを考えひたすら
 猛進するのは、愛故に盲目を
 覚えたからだ』


 倒錯とは何だろうか。
 意識の世界が揺らぐ。
 正しいことは全て流れ、目に映るのは酷く醜い全容ばかりだ。
 正常とは何だろうか。
 教える術は誰も持たない。

   ***

 走る、走る。
 真っ暗な通り道を。
 駆ける。
 行き先も分からないまま。
 怖くはない。
 ただ、夢であることを願い続けた。
 世界が切り替わるのは一瞬のことだ。瞼を閉じて開くだけの瞬間だ。一度暗闇に落ちた瞬間、それまでとは違った世界が開けて見える。瞼を閉じる前と開いた後でもまた違う景色に、身体の奥底から震撼する。そんな感動がこの身に起こることを願い続けた。
 そしてその可能性はやはり瞬きに酷似している。一瞬で過ぎるはずの行為は一度タイミングを逃してしまうと来辛くなってしまう。ずっと瞼を開いていても、ずっと瞼を閉じていても、きっと何が起きているのか分からなくなってしまうのだろう。願う時は一瞬で、願う回数は幾度となく繰り返される。目が覚める可能性は複数で、実現される可能性は皆無だ。そしてまた、自らが動いていなければ、景色が変わるはずもない。
 瞼を閉じながら、全てが夢であれば良いと思ったことは一度ではない。
 起きた途端、今までの全てが嘘になれば良いと思ったことは一度ではない。
 温かく肌触りの良いシーツが柔らかく身体を包み、瞼を優しく照らす日の光に目を覚ます。するとそこは優しい世界なのだ。小窓では小鳥が少しためらいがちに囀る。ベッドから降りようとも降りまいとも、眠っているだけでも自由な世界なのだ。煤や血で汚れていたはずの身体も、全く真っ白に輝いている。汚ならしい部分などない、綺麗で美しく純白で明快な世界なのだ。
 痛みも悲しみも苦しみも恨みも、暗い感情は何もない世界が待ち受けている。
 それが現実であれば良いと思った。
 瞼はまだ開けない。
 自身が動いている自覚がないからだ。
 変わらない景色を恐れるからだ。
 夢であって欲しいことを現実と突き付けられることが怖いからだ。
 そう。
 事実、この身に降りかかる全てが現実なのだとは理解していた。悲しいことに、自らの賢しい脳は理解していたのだ。
 ただ、全てが不自由だった訳ではないことも知っていた。
 毎日が痛みの記憶ではなかった。
 毎日が悲しい記憶ではなかった。
 毎日が苦しい記憶ではなかった。
 毎日が恨んだ記憶ではなかった。
 小さな小さな喜びや幸せを感じたこともあった。
 だがそれを感じる心は神経を尖らせる毎日に摩耗し、麻痺していった。追われる生活に慣れ、遠くの雑踏にも身を震わせる。風が吹くだけで全神経が強張った。気を張れば張るだけ、苦しくなった。息を殺せば殺すほど、沢山の酸素が欲しくなった。生きようとすればするほど、生きていることがつらくなった。腹が満ちることは決してない。満足に睡眠が取れることすらない。安心出来る場所などない。雑踏の中ですら全てが追っ手に見え、路地裏ではゴミを漁る野良犬ですら敵に見えた。
 乾燥した心で考えるのは明日のことばかりだ。明日になればこの夢は覚めるだろうか。明日になればこの夢は終焉を迎えるだろうか。
 ひたすらに考える。
 夢の終わりはいつ来るのだろうか。

   ***

 漆黒の空には、下弦の月が浮いている。
 満天の星空の下を、息を切らして走っていた。街灯に照らされて伸びた二つの影がアスファルトの上を駆ける。建物の外壁に反響する靴音は、既に誰の物かすら分からなくなっていた。
「っ…!」
「お兄ちゃん!」
 走り過ぎて限界が来たのか、勢いのまま青年は飛ぶようにアスファルトの上を転がった。後ろで少女の声が聞こえ、急いで上半身を起こす。しかし、情けない程にガクガクと震える足は、いくら叱咤しようともなかなか動かない。その内にも耳鳴りの様な足音は接近してくるのだ。
 少女が後ろを振り返る。
「お兄ちゃん、お家に帰ろう…?」
「だめだ」
「もう、良いよ…」
「良くない」
 先程から泣き言の様に繰り返される言葉も、有無を言わせず青年は遮った。そして、その声すらかき消す大人の怒号が、路上に響き渡る。
「何処だ、餓鬼共!」
「っ―――!」
 声が聞こえたのはやはり後方からだった。少女が怯える姿を見て、青年はその細い腕を取り、
「こっちだ」
 再び走り出した。
 青年にもう走る力は残っていなかった。だが、少女が追っ手に捕まってしまうことを考えると、走って逃げるだけの力が沸いてきた。身体は限界を伝えていたのだが、気力が青年を動かしたのだ。
 後ろに続く大人の声が近くなる。
 走る内に見えたゴミ箱の影に、青年は飛び込む。
 後に続く少女もそれに見習い、身を隠す。その際、街灯に照らされた伸びかけの黒髪が、艶やかに揺らめいた。
 腐臭が鼻を突く。何かも分からない死骸が真横にぶら下がっていた。それは月や街灯に照らされて黒ずんだ肉片を見せる。長く伸びた口許はまるで笑っている様で、その不気味さに喉まで競り上がった胃液を必死になって押し込んだ。青年は、その惨劇を少女の目から離すために前に立つ。
 やがて、複数の足音が不規則な音を並べて通り過ぎて行った。
「………………、はっ、はっ…ふぅー……」
 止めていた息を吐き出す。荒い生き物の呼吸は、この静かな街路では目立ち過ぎる。息を吸った途端に生ゴミの臭いが鼻孔を強襲したが、それもまたお似合いだと瞳を閉じた。
 背を壁につけたままずり落ちる。足は、安堵からか疲れからか、震えていた。隣りで同じ様に腰を下ろす少女もまた、青白い顔でぐったりとしていた。俯くと、頬に浮かんだ汗のせいで黒髪がへばり付く。男女の違いのせいか全く違った質感の髪を払い、青年は愛しい妹を気遣う。
「大丈夫か?」
「うん。…でも」
「でも?」
「私、お家に帰りたい…」
「駄目だ」
「どうして?お父さんもお母さんも、きっと待ってるよ?突然いなくなった私たちを、きっと探してるもの」
「……」
 大切な妹に、真実を告げる訳にはいかなかった。まっすぐに見つめてくる少女の瞳から逃げる様に、青年はゆっくりと首を振った。
「父さんも母さんも、リリィ。お前が幸せになることを望んでるんだ」
 悔しさが零れないように唇を噛み締める。弱者はこうして堪えるしかないのだ。
 リリィと名を呼ばれた少女は、その大きな瞳を夜空へ向けた。青年もそれに習う。建物の合間から見える夜空は、輝く星たちのおかげでまるで川の様に流れていた。耳には虫の声が届く。ふう、と息を吐き出せば、それも明確に届いた。相も変わらず星は瞬き月は昇る。太陽が沈めば夜が来る。
「…ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「幸せ、って…何なのかな」
「…え?」
「私、お兄ちゃんとこうして逃げ回ってるの、不幸だとは思わないもん。確かに…あの人たちを見つけると、少し、恐いけど」
「………他人から見れば、お前は十分に不幸な子どもだ」
「幸福の基準は他人に決められるの?それは人によって違うはずよ?」
「…それは、…」
「私は、お兄ちゃんと一緒に居れれば幸せ。お兄ちゃんが幸せなら、もっと幸せ」
「俺は、…お前が幸せなら、それで良い」
「なら、私たち二人とも、幸せね」
「…そう、だな」
 リリィの言葉に、青年は小さく頷いた。それでいて、耳の中で反響する、自らも発した『幸せ』と言う言葉に反感を覚えずにはいられない。『幸せ』ならば、これほど恐ろしい思いをする必要はないはずではないか。ただそれを幼い妹に打ち明けることは出来ず、青年は胸の奥にしまっておく。
 そして、鈴の音が鳴る様な可愛らしい声に、優しく応えるのだ。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「私たち、…これからどうするの?」
「……また、明日考えよう」
「…そうだね」
 今度はリリィが感情を押し殺した。幼いながら兄の考えることを理解して、少女は頷いた。そして少女の不安を知りながらも、青年は気付かないふりをする。兄妹は、そうやって分かり合いながら騙し合い、互いの均衡を守る。
「おやすみ、リリィ」
「おやすみ、お兄ちゃん」
 辺りには腐臭が立ち込めていたが、既に慣れた。少女はすぐに寝息を立てる。その安らかな寝顔だけが、青年の生きる意味だった。
「お兄ちゃんは、妹を守ってやらなきゃならないんだ…。なあ、ゼン」
 自らの名を低く呼び捨て、青年は決意を固くした。
 月は高く昇り、建物の間から二つの影を濃く照らす。




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