[携帯モード] [URL送信]

Marijuana




 鼻をくすぐる香ばしい匂いに腹は喜ぶが、男の態度には全く正反対の感情が燻り出した。ゼンの眉間に厳しい縦皺が刻まれていく。
「それにしてもお兄さん、モテそうな外見してるねぇ」
「…そうでもない」
「いやほんと。体つきも良いしさ。何か運動でもしてるの?」
「特に何も」
「ふーん…、寡黙だし?オレとは正反対だな、あはは!」
「……」
 いちいち取り合うのが面倒になって来たゼンは、快活に笑う男を前に口を引き結んだ。一体何なんだ、こいつは。馴れ馴れしい様子に、警戒心を抱かざるをえない。するとそんなゼンの胸中を知ってか、男は小さく苦笑し片目を瞑る。女ならばその仕草に陥落されただろうが、ゼンは腕が粟立つのを感じた。無意識に足が一歩退く。
「俺、カミユってんだけどさ。お兄さんは名前、なんて言うの?」
「…、女みたいな名前だな」
「それは俺も気にしてんだぜ?」
 仕返しだとばかりに名前をけなしてやれば、しかし男――カミユは、言葉とは裏腹に何処か嬉しそうな顔をして笑った。姑息な手段だったとは思うが、そう反応を返されては拍子抜けしてしまう。カミユの様子がほんの癪に障ったゼンは鼻を鳴らした。そして、ぶっきらぼうに口を開く。
「ゼン」
「ん?」
「ゼン、だ。名前…」
「へぇ。凛々しくて良いねぇ」
「……」
「お兄さん?」
 カミユもまた、名前のことでからかってくると思っていた。それに、名前を教えれば更に馴々しく呼んでくると思っていた。
「何でもない…」
 しかし妙な距離を保とうとしている姿に、やはり知り合いと被せて見えてしまう。不思議そうな顔でこちらを覗いて来たカミユから視線を外して、ゼンは短く答えた。
 本来ならば名前など教える必要はなかった。むしろ、教えない方が良かっただろう。だが、そうしなかったのはやはり、彼にカミユが似ていたからか。掴み所が無くころころと表情を変えるその姿は、ゼンの感情を振動させる。そこが苦手で、羨ましくも感じる訳だが。
 そこから少しの間、沈黙が流れた。カミユも、静かに鉄板の上で材料を転がしている。この男は黙って仕事をしていれば言うことはないのだろうが、いかんせん、口を開けば三枚目に成り下がる。珍しく他人を観察していたゼンは、再びカミユと視線が合い、らしくもないと顔を逸した。流れでファナを目で追うことになる。するとそれがカミユの会話の種を作ったのか、彼は材料を転がす手を止めた。
「あそこにいるのは、彼女?」
「……」
「お兄さん?」
「…妹だ」
「へぇ〜、妹さんと旅行か何か?」
「…まあ、そんなところだ」
 『妹』と言う言葉がやけに引っ掛かる。それが、この男の何か含んだ様な物言いのせいなのか、長い間自分の中で渦巻いている問題のせいなのかは分からなかったが。
 ゼンが表情を消したのを目敏くも気付いたカミユがまた「へぇ」と呟く。その声を聞いたゼンは、まさか下世話なことを考えているのではないかと思い、一層不愉快になった。
 彼とカミユの唯一似ていない点と言えば、ゼンを不愉快にさせるかさせないかなのだろう。
「……、早くホットドッグをつくってくれないか」
「ああ、悪いね。お待たせ」
 そうして差し出されたホットドッグを受け取りきっちりの代金を置いたゼンは、礼も言わず、足早にその場を立ち去った。カミユはきっと、ゼンたちが訳ありだと気付いていたはずだ。あれ以上詮索されればボロが出てしまう。出店をやっているだけに他人と触れ合うことが多いせいだろうが、見掛けによらず油断ならない男だと思った。
 だが、少しささくれ立った心も、緑の中に佇む少女を見れば一瞬で洗われた。どうやらゼンが出店でカミユに絡まれている間に遊び相手を見つけたらしい。みすぼらしい色ながらも丸々とした鳥を、腕に抱えていた。よく捕まえたものだと感心しながら、鳥を驚かさない様にファナへと声をかける。
「待たせたな」
 ゼンの声にやっとその接近を気付き、ファナが顔を上げる。手の中では鳥が少しだけ羽ばたき、また大人しくなった。
「いえ。大丈夫です」
「汚れるぞ?」
「構わないですよ」
「動物、好きなのか?」
「はい。何を考えてるか、分からないじゃないですか。だから、好きです」
「そうか」
 その言葉の深い意味は敢えて追求も推測もしなかった。代わりに手に持ったものをファナに差し出す。
「食ってみろよ、ホットドッグ」
「はい」
 鳥を放したファナは、手を服で擦ってからホットドッグを受け取る。ファナがそれを口に含むのを見届けてから、ゼンもかぶりついた。
 焼きたてのため、温かいパン生地の甘く香ばしい風味が口一杯に広がる。中に挟まれたソーセージからは油が流れ出し、空腹を訴える腹に染み渡っていった。カミユが自称するほどには、確かに美味いと素直に褒めてやりたくなる味だった。
 ファナも同じ感想だったのか、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「おいしい」
「だな」
 見つめ合い、互いに笑い合った。
 穏やかな時間だった。
 金もなければ食い物もなく、休息も余裕もない生活では心が荒んで行く一方だろう。だからこそ、こんな一時が大切なのだ。
 残った欠片を口に放り込み、ゼンは辺りを見回した。他に行く所はないかと探すためだった。また夜にはスラムに戻る。陽がある内に、明るい場所を見ていたいと思った。
 その時、車の往来の中にあのみすぼらしい鳥が飛んでいくのが見えた。
「あ、」
 そして瞬く間に、小さな身体は鉄屑に埋もれて消えた。一台、また一台と通り過ぎる車の間から、潰れた間抜けが見える。ゼンが短く零した声につられてそちらを見たファナも、じっとその様子を眺めていた。
「鳥でも、車にひかれることはあるんだな」
 場を執り成す様にゼンが声を上げても、先程までの幸せそうなファナの表情が戻ることはなかった。
 気が付けばその空気にのまれたゼンも、僅かに消極的な声音で言葉を発していた。
「ファナ、…」
「大丈夫です」
「……」
「私は、大丈夫…」
 俯くファナの膝が崩れた。
「ファナ?」
 緋が地面に散る。
 動かない。
「ファナ、…ファナ!」
 抱き上げた身体は酷く熱く、上下する胸の動きは浅い。不規則であり短い幅の呼吸に、ゼンは、はっとした。急いで鞄から毛布を取り出す。その際に転がり出た小物が煩わしくて舌打ちをする。広げたそれに小さな身体を包んだ後に、散らばった物を乱暴に鞄へ放り込んだ。
「ファナ、…」
 そうして短く呟いたゼンの瞳は、戸惑いに揺れていた。


 無音も同然だった。
 浅く速い息遣い聞こえたが、それもすぐに意識の外に放り出された。
 窓の外はまだ明るい。赤味すら差していない空には、数羽の鳥が羽ばたいて行った。今朝いた小屋よりは随分と小綺麗な部屋だ。熱にうなされるファナを背負ったゼンは、何処かの寂れたアパートの一室を適当に拝借した。隣りや上にも同じ様に訳ありの人間が住んでいる様で、妙に居心地の悪い気持ちがする。気が早いが、此所が今夜の寝床だった。
 部屋に一つだけしかないベッドにファナを寝かせている。その隣りに、ゼンは壊れかけた椅子を並べた。
 途中で買った水を染み込ませた清潔なタオルを、ファナの前髪をかき上げ露になった額に押し当てる。
「ファナ…」
 控え目に呼び掛けると、虚ろな瞳が揺れた。
「…風邪なんかひいてしまって…すみません」
「気にするな」
「すみません…」
「気にするなって…」
 先程からずっと繰り返される言葉に、ゼンは唇を噛む。
 たかが風邪だと言えばそれで終わりなのだ。だが、ゼンたちの様な寝ていれば治ってしまう人間と一緒にして良い次元の問題ではなかった。今まで運動も全くしていなかったであろう、しかも栄養の十分に取れていないファナの小さな身体では一大事に至るかも知れない。何よりも、身寄りのない彼らでは正当な治療を受けさせてもらえないのだ。幸い激しい咳や嘔吐までには至らず、ほんの少し熱が高いだけだ。その事だけでも、ゼンは安心していた。これならば、看病経験のない彼でも対応出来る。とにかくファナが食事を取れる様になってから、何を作ろうかと考える余裕くらいはあった。丁度良いことに、この部屋にはキッチンもある。もしガスが点かなくとも、窓にかかったカーテンや落ちている段ボールを燃やせば良いと考えた。
「今は、ゆっくり休め」
 ファナの小さな額に、ゼンは手のひらを被せる。その温かい感触に、汗の浮いた頬を少しだけ緩め、ファナは再び眠りの波へ身を任せた。




[*前へ]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!