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Marijuana




 それは、微かな陽光を受けて光る一枚のカードだった。見覚えのないそれは確かにジャケットのポケットから落ちたもので、ゼンは首を捻る。硬質でありながら薄く、曲げれば簡単に折れてしまいそうなものだ。そして裏には良く分からないコードナンバーが書かれている。ひっくり返した途端、あまりに都合の良い展開にゼンの目が見開かれた。
「ファナ、これを見てみろ」
「…?これは、…!」
 そしてファナにカードを渡せば、彼女も驚いた声をあげた。
 表面の証明写真欄には見慣れた茶髪の男がほんの少し真面目な顔をして写っている。トキの、『アイ・エフ』の会員カードだった。
 初めてファナと街へ出掛けた時にもらったものだが、すっかり忘れていた。
 珍しく興奮した様子のゼンに、ファナはカードを返しながら問う。
「でも、これをどうするんですか?」
「これを使えば、トキじゃない人間もトキとして、アイ・エフで仕事をすることが出来るんだよ」
「つまり、トキさんに成り済まして仕事をするってことですか?」
「ああ」
「………」
 頷けば、彼女はゼンが言わんとしていることを悟った様だった。
「俺たちは出来るだけあいつの行ってない店を探して、そこで仕事を見つける」
 これならば生活に困ることはない。
 我ながら良い考えだとそう呟いたゼンだが、ファナが浮かない顔をしているのに気付いた。
「…ゼン一人だったら、お金で困ることなかったんですよね…」
「ファナ…?」
「私のせいで…」
「……」
「きゃっ」
 短く息を吐いたゼンは、俯くファナの頭を無造作にかきむしった。哀愁の漂っていた瞳は驚きに見開かれ、慣れない乱暴な行為に疑問符が浮かび上がる。呆気にとられてこちらを見る彼女に、ゼンは手付きとはまるで違った優しい声で言った。
「お前は何でも自分のせいにし過ぎだ」
「…でも、」
「ファナ」
 言葉を紡ごうとしたファナの唇を、ゼンは指で止めた。謝ってもらう必要など全くない。今なら、トキの言っていた言葉が分かる気がする。そう思えた。
「俺が一人で暮らしてたって、いつかは必要になってたんだからな。…養うのが自分一人なのも、後一人増えるのも一緒、―――」
 そして言葉を紡ぐ度に、悩みの種も、一つ弾けて消えた気がしたのだ。腑に落ち、すっきりとした気分になる。
「ああ、」
「ゼン…?」
「そうか…」
「?」
 一人だけで納得した様に短く呟くゼンの顔を、ファナはじっと見つめる。何処か嬉しげなそれは、清々しさすら交えている。
 ゼンの漆黒の瞳がファナを捕らえた。
「ファナ、…さっきの答え、なんとなく分かりそうだ」
「え、」
「一人も、二人も一緒なんだ…。一人で苦しいことも、二人なら半減する時があるとは思わないか?」
「ぁ、…」
「俺はお前と一緒にいて、不幸だと思ったことはない。一度も、な」
「っ…!」
 優しく話し掛けるゼンに対して、ファナは息を詰めた。その後に言葉はなかなか続かない。瞳は涙に揺らぎ始める。覗き込むまっすぐな瞳を避けて伏せれば、大粒の滴がぽとりと落ちた。頬に緋色の髪をゼンは優しく撫ぜる。そっと胸に抱いてやれば、その小さな身体から温もりが伝わってきた。ファナがしゃくり上げる僅かな振動すらも感じ取れる。
「お前は、不幸か?」
「…わ、からな、いです…っ、けど…」
「けど?」
「ゼンが、不幸だと思わないのなら、私は、っ…幸せなんだと、思います…」
「…、」
 ぎゅっと袖を握られて、今度はゼンの瞳が揺らぐ番だった。不安定な心を押し隠す様に、ゼンはファナの背を軽く叩く。唯一の救いは、ファナが俯いていたことだろう。自らの存在意義を求める少女が、それを認めてくれるであろう相手に違う人間に被せて見られたなど、どれだけ傷付けるか計り知れない。緋色が吸収されているつむじを見つめて、ゼンは気付かれない様にため息を吐く。
 こうまでして、似ているものだろうか。
 幸せの定義とは何かとずっと自らに問い続けてきた。そしてそれを問えば必ず、他人の幸せが自分の幸せだと言う答えが返される。
 腕の中の温もりの大きさを確かめ、ゼンはそれを腕の中から離した。肌寒い空気が懐に入り込んできて、ほんの少し物足りない気分になる。
「…だったら、謝るのは無しだ。これから金が必要な時にはこれを使おう。これで仕事をして、金を貯めて、二人で暮らせば良い。な?」
 ファナの緋色の髪に触れる。柔らかいそれは指の間を水の様に流れ、再び白い肌にかかった。それだけでファナは息をのむ。涙に濡れたファナの瞳を、ゼンはまっすぐに捕らえていた。
 恥ずかしげに再び俯いたファナは、しかし何かに気付いたかの様に表情を変えた。そして、唇を尖らせる。それはあまり主張の激しい動きではなかったが、何処か拗ねている様な雰囲気すら伺える。
「………ゼンは、…誰にでもこう言う慰め方、するんですか?」
「あ…いや。そんなことは…」
「そんなこと、ないですか?」
「…分からない」
 明らかに狼狽して頭をかくゼンを見て、漸くファナは笑顔を見せた。
「行きましょうか」
「あ、ああ…」
 そして今度も、手を引かれるがままに立ち上がる。遠くでは、二人の後を追いかける様に鳥が数羽飛び立った。

   ***

 初めて入った『アイ・エフ』の店内は、予想外にも華々しいものだった。他人の顔が良く見えない様に薄暗いのは、扱う物が物だからだろう。それでも足元を照らす鮮やかなネオンは、何処かのバーを思い出す。
 何枚か扉を潜って来たが、会員証の暗証番号を言えば難なく中に入ることが出来た。写真を見せろと言われれば偽造が呆気なくバレてしまう所だったが、ある意味杜撰なセキュリティーに、その時ばかりは感謝した。
「部屋、沢山ありますね…」
「俺たちのは…もう少し奥だな」
 ファナの感嘆の声に、割り当てられた数字の書いてあるメモリーキーを揺らしてゼンは答えた。
 会員にはそれぞれ個室が与えられる。一定ではないそれは、当人しか知らない情報の漏洩を防ぐためらしい。管理人に与えられたメモリーキーには、室内に入る鍵と、データを記録する二つの役割があるのだ。短期間で場所や暗証番号の変わるそれらがハッキングされることはまずなく、情報屋の仕事は滞りなく行なわれる。とは言え、ハッキングする能力があれば、ただで悪戯をするよりは金になる情報屋になれば良いと大抵の人間は考える。一般人対策ではなく、情報を握られては困る会社からの行為が多いのが現状だった。
 空調の利きすぎた通路を二人は無言で進んだ。温かさを通り過ぎた暑さのせいで頭がぼんやりとする。どちらからともなく、姿隠しのためもあるが防寒具としても羽織っていたマントを脱いでいた。
 すると、あまりの暗さに気付けなかったのか、いつの間にか男が目の前に立っていた。奥から出て来たのか、何やら急いでいる様で相手もこちらに気付いていない。はっとした瞬間には時既に遅く、ぶつかってしまった。
「わっ、…」
 ゼンより少しだけ高い長身が揺らぐ。普通はゼンが飛ばされるのだろうが、相手の方がよろめいていた。それほど気を抜いていたのだろうか。短く発せられた声からして若い男だと認識した。
「悪い」
「いや、こちらこそ」
 自らの不手際を認めて軽く会釈すると、男も短く答え、再びネオンに透ける暗闇の中に紛れて行った。危険な情報も取り扱うが故に当たり前の態度だろう。あまり気にも止めずに、ゼンも更に奥を目指した。
 その後をファナが小走りで追う。
「今の人、丁寧な人でしたね。私にも頭、下げて行きましたよ」
「都会人なんてのはそんなものさ」
「そうなんですか?」
「無用な争いごとは避けるに限る」
 やがて鍵と数字が一致している扉に辿り着き、ゼンたちは中に入った。相変わらずの熱気で、どちらからと言うと機械がある分中の方が熱いかも知れない。デスクライトを点灯させれば、大型のパソコンがその姿を見せた。丁度の高さにある机の下に、程よくクッションの聞いた革張りの椅子が行儀良く納められている。
 一脚しかないそれに遠慮がちに座れば、あまり気にした風もなくファナが後ろから覗き込んで来る。それが当たり前だといった様子で、ゼンは何処か申し訳ない気分になった。
 それにしても、初めて見る機械に生唾を飲まずにはいられない。今も、無意識に上下した喉を、音を鳴らさずに落ち着かせるのに精一杯だった。機械になど生まれてこの方小型テレビくらいしか触れたことのないゼンは、目の前の怪物を眺めて口を固く引き結ぶ。ファナも、言うまでもないだろう。




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