Marijuana 4 「不幸って、…何だろうな」 考えた後に漸く発した声はあまりに感傷的だった。懐かしくも感じる言葉遊びに、どうしても声音に哀愁が混じってしまう。 過去にこれを聞いたのはゼンではない。ファナと同じ様な状況でありながら、全く違う境遇にあった少女だった。そしてゼンとは違い、彼女は自分自身の幸せを理解していた。未だに幸せと言う定義の理解に苦しむゼンにとっては、今の問いは本心でもある。 「ゼン」 「……今は、この話はやめよう…」 「……」 低く発した声に、ファナは開きかけた唇を閉じた。ゼンは何かを訴える様なエメラルドグリーンの瞳から目を逸す。そうすると後ろ髪を引かれる気がして、瞳をきつく閉じた。 ただ逃げているだけだとは良く分かっていた。頭の痛い内容に蓋をして、まるで何もなかったかのように振る舞うことこそが解決に繋がるはずのないことも、ゼンは理解していた。そして、それは痛いほど身に染みている。自らも、守りたい相手も危険に晒されるのだ。災厄の根源を断たないと言うことは、そう言うことだ。 とにかくこれ以上聞いていたくないという意識だけが先行するゼンは、この話は終わりだと言わんばかりにゼンは鞄の紐をきつく結んだ。横目にはまだ納得していない様子のファナが俯いたままだが、敢えて声をかけることはしなかった。 不穏なざわめきが胸を掠める。心に触れる毎に、波が大きくなっていく。 幾度となく繰り返された沈黙が二人の間に舞い降りる。しかしそれは今までと違った、重く苦いものだった。雲間から覗く朝日が部屋に差し込んでいるはずなのに、何処か暗黒に迷い込んでしまった様な感覚に陥る。 現実を見つめることの出来ない心が、ゼンを逃避へ追いやったのだ。そんな弱い心が自分の中にもあったのだな、とゼンは内心で嘲る。でも、今はまだその時では――決意を決めるべきではないのだと、自分を納得させた。 そのまま一言も発することなく、半ば自棄になりながらゼンはジャケットに手を伸ばす。端でくしゃくしゃに丸められていたそれを眺めるのにあまり良い気はしなかった。 袖を通す間にも、後ろでファナが動く気配はない。 「ファナ」 名前を呼んでも返答はなかった。 だが、ゼンは続ける。 「公園へ行こう」 「え、…」 「昨日、言ってただろ?公園へ行って、のんびりすごそう」 「…」 それが本来の目的であったはずだ。浮かない顔のファナに、ゼンは出来るだけ平常を努めて繰り返す。 「な?」 「……、はい」 少し戸惑った後に返ってきたのは、何処かぎこちない笑顔だった。 *** 重苦しい空気も、街中に入ってしまえば一瞬で飲み込まれた。街中の喧騒に身を委ねると、まるで自らも雑踏の一部に溶けて消えてしまいそうな錯覚さえ起こる。 「はぐれるなよ」 「は、はいっ」 客寄せのために引かれた手を振り払いながら、ゼンは人の波にのまれそうだったファナを近くまで引き寄せる。真っ昼間から開いている風俗店の娼婦を凄まじい眼光で一瞥した後、再び流れに乗った。様々な匂いに、目眩すら引き起こされる。 やはり、街の空気はゼンの肌に合わなかった。元より静かなことを好むゼンにとって、街は正反対の存在である。 そして、人の中にありながら孤独を感じることを、何より不自然と感じていた。 治安の悪いスラムでは、他人などいないに等しい存在だ。何処までも一人で生き、一人で死に絶える。飢えて死ぬならばそこまでで、そのことを悲しんだりする者もいない。しかし人数も多く裕福な都会であっても、それは全く変わらないのだ。道路に転がる屍体が無残にも踏み付けられるこちらの方が悪いと言えるかも知れないが。無駄に綺麗に光るネオンも、誰かの屍体の上に成立しているのだ。 平気で人を騙し謀るのは社会で円滑に生きて行くための技術だ。しかし快楽のための嘘ならば、生きるための嘘の方がまだましだとゼンは思っていだ。 だからと言って境界線を踏み越え、そして理解してもらいたいとまでは願わない。それでも、脳天気な顔で笑い合う他人を見ると嫌悪が沸き上がる。ぬくぬくと育つ彼らに、劣等意識を感じてしまう。『ジャンク』とは、そう言うものだと理解しながらもだ。誰も知らない苦悩を抱えた身体に、無関心と言う態度が更なる負担をかける。 不意に、固い靴底が道路を踏み付ける音に、同じ様に戸惑い逃げ回っていたあの時の記憶が蘇った。 誰のものかは分からない。だが雑音の中にありながら明瞭に聞こえるそれは確かに存在する。嗅覚がありもしない硝煙と血の匂いに刺激され、一刹那、目の前が暗く閉ざされる。 「…っ!」 力の抜けた片膝が地面に付いた瞬間、世界に光が戻った。そして、まるで胎児が初めて呼吸を覚えた時の様な息苦しい感覚に陥る。酸素の少ない肺は新しいものを渇望して軋む。心臓は、止まっていた分の元を取るためにか激しく脈打った。 意識が飛んでいた。その瞬間がどれくらいの時間だったかは分からない。靴音もなければ、匂いも消えている。そして気が付けば、蹲るゼンの腕を、ファナが掴んでいた。脇を擦り抜ける大衆にのまれはぐれないよう、必死になっている様だった。 「だ、大丈夫ですか?」 服の上から伝わる温かい温度に目眩が遠のき、柔らかい声に意識がはっきりとしてくる。 「…ああ。…人に、酔っただけだ…」 「少し外れましょうか?」 「…そうしよう」 そうして、ファナに導かれるままにゼンは波から離れた。身体が置いてけぼりになり意識だけが先へと行ってしまう人のうねりから離れれば、それだけで気分が回復していく。 「あっちに公園があります。あそこでも良いですか?」 「人がいない所なら、何処でも良い…」 「なら、あそこで休みましょう」 ファナが指差す方向には、その通り公園があった。児童用程小さくもなく大衆用程大きくもない、丁度良い広さだった。真ん中に位置する溜め池には鳥が数羽浮いていて、土を踏み締める鳩が飛び立っては着地する光景は後ろの雑踏を全てなかったことにする程清々しいものだった。家族連れや散歩の老人など数名目につくが、さほど気にならない程度である。 「はぁ、…」 ファナに勧められるまま端のベンチへと腰掛けたゼンは、ぐったりとした身体を大きく上下させて溜まっていた息を吐き出した。見下ろす形で心配そうに見つめているファナを横へ座るよう促して、ゼンは空を見上げる。いつもと変わりない空だった。白い鳥が空を舞えば、その姿は雲に紛れて消えてしまうだろう。 無味な景色の中に混ざっていた鮮やかな緋色が揺れる。 「冷たい飲み物でも、買ってきましょうか?」 「いや、大丈夫だ」 「でも、顔色、悪いですし…」 「俺は平気だ。ファナは何か飲みたいか?」 「えっ、あ、いえ!わ、私はっ…」 「気にするな。飲み物の一つや二つ……」 慌てて手を振るファナに苦笑を返しつつ、本当に気分の良くなってきたゼンは財布を取り出した。しかし中身に手を伸ばした所で沈黙する。 二人の間に流れた奇妙な空気に、ファナは首を傾げた。 「ゼン?」 見れば、苦々しい顔をしている。 「……ない」 「え?」 「…、金がない」 「…………え」 大きな問題の提示だった。簡単に予想出来た、あまりに当たり前過ぎる問題だ。 仕事など数える程しかしていなかったゼンには、貯金が殆どと言って良い程無い。そうでありながら一人ならともかく二人で暮らすとなると、不足分は何処かで補わなければならない。むしろ今までもっただけでもすごいことだろう。 しかしこのままでは残りの食料も尽きた場合、二人とも餓死してしまう可能性が高い。そうなると追っ手に見つかる以前の問題だ。 「どうしましょう…」 ファナの問いに、財布を鞄へ入れた後ゼンはポケットに手を突っ込んだ。 土地の繋がりのないこの場所で働くにはあまりに都合が悪い。か弱いファナを働かせる訳にはいかないし、かと言ってファナを一人にして働きに出る余裕もない。生活に困ったからとトキを頼る訳にもいかない。稼ぎはトキに、そして家計をナズナに任せっきりだった何の生産性もないゼンに、それは難しかった。 今まで雲の様にぼんやりと過ごして来た自分を呪いたくなる。過去に戻る方法があるならば、煙草をふかして空ばかり見つめていた自分を殴りたいと切実に思った。 「くそっ…」 食料を買い込んだ時に気付いておくべきだったのだ。 不甲斐なさに、苛立ちのあまり頭をかきむしった時、何かがベンチの下へ落ち、微かな音を立てた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |