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Marijuana




 空に太陽が昇る。
 くすんだ雲間から、小さく顔を出している。
 黄色を含んだそれは朝露に濡れた道路に反射し、端を行く溝鼠すら爽やかに見せた。荒廃した土地には似合わないそんな風景が、暗闇に覆われた夜よりも不気味な雰囲気を醸し出す。漆黒の向こうに見えない空想の恐怖よりも、目の前に薄くちらつく現実を表している様に感じられるからか。通りに誰一人として存在しないかと思わせる霧の濃さが、その不快感を更に浮き彫りにしていた。
 この霧は昨夜の雨のせいだ。髪を濡らす滴を振り払い、小屋の外にいたゼンは再び薄暗い室内へと戻る。何処に居ようとも、肌に張り付くしっとりとした湿気が変わることは無かった。
 部屋だ小屋だと言いつつも人が三人横になれば埋まってしまいそうな一室の中央で、緋色の髪をした少女が懸命に荷造りをしている。その進行状況など見れば分かるのだが、ゼンは敢えてその問いを形にした。
「終わったか?」
 すると、ゼンが帰って来たことに初めて気付いたかの様な素振りでファナは振り返った。そして頷く。
「もう少しで終わります」
 揺れて露になった首筋には、始めの頃に巻かれていた包帯の姿は見えなかった。
 ゼンとファナが荷物の整理を始めたのは、この小屋を移るためだった。
 逃亡生活において、家を借りる余裕もなければ利益があるはずもない。更には付近に住む人間からいつ密告されるかも分からないリスクが付きまとうのだ。追っ手によって一ヵ所を虱潰しに探索されれば、言うまでもないだろう。それならば金も手間も気遣いも要らない空き家を使うと言う結論に行き着くのは当然だった。そして事実、彼らは転々とする場所で空き家になっている家を見つけてはそこを寝床にしていた。
 そうやって朝を迎えるのが何度目なのか、虚しさに駆られて数えることはやめた。
 不確定な距離で追って来る追っ手を撒くためには、一つの場所にとどまらない方が良い。そしてそれは他人の目にはあまりつかない、寂れた場所が良い。そんな条件からこの夜も、家と呼ぶにはみすぼらしい堀っ建て小屋の様な場所を宿にしていたのだ。
 人の住んでいない家は珍しくもない。殺された。引っ越した。いずれにせよ、些細な理由で二軒に一軒は空き家があるくらいだ。何日歩けども変わらない風景に辟易する。元の住家から離れたかは分からない。離れ、また無意識に戻っている可能性もあるのだ。無意識とは恐ろしい。思考の間にも煙草を探して彷徨っていた手に気付き、ゼンは止めた。
「……」
 手持ち無沙汰に、ゼンも部屋の中頃まで進み出た。そしてファナの隣りに腰を下ろし、肩にかけていた鞄をひっくり返す。ファナが鞄に入れ損ねて転がって来た物を、無言で返してやった。
 今一番上にある物、つまり鞄の一番下に入っていた物は昨晩もくるまっていた薄い布だ。頼りなくもそれなりに夜気を遮断するそれは、出て行く寸前に用意したものだった。物が沢山入るが邪魔にならない程度の大きさの鞄もそうだ。家にある物は全てこれの中に放り込んできた。
 弱肉強食のこの社会では、移動する際に必需品を全て持ち歩くことが原則になっている。彼らと同じ様に暮らす浮浪者に盗られてしまうからだ。そしてそれは、ゼンたちにも当てはまる。自らが苦しくなった時、相手に空きあらば強奪する。当たり前で懐かしい覚悟だった。
 それに、もし持ち金が底をついた時に売れば何とかなるものならば、持っておくに越したことはない。
「あ、」
「?」
 不意に声をあげたファナへ、ゼンが視線を向ける。するとゼンの荷物を見つめていたファナが、慌てた様に手を振った。
「や、そのっ…」
 しかしその視線は、荷物の端に転がる物を凝視していた。
 革の鞘に包まれた、ナイフだった。緩くカーブを描く刀身だけで二○センチメートル前後はある。中に納められた諸刃の剣は、鞘から抜き出せば銀色の肌を煌めかせる。
 遥か昔に奪い取ったものだった。
「これか?」
 今まで一度も使用したことがない。そして未だ用途は見つけていなかった。
 しかし柄を見ただけで分かる年季の入り方は普通ではない。手入れをしたことはないが未だ錆や欠けた部分がないと言うことはそれなりに良いものなのだろう。前の持ち主も、随分と丁寧に扱っていたのだと伺える。
 そのナイフをゼンは手に取った。刃を鞘に納めるための紐を解いて中身を取り出す。出て来た白銀のそれは、僅かな朝日を受けて美しく輝いていた。
 そこで、ゼンはファナの瞳が怯えを含んでいることにやっと気付いた。
「…悪い」
 急いでナイフをしまうと、ファナはゆっくり首を振った。
「使うなんてことにならなければ、私は、それで…」
 ファナの言葉にしっかりと頷いて、ゼンはナイフを出来るだけ鞄の奥へ詰め込んだ。
 気まずさから、床にばらまかれた荷物を適当に戻していく。味気無い携帯食料も後三日は保つだろう。蝋燭も、今は心配することはない。
 やがて、床の上には薄汚れた財布だけが残った。今ではすっかり中身の無くなってしまったそれを捨てずにいるのは、金の代わりに挟まれた一枚の写真のせいだ。ゼン、ナズナ、トキ、そしてもう一人がそろぞれ持っているはずの思い出の写真――それが、その財布をゼンの手元に引き止めている。中を確かめずとも僅かすぎる質量でそれをしっかりと確認する。
「どうかしたんですか?」
 乱雑に行なわれた作業から一転して今や手の止まってしまっているゼンに、ファナが声をかけた。いつの間にかそのあどけない表情が近付いていて、顔の中心に指先が触れた瞬間に、ゼンは少しだけ身体を引いた。無意識なのか。昨日は羞恥と言う態度を見せたのに対し、今はそんなもの微塵も感じさせないでいる。
 唇を固く引き結びのけ反ったまま不動を保っていれば、きょとんと瞬いたファナが苦笑する。
「一人だけで、百面相しているみたいでした」
「…、あ」
 知らない内に、険しい皺が眉間に刻み込まれていた様だった。似合わない感傷にのまれていたのかと、緩く頭を振った。
「…私が、あんなこと言ったから、ですか?」
「あんなこと…?」
 しかし予想もしていなかったファナの問いに、ゼンは首を捻った。それから少しも経たずに、先程の話の内容だと理解する。
「ああ。いや、そんなことないさ」
「…でも」
「こんなもの、使わないに越したことないのは俺にだってよく分かる」
 鞄を擦っても今は柔らかい弾力しか返ってこない。安心しろとばかりに口角をあげて見せた。
「……。本当に使わなくてはいけなくなった時、ゼンは、……」
 しかし、続けるファナの表情は酷く固かった。
「ゼンは、人を殺す覚悟がありますか?」
「…っ!?」
 ファナの言葉に、ゼンは息をのむ。
「私は、…逃げる時、人を一人、殺しました。私はナイフを持っていなかった。ナイフは人を殺しません。人が人を殺します。私の言っている意味が、分かりますか?」
「…、…」
 ファナの小さな唇から漏れる言葉にゼンは何も言い返すことが出来なかった。懺悔の様でいてまるで救いを求めていない声に、理解速度が追いつかない。感情を読み取れないその声は、ただの音として鼓膜に吸収されていく。
「それは何処までも自分本位でないと出来ない行為です。私は、私の邪魔になるものを排除しました。罪悪感は感じてません。だから、…だから、私と生きると言うことは、―――」
 頭を鈍器で殴られた様だった。未だファナの唇は動いているが、ぼんやりとした頭では何も聞こえはしない。ただ、ゼンは目の前の少女を見つめていた。
 『覚悟』と言う言葉だけが、大きく頭の中に木霊する。
「私と生きると言うことは、不幸になると言うことです…」
 違うと、強く言いたかった。
 口が開けば、あるいは本当に声に出していたかもしれない。しかし、まるで全身が麻痺してしまったかの様に、指の先すら動かせなかった。
 ゼンとファナの言う『覚悟』の決定的な違いは、その重大さだった。
 ファナが敢えて口にすることによって、今まで曖昧だったものが急速に形を持ち始める。
 平気で他人を欺き蹴落とし、時には手をかける。ゼンが対峙しようとしているのは、そういった人間なのだ。殺す気で挑んでくる相手にいつまでも及び腰では平穏など到底叶わない。銃口を突き付けられれば胸や頭に穴が空くのは自分の方だ。身の危険に瀕した時、少なくとも自らを守る力さえなくては、生きるなど絵空事に等しいだろう。逃げ続けることは簡単だ。しかしその運がいつまで続くとも限らない。何の根本的解決にもならないそれでは、やはり未来は見えなかった。



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