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Marijuana




 目を開けば、薄汚れた天井が見えた。トタンで出来たそれは脆く、所々開いた穴の向こうに、いくつもの空が眺められる。それはまだくすんだ藍色で、朝日が昇るのはまだ遠いのだと知らせてくれる。
 静かに息を吐いたファナは、薄い布の下で寝返りをうった。ごわごわとした布の決して心地良くはない感触も、今では慣れてしまった。牢屋ではむしろ、暖をとるための布すら無かった。それが一転して全てが温かいものに囲まれた生活に変わったが、今の様な環境に再び慣れることが出来たのはゼンのおかげだろう。相変わらず無口な彼は、寒い夜にもつらい生活にも一言も弱音を吐かない。それどころか、挫けそうになるファナを後ろから支えてくれる。どうしてそうまでしてくれるのかは分からないが、ファナ自身も、ゼンを頼りきっていた。
「……」
 いや、知っている。どうして彼が助けてくれるのかを。だからあんな夢を見たのだ。ぶるりと、無意識に身体が震えた。寒い訳ではない。目覚めの良くない夢に、悪寒を感じたのだ。夢に出て来た少女は、ファナに、そして写真で見たあの少女にそっくりだった。
「妹…」
 隣りでは、ゼンが静かな寝息を立てている。自分は、彼の妹に姿を重ねられていることに不満を感じているのだろうか。見張りばかりをしていて疲れたのだろう、眉間に皺を寄せたまま眠るゼンの姿をじっと見つめた。薄い布にくるまり小さくなって眠る姿は、自分と変わらない程幼く見えた。ゼンがファナの支えになっている反面、ファナがゼンの拠り所になっていることもなんとなくは理解出来る。それならば、何も文句を言うことはないのではないだろうか、相互の利益は平均に与えられる。
 そこまで考えて、ファナは首を振った。また、損得で道を選ぶ考え方になってしまっている。
 ゼンを再度見ると、ファナの視線から逃げる様に、彼は寝返りをうっていた。大きな身体を覆う布がずれてしまい、寒いのか、ゼンは更に身体を縮める。
 このままではいけないと、ファナは身を起こした。寒過ぎる訳ではないが、ほんのりと肌を冷やす空気の中で眠り続ければ風邪をひく。布をかけなおしてやろうと手を伸ばした瞬間――何かにそれを阻まれた。
 薄汚い視界で確認したそれは明らかにゼンから伸びて来た手で、暗闇の向こうでは黒い瞳が警戒の色を称えている。
「ぁ、…」
 まるで暗闇の中に生きる豹の様な目付きだった。
 今まで向けられたことのない視線に、ファナは我知らず身震いした。
 しかし、この場にいるのがファナだけだと悟ったのか、ゼンの警戒はすぐに解かれた。鋭かった目付きも、いつものぼんやりとしたものへと変わる。そして緩慢な動きで身を起こした。
「ファナか…」
「ご、ごめんなさい…。起こしてしまって…」
「いや、良い。元から眠っている状態じゃなかった」
「そう、ですか…」
「ああ」
 ボソボソと交わす会話もいつもと変わらない。
 それから二人は、何と会話して良いか分からずに黙り込んだ。夜中であるはずなのに賑わう大通りの往来が遠くで聞こえる。居心地が悪く感じみじろげば、衣擦れの音がやけに大きく響いた。
 こう言ったことは何度もある。そう言った場合は大抵がそのままで、何時しかまた同じ様にボソボソとどちらからともなく会話を始めるのだが。今回はファナが言葉を紡いだ。と言うより、そんな状況にあった、と言った方が良いのかも知れないが。
「あの、…ゼン」
「…ん?」
「手、…」
「……、ああ」
 伸ばした手を掴まれてから、ずっとそのままだったのだ。一瞬はきつく掴まれたもののファナだと認識してからは握力が緩んだために苦では無かったが、ずっと掴まれていては妙に気恥ずかしくなってくる。落ち着きのない様子でそれを暗に表したファナの気持ちを理解してかしないでか、きょとんと瞬いたゼンは、しかし手を離そうとはしなかった。それよりもむしろ、以前にも増して少し強く握られてしまった。
「っ…」
 軟らかい感触を楽しむかの様に何度も指先で触れられ、ファナは頬を赤らめる。恥ずかしさが勝って、何をしているのかと問う気には到底なれなかった。しかし、無表情でファナの腕を握るゼンが、問わずして答えを言ってくれる。
「会った頃は、本当に痩せていたのに…大分、柔らかくなってきたな」
「えっ…」
 どうやら、肉付きを確かめていた様だったのだ。
 真実に気付き、今までの初々しい胸の高鳴りが吹き飛んでしまう。代わりに羞恥ばかりが残ってどうしようもない。
「あまり良いものは食べさせてやれてないが…このままいけば、平均体重には――」
「ゼ、ゼンっ…!」
「?」
「恥ずかしいので、あまり言わないで…欲しいです…」
「…ぁ、わ、悪い…」
 俯いたファナの声が震えていることに気付き、やっとゼンは手を離した。贖罪のために紡がれる言葉は焦りから低くなってしまう。
 ファナの声の震えは、怯えからきたものだと思った。
 ゼンの低い声音は、不機嫌だからだと思った。
 勘違いをしたまま二人は再び黙り込む。暗いままの室内では、誰も、どちらもが赤面していたことには気付かなかっただろう。どうにも今日は上手くいかない。いや、いつも上手くいっている様に見えてそうではないのが現状だろうか。
 わき出た不安に俯くと、目の端に、ゼンが忙しなくジッポの蓋を開け閉めしているのが見えた。そう言えば、二人きりになってしまってから、彼が煙草を吸っている姿を見ることが無くなった。彼は妹の代わりに妹の大好きだった花の香りのする煙草を吸っていた。ならば、妹の代わりになるファナがやってきたせいで、煙草を吸うのを止めたのだろうか。
 点いては消える赤い光を見つめていると、不意にゼンが口を開いた。
「そうだ…」
「はい?」
「日が昇ったら、…街に行こう」
「えっ?」
「こんなに不衛生な場所にばかりいたら、人間だめになるだろ?美味しいものを食べて、綺麗な景色を見よう」
「でも……」
 思いがけない提案に、ファナは戸惑った様に口ごもった。追われている身でありながら日の元に姿を晒すのは自殺行為に他ならない。それが例え極秘に進められているものだとしても、あまりに無謀だった。
 しかし、ゼンは何ともない風に言ってみせる。
「大丈夫さ」
「………」
 果たしてそうだろうか。
 ファナが口ごもるそんな疑念は、当然ゼンの中にもあった。だが、それでも、ファナが怯えるならば自分のそれを見せてはいけないと思っていた。
「気付かれても、俺が守ってやる」
「…!」
 そう呟くと、ファナが顔をあげた。明るくなれば驚いた顔が見えて、暗くなれば息を飲む音がする。視線が彷徨う。数度、ためらう様に口が開かれた。だがそこからは何も発せられない。やがて口は閉じられた。カチカチと石が火花を弾く音しかしない。そして最後にやっと、ぷうと頬を膨らませる表情が見えた。
「…ゼンは、…気障です」
「そ…、そうか?」
「ええ」
「……悪かった」
「別に、責めてはいないです」
「……そうか」
「はい」
 ファナがどんな表情をしているのか気になったが、ゼンは灯を点ける気にはなれなかった。ジッポをポケットに入れ、足元でくしゃくしゃになっていた布を手繰り寄せる。
「…寝ようか」
「はい」
 影の中で小さく頷いたファナも、自らの寝床へと戻ろうとした。だが、その身体をゼンは止めた。ずっと感触に残っている腕を再び取った。今度は柔らかく、優しく掴んだ。
「ファナ」
 そして、自らの横を叩く。
 その合図の意図に気付いたファナは、自分の布を握り締めて、暗闇でも分かるほどにうろたえた。
「で、でもっ…」
 しかし、いくら待てどもゼンの手は離れない。会話も灯も無くなった暗闇は、酷く冷たかった。起きた瞬間と同じ感覚が身体を襲い、ぶるりと筋肉が硬直する。
「な?」
 そう言って、ゼンが暗闇の向こうで苦笑した。
 震えたのは、なにが原因だったのだろうか。ゼンのぬくもりを横に感じて、今では分からなくなってしまった。だが、心の奥に何かが潜んでいる。それは悲しみであったり、憤りであったり、様々な形に姿を変える。
「……ゼン、…私は………」
 それでも、全てを口にしてしまうほど、ファナは強くは無かった。二人並び、二人分の布にくるまって眠る。今はそれだけで良い。だから、口を噤んだ。
「どうした?」
「…いえ…。何でも、ないです…。明日、楽しみですね」
「そうだな…」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 やがてすぐに朝日が差すだろう。
 それまでは良い夢を見れれば良い。
 そう願い、ファナはまた目を閉じた。




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