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Marijuana




 『人は、この世界に幸福など
 ないと言う。だから私は幸福
 を知らない彼らに、不幸は何
 だと問うのだ』


 荒れ果てた大地を踏み締めて思う。
 果たして世界中に生きているどれだけの人間が、自分は幸せだと胸を張って言えるのだろうか。

   ***

 薄暗い、部屋とも呼べない牢獄の様な空間に、一人の少女は横たわっていた。歳の頃は十七くらいだろうか。幼さの残るその寝顔は酷くやつれていて、彼女をより若く見せる。その頬や首には至る所に細かい傷が付けられていた。一番に気になるのは彼女の首にある痣だ。大きな、まるで何かを象っているかの様な大きさの痣だ。
 汚れたタンクトップとズボンから覗く病的に細い四肢は、長い間陽光を受けていなかったのか病気の様に白い。しかし一転して少女の髪は燃える様に緋く、白い肌にかかるそれはよく栄えて見えた。
 白い肌が痣を際立たせ、緋色の髪が隠している様な、そんな風にさえ考えさせられる。
「……、…」
 決して安らかな表情ではなく寝息を立てていた少女は、不意に硬い靴底が床を叩く音に瞼を薄く開けた。こうした環境に長く身を浸していたせいか、少しの物音にすら敏感になってしまった様だ。それは、彼女自身が望んだことではないが。
 少女の瞳が完全に開かれれば、必然的に見慣れた灰色の床がぼやけて視界に入る。少し視線を上げれば見える四角くくりぬかれた小さな空があった。少女の居る薄汚れた部屋と同じ灰色だった。本来ならば見える部分がどれだけ小さくあろうとも遠くに続く空のはずが、立ち込めた雲のせいで低くなっている。それがまるで、彼女は永遠にここから抜け出せないのだと揶揄している様で、陰鬱な気分になった。
「っ…」
 不意に目眩を感じ身体を支えるために腕を動かせば、指先がざらついた床石の感触をありありと伝えてくる。空腹のせいで、胃が微かに音を立てる。
 毎日必ず変わらないこの状況に嘆息を吐くしか、行動が思い浮かばない。いつからこの様な場所に放り込まれていたのかなど、とうに思い出せなくなっていた。ほんの少し前まで、自らの手はもっと小さかったと思う。髪も、肩までだったはずだ。
 思考に浸っていた少女は、一際高く聞こえた足音に警戒を向けた。明らかに、少女がいる場所へと誰かが向かって来ている。時間感覚の狂った少女は、ひたすらに痛みを訴える胃を押さえて思った。
 看守だろうか。
 今日はどんな食事を与えてくれるのだろう。
 いつもはパンが一切れと水が一杯だけなのだ。彼女をこの場所に縛り付ける屋敷の主人は、生かす気があるのだろうかと思える程、『彼女自身』に対しては無関心だった。
 目の前になかなか現われない食事の匂いを嗅ごうとしても、雨の匂いしか届かない。
 やがて、松明に照らされ伸びた影が廊下の角に見えた時、その姿が目に入り、少女は愕然とした。
「………」
 格子を超えて自らの身体に被さってきた影を裂ける様に少女は小さな身体を更に小さくする。そして黒い影を追い、目の前に立った人間を見上げる。そこに立つのは、でっぷりと太った腹を呼吸する度に醜く上下に揺らす、ただ歩くだけでも苦労を要する様な体躯の男だった。松明に照らされた顔は、ひどく醜く歪んで見える。
 屋敷の――彼女をこの場に縛り付けている主人だ。幼い頃の少女を『買った』人間らしい。
 そんな男が、分厚い唇を開き言った。
「気分はどうだ、ファナ」
「…最悪です」
「そうか、なら大丈夫だな」
 噛み付く様に返された言葉に男はクツクツと笑った。まるで子猫にひっかかれただけだと言わんばかりに大して気にした様子も見せず、冷えた目で少女を見下ろしている。
 男は、日に何度もこうして少女―ファナを『観賞』しに来るのだ。かと言って、ファナ自身を観賞する訳ではない。彼女の痣に、興味があるのだ。
「っ…」
 一瞬だけ男の濁った瞳と目が合い、ファナは急いで視線を逸した。
 ファナは、この男の目が嫌いだった。見られているだけだというのに悪寒のするあの不躾な視線を思い出すだけで夜は眠れず、男の居ない時でも吐き気を覚える程嫌悪している。ねと付く様な、身体をはい回る様な声も、彼女にとっては拒絶したいものの一つだった。むしろ、言ってしまえば全てに置いて拒絶を示したいのが本心ではあるのだが。
 その行動を、彼女が平伏の意を表したものだと勘違いした男が、いやらしい笑みを浮かべた。良い気になったのか、鼻歌さえ歌いながら格子の鍵を開ている。
 たった一つの彼女だけだった空気に足を踏み入れてきた男の持つ、不必要な程に束になった沢山の鍵を見つめてファナは言った。
「どうして私をこんな所に閉じ込めておくんですか…」
「閉じ込める、だと?」
「いい加減に私を此処から出して下さいっ…」
 本来ならば敬語など使いたく無かった。だが、そうしなければ男が激昂する。わざわざ痛みを自ら招く程、ファナは馬鹿ではない。
 けれど、痛みを招いても良いと思う程の強い願いが、彼女の口をついて出る。
「それは無理な相談だなぁ」
「私はっ、…私は外の世界を知りたいの…!」
 途端に、男の下卑た笑いが耳障りな程格子の中に響いた。開いていた格子の扉が風に揺られ、キィと鳴る。今ならば、男を突き飛ばせば逃げられるかも知れない。だが、長期に渡って運動の一つもしてこなかった彼女が、果たしてこの巨漢の身体を崩すことが出来るだろうか。もし出来たとしても、逃げている途中に捕まってしまうかも知れない。
「何を考えている?」
「…!」
 長く扉を見つめていたせいか、男が問うた。急いで視線を逸らそうとも、すぐに考えなどバレてしまう。男が鼻で笑って扉を閉めてしまえば、狭い部屋にはファナと男だけになった。否。もとからそうだったのだ。しかし扉が閉められることによって、空間が切り取られる。息苦しさだけがファナを苦しめた。
「逃げようなどと考えても無駄だ。その細い身体でどうやって逃げる?」
 男の身体が少しずつ迫ってくる。影が、ファナの身体を覆う。後退りしようとも、男の汗ばんだ手が細い手首を掴んだ。小さな悲鳴が、息と共に飲まれる。
「まだ死にたくないだろう。儂も、まだ殺したくはないのだよ。貴様の身体は腐らせずに置いておきたいからなぁ…」
「っ!」
 不意に、男の手が首元に触れた。まるで愛撫するかの様に、ゆっくりと筋をなぞられる。
「やっ…」
「怖いか?儂が怖いか?貴様の意志などは必要ない。貴様の外見、…そしてこの痣だけが、儂を満足させるのだ…」
 男が、下卑た声で笑った。
 耳元で声が聞こえる。生温い、気色の悪い吐息がゆっくりと下降する。やがて、首にねっとりとした何かが触れた。
 背中に、怖気が走った。
「いやぁっ!!」
 無我夢中になって、ファナは目の前にある身体を突き飛ばした。男は油断していたのか、あっさりと床に伏してしまう。その光景を見て、ファナは手を付いて身体を起こした。逃げなければ。今、逃げなければ、チャンスはもうない。
「ひゃっ…!」
 しかし、男の太い指が歩き出したファナの足を掴んで引きずり倒した。床にこめかみを強く打ち付け、猛烈な痛みに襲われる。朦朧とした視界の中には、憤怒に塗れた男が佇んでいた。
「っあ、…」
 それに怯えた様に後退る彼女は、しかし目の前に佇む巨体を負けじと睨み付ける。手負いの獣の様な視線を受けた男は、さも楽しそうに更に口角を上げて笑った。
「お前には知識など必要ないさ、呪われた子どもめ」
「私は、呪われてなんかっ…!」
「人殺しの烙印を身に付けていると言うのにか…?バカバカしい。誰に吹き込まれたかは知らんが、穿き違えるなよ…知らず周りに危害を加える貴様を、周囲の人間のために保護してやっているのだ」
「違うっ!貴方は私欲のために―――」
「かしましいぞ!」
「きゃあ!」
 ピリリと頬に熱が走り、気付けば少女の瞳には再び床が映っていた。口内には埃と血の混じった味が広がり、じわりと目の奥が熱くなる。目尻に溜まった涙が一筋、灰色の床を黒く染めた。
「おこがましい餓鬼め…」
 唾を吐く様に罵られ、少女の視界は更に歪んだ。それならば何故、手放さないのかと。罵倒を浴びた耳がじんと熱くなる。それに対して、床は冷徹な程冷たかった。
 溢れ出そうなそれを堪えるために目をきつく閉じると、男の吐き出した荒い鼻息が聞こえ、足音が遠のいていった。
 ドクドクと鳴り響く心臓の音は恐れからきたものなのか。
「こ…、…して…」
 少女の零した小さな小さな声は、狭い『牢獄』へと広がり、隅へと届くまでに霧散する。
 震える指で触れたのは、首筋に浮き出ている、呪われた痣。疎ましい印。
「殺して…」
 掠れた声が、ただその唇から漏れた。

 幸せを知らないこの少女は、唯一悲しみを知っていた。




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